「逝きし世の面影」から転載。
「逝きし世の面影」ブログが、おそらくご自身のブログの命名の元となっている本『逝きし世の面影』について語っている記事だが、後半の憲法9条についての部分は、いわば「逝きし世」としての日本(江戸文明)の精神が実は「憲法9条の精神」に継承されている、と論じている。ただし、支配階級としての武士の精神ではなく、被支配階級としての庶民の精神である。
被支配階級の精神と言うと奴隷的精神と見下げられ、論じるにも値しない、とされがち(たとえば孔徳秋水氏が常々口を極めて罵っている「馬鹿国民」「チンパン国民」を想起させる)だが、実は江戸期において本当の意味で幸福だったのは、支配階級の武士ではなく、被支配階級の庶民だったのかもしれない。庶民は「ご政道」はお上の専権事項と考え、お上の暴圧には黙って耐えながら、政治とは無縁の自分たちの生活を平和に幸福に楽しんでいた。日本を訪れた外国人たちが一様に驚いたのが、庶民の幸福そうな顔なのである。これは多くの証言が残されている。
こうした「鼓腹撃壌」の姿を見れば、江戸期の政治について、(たとえば白土三平的な)ただ武士による庶民収奪の政治、という見方は単純すぎるだろうし、また庶民が政治に関わることが本当に可能か、可能だとしても本当に望ましいことかどうか、という「民主主義」への根本的疑問すら生まれてくる。
だが、現在でも実は事態(政治の実体)は変わっていない。庶民は本当は政治になど参加していないのである。国政選挙の棄権率の問題も不正選挙の問題もあるが、選挙で選ばれた議員が公約を簡単に踏みにじり、それが簡単に許容されている状態は、国民主権とは名ばかりのものだということを歴然と示している。その政治の結果、庶民生活が更なる窮乏と抑圧に追いやられてきた、というのがバブル崩壊以降の日本の姿であった。
江戸期の政治と今の政治の違いは、今の庶民が不幸そのものの顔をしていることだけだ。その違いはどこから来たのか。政治のせいではなく、「気の持ち方」が違うのだ、というのがおそらく正解だろう。だが、どんなに能天気で、政治に無関心だからこそ幸福だったにしても、その幸福は戦争によって即座に消滅する。つまり、憲法9条こそが「最後の神」だという宗純氏の指摘は正しいと思う。
今や、国民、特に庶民を守るのは憲法だけだ、と言っても過言ではない気がする。
安倍政治は、その庶民の最後の盾(最後の神)である憲法9条を目の前で破壊しつつある。その後に来る世界は、言うまでもなく「日本人」の破壊された世界である。
憲法9条は世界史上の奇跡だ、と私も思う。
(以下引用)
渡辺京二著『逝きし世の面影』という本がある。
これは幕末から明治にかけて日本を訪れた異人(欧米人)が、当時の日本および日本人をどのように見ていたのかということを、それらの異人が残した膨大な証言録の中から拾い出し、当時の日本の姿を浮かび上がらせようとした本である。
この本の中で浮かび上がってくるかつての日本の姿は驚くべきもので、
この本に登場してくる異人たちは、皆ではないが、ほとんどの者が当時の日本の「優しい文明」に惹かれている。
異人たちは、自分たちが惹かれたものの本質まで見極め切れてはいない。だが、紛れも無く惹かれている。
『逝きし世の面影』
西南戦争の頃に東北地方や蝦夷地に渡りアイヌ部落にも足を伸ばしたイザベラ・バードや幕末に来日したシュリーマンの旅行記を読んで、興味を引かれこの本も読んでみました。いや~ア。はまりました。
資本主義の産業革命以前では有るが、欧米とは異質の価値観を持った高度に発達した文明が日本には存在していた。
妖精のように美しく、はかなく優しげな文明が過ぎし世に日本の国には存在していた事実が描かれている。
今より貧しかったが特異で美しく幸福だったかも知れない二度と戻ってこない失われた文明。
高度に発達した美しく優しく魅力的で、特異な『失われた文明』が遠くインカやマヤ、アステカだけではなく、なんと日本にも150年前に存在していた驚き。
歴史修正主義は、何も靖国文化人だけの専売特許ではない。
『歴史の書き替え』こそが国家のDNAかも知れないが、明治政府が徹底的に過去の歴史に修正を加えた事実が認められる。
新政府は自分達の正当性を証明するために、過去の『文明の痕跡』を徹底的に破壊しつくしたのかもしれない。
『美しかった日本の文明と神殺し』
頼りなく貧弱な体格で貧相な顔立ちの支配者階級(サムライ)と立派な体格と凛々しい顔立ちの被支配者階級(馬丁、職人、船頭、人足)が別の民族に属しているのではないかと考えた外国人もいたようです。
外国では被支配階級と支配階級は別の民族、人種に分かれている場合も数多いですから、そう考えたとしても不思議ではない。
現代人がサムライを武士と考えるから誤解が生じる。260年の平和を維持する為には武力(武士)の必要性よりも行政力(官僚)の必要性のほうが高い。
サムライとは、実質的に行政官僚の、ことだったのでしょう。
在日朝鮮人一世の老人の言った言葉が、今でも気になって仕方が無い。
老人は、自分がどれだけ差別されたか、ひどい扱いを受けたかを激高しながらまくし立て、日本人の無法、非道を非難していたのですが、最後に朝鮮半島から大昔の日本に来た時の印象を、静かに語っていました。
彼は、『今とは比べられないくらい(日本は)素晴らしい国だった』
『信じられないほど良い国だった』
何を指して、素晴らしいと感じたのか。?何がそれ程良かったのか。?
