山崎雅弘氏のツィッターより転載。
まさに、その言葉のとおりである。私が常々言い、自分でも気をつけているのは、「人は名前を知ったとたん、その物を見なくなる」という、小林秀雄の言葉であり、この「名前」は、特に「レッテル」のことだ。特に、政治の分野において、人は「レッテル的な言葉」を見ただけで自動的に反応する。
だが、名前と実体が正反対なほどに乖離している、というのが政治的社会の現実だ。レッテル的な言葉を見た瞬間に自動的反応の思考をしている人は、本当にはまったく「考えて」すらいないということである。単なるロボット。いい例が今の「阿**」のコメント欄で、そこには、思考も言葉もテンプレートでしかない擬似右翼工作員のコメントで溢れている。ヤフーニュースのコメント欄なども同じである。
(以下引用)
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 16時間前
- 今世紀に世界で最もダイナミックな資本主義的発展を遂げた国の政府が中国共産党で、大統領が聖書に手を置いて就任宣誓する米国が「右の頬を打たれたら棍棒で殴り返す」戦争を繰り返し、言論の自由と民主主義的成熟に逆行する政党が自由民主党を名乗る。形式と実質の乖離は今世紀に急速に進行している。
(参考までに、このブログにも載せてある、私、徽宗自身の古い文章「抑圧された秩序と秩序なき自由5」の一節を抜粋しておく)
我々の日常生活の大半は、論理的思考によってではなく、自動反応(もしくは感覚的反射作用)によって行われている。論理的作業は強靭な意志の支配、思考の統御作用を必要とし、一般の人々には普通、論理的思考の習慣は無い。(これは、最近の国政選挙の結果などを見れば自明であろう。国民は、自分の利益になる政治家よりも、マスコミがもてはやす政治家に票を投じるものであり、マスコミは話題性のある政治家しか取り上げないのだから、つまりは政治家の内容よりも話題性だけが問題となるのである。)人間はいわば出来の悪いコンピューターのようなものであり、外部からの刺激に対し、持ち合わせの解答の中からその時の気分で一つを選んで間に合わせるのである。ということは、人間の(刺激―反応)の傾向を知りさえすれば、人々を支配し、操作するのも容易だということである。
人間性の傾向とは次のようなものだ。第一に我々は、一つの物事に集中している時には、他の事は忘れている。これは奇術の基本原理であり、右手に観客の注意を向けている時、真のトリックは左手で行われているものである。第二に、人間の記憶力はあきれるほど短いものである。特に自分が見たくないものや忘れたいものは簡単に忘れてしまうものである。(マキァヴェリは、このことを「人は自分の親が殺された恨みは忘れても、金を奪われた恨みは忘れないものだ」と皮肉に言っている。)従って、為政者にとって都合の悪い事件も、半年も過ぎれば国民は忘れてくれるのであり、特に官僚の不祥事など、いつ処分が行われ、その後どうなったのかなど、誰も知りはしない。おそらく単に名目的な処分が行われ、半年もすれば前以上の役職に戻っていることだろう。第三に、人間は信じる根拠のあるものを信じるのではなく、信じたいものを信じるのである。これは新興宗教の信者などを見ればよく分かるだろう。彼らにとっては、その時、その神や教祖を信じることが必要だったのであり、外部の人間がその宗教のいかがわしさを言っても、彼らは聞く耳など持たないのである。
こうした人間性の弱点が我々の社会をどう動かしているか見てみよう。
人間が刺激にたいして単純な反応しかしないことを良く示すのは、「レッテル的言葉」である。たとえば「戦後民主主義」という言葉もその一つだ。この言葉が右寄りの思想家によって用いられる場合は、戦後の社会の様々な悪の根本原因というニュアンスをこめて用いており、それはまるで説明不要の、アプリオリな前提であるかのごとくである。「嘘も百回言えば本当になる」とはナチスの宣伝相ゲッペルスの言葉だが、人々も今では右翼的評論家のレッテル的言葉を信じるようになっている。しかし、戦後の様々な悪現象と民主主義との間にいかなる関連があるのか、彼らははたして論証できるのだろうか。後で論証するように、民主主義と社会悪とは結びついてないというのが私の考えである。
我々はこうしたレッテル的言葉を用いた瞬間に、その内容について問う事をしなくなる。これが実は最も重大な人間性の欠陥であり、世の中が改善されない第一の原因であるが、それに気づいている人間は少ない。小林秀雄は、その有名なエッセイの中で「人はある物を言葉で表現した瞬間に、その物自体を見なくなる」という意味の事を言っているが、これは政治の文脈でこそ重大な意味を持つ言葉である。そもそも、たとえば人々が「民主主義」と言う時、何をその意味として用いているか、一概には言えないだろう。
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