『逝きし世の面影』の時代の神々は廃仏毀釈で滅ぼされ、唯一残った国家神道の神もアメリカによって滅ぼされ、日本は二度にわたった『神殺し』の結果、無道徳、無節操の日本が出来上がったとする、梅原猛の世界がまんざら嘘とも思えない気がしてきました。
『日本の伝統と三度目の神殺し』
今の多くの日本人が、お上(政府)を信用するのは、現在の日本のような、国民国家の特徴です。
150年前の庶民は、「お上」は「お上」、「自分」は「自分」でまったくの別物だと考えていました。
これこそが、本当の日本の伝統というものです。
決して武士道などが日本の伝統などではありません。
(私の思考レベルは150年前の庶民程度に止まっているようです。)
民主主義(民主国家)では建前上、主権者は国民ということになっているので、「お上」と自分を混同する慌てモノが、自然と出てくるような、仕組みになっています。
『最後の神としての憲法9条』
憲法9条はアメリカが日本を律するために与えたとする説(アメリカ押し付け説)もあるが、本当は憲法9条が、元々150年前に日本に存在した「江戸文明の精神」を一番正確に継承している。
『いかにして戦争に勝つか』を考えるのではなく『いかにして戦争を起こさないか』『いかにして戦争に巻き込まれないか』を最優先事項で有ると考えていた。
江戸文明では幕府によって日本全体で徹底した軍備の縮小が図られ最低限度の『警察力』程度の軍備しか保持していなかった。
日本国憲法の成立には不思議な偶然があるようです。
GHQ(アメリカ)が深く関係しているのは疑いないでしょう。
当時ドイツと日本、人口が殆んど同じ両敗戦国のアメリカのコミットの仕方が大きく違ってくる。
2000万人を動員したドイツが(アメリカにとっては)主敵で、600万人しか動員できなかった日本の占領には四個師団しか使わなかった。
文民も一番優れた人材はドイツに送られた。
日本に来たのは、国務省内の主流派には、決してなれない人達だったのです。
アメリカにとって最も優れた人(強者の倫理の信奉者)ではない人々が、日本の憲法の筋道を作っていきます。
彼等は、決して自分の国内では、絶対実現できない理想を夢見たのです。
そして日本国憲法は出来ました。
日本国憲法は生まれたその日から、邪悪な者達の憎悪の対象だったのです。
そう言う意味では、イエス・キリスト誕生の伝説と似通っています。
『憲法9条とは、日本人に残された最後の神ではないか』
憲法をひもとくまでもなく現行象徴天皇制は其の存在を憲法に委ねている。
憲法99条を引き合いに出すまでもなく、今上明仁天皇が9条を含む平和憲法を八百万の神々や先祖神の1つに加えることは十分に有り得る。
靖国派は自分達の神を殺したのが9条であると誤解、逆上、逆恨みの結果、平和憲法改正を主張していますが、
三度目の神殺し(9条改廃)が行なわれれば、其れは日本社会の道徳、倫理を根本的に破壊し、日本国にとって立ち直れない程の、致命的打撃を与えるでしょう。
(以下略)
「逝きし世の面影」ブログが、おそらくご自身のブログの命名の元となっている本『逝きし世の面影』について語っている記事だが、後半の憲法9条についての部分は、いわば「逝きし世」としての日本(江戸文明)の精神が実は「憲法9条の精神」に継承されている、と論じている。ただし、支配階級としての武士の精神ではなく、被支配階級としての庶民の精神である。
被支配階級の精神と言うと奴隷的精神と見下げられ、論じるにも値しない、とされがち(たとえば孔徳秋水氏が常々口を極めて罵っている「馬鹿国民」「チンパン国民」を想起させる)だが、実は江戸期において本当の意味で幸福だったのは、支配階級の武士ではなく、被支配階級の庶民だったのかもしれない。庶民は「ご政道」はお上の専権事項と考え、お上の暴圧には黙って耐えながら、政治とは無縁の自分たちの生活を平和に幸福に楽しんでいた。日本を訪れた外国人たちが一様に驚いたのが、庶民の幸福そうな顔なのである。これは多くの証言が残されている。
こうした「鼓腹撃壌」の姿を見れば、江戸期の政治について、(たとえば白土三平的な)ただ武士による庶民収奪の政治、という見方は単純すぎるだろうし、また庶民が政治に関わることが本当に可能か、可能だとしても本当に望ましいことかどうか、という「民主主義」への根本的疑問すら生まれてくる。
だが、現在でも実は事態(政治の実体)は変わっていない。庶民は本当は政治になど参加していないのである。国政選挙の棄権率の問題も不正選挙の問題もあるが、選挙で選ばれた議員が公約を簡単に踏みにじり、それが簡単に許容されている状態は、国民主権とは名ばかりのものだということを歴然と示している。その政治の結果、庶民生活が更なる窮乏と抑圧に追いやられてきた、というのがバブル崩壊以降の日本の姿であった。
江戸期の政治と今の政治の違いは、今の庶民が不幸そのものの顔をしていることだけだ。その違いはどこから来たのか。政治のせいではなく、「気の持ち方」が違うのだ、というのがおそらく正解だろう。だが、どんなに能天気で、政治に無関心だからこそ幸福だったにしても、その幸福は戦争によって即座に消滅する。つまり、憲法9条こそが「最後の神」だという宗純氏の指摘は正しいと思う。
今や、国民、特に庶民を守るのは憲法だけだ、と言っても過言ではない気がする。
安倍政治は、その庶民の最後の盾(最後の神)である憲法9条を目の前で破壊しつつある。その後に来る世界は、言うまでもなく「日本人」の破壊された世界である。
憲法9条は世界史上の奇跡だ、と私も思う。
(以下引用)
『逝きし世の面影』の世界と、『最後の神』としての憲法9条
渡辺京二著『逝きし世の面影』という本がある。
これは幕末から明治にかけて日本を訪れた異人(欧米人)が、当時の日本および日本人をどのように見ていたのかということを、それらの異人が残した膨大な証言録の中から拾い出し、当時の日本の姿を浮かび上がらせようとした本である。
この本の中で浮かび上がってくるかつての日本の姿は驚くべきもので、
この本に登場してくる異人たちは、皆ではないが、ほとんどの者が当時の日本の「優しい文明」に惹かれている。
異人たちは、自分たちが惹かれたものの本質まで見極め切れてはいない。だが、紛れも無く惹かれている。
『逝きし世の面影』
西南戦争の頃に東北地方や蝦夷地に渡りアイヌ部落にも足を伸ばしたイザベラ・バードや幕末に来日したシュリーマンの旅行記を読んで、興味を引かれこの本も読んでみました。いや~ア。はまりました。
資本主義の産業革命以前では有るが、欧米とは異質の価値観を持った高度に発達した文明が日本には存在していた。
妖精のように美しく、はかなく優しげな文明が過ぎし世に日本の国には存在していた事実が描かれている。
今より貧しかったが特異で美しく幸福だったかも知れない二度と戻ってこない失われた文明。
高度に発達した美しく優しく魅力的で、特異な『失われた文明』が遠くインカやマヤ、アステカだけではなく、なんと日本にも150年前に存在していた驚き。
歴史修正主義は、何も靖国文化人だけの専売特許ではない。
『歴史の書き替え』こそが国家のDNAかも知れないが、明治政府が徹底的に過去の歴史に修正を加えた事実が認められる。
新政府は自分達の正当性を証明するために、過去の『文明の痕跡』を徹底的に破壊しつくしたのかもしれない。
『美しかった日本の文明と神殺し』
頼りなく貧弱な体格で貧相な顔立ちの支配者階級(サムライ)と立派な体格と凛々しい顔立ちの被支配者階級(馬丁、職人、船頭、人足)が別の民族に属しているのではないかと考えた外国人もいたようです。
外国では被支配階級と支配階級は別の民族、人種に分かれている場合も数多いですから、そう考えたとしても不思議ではない。
現代人がサムライを武士と考えるから誤解が生じる。260年の平和を維持する為には武力(武士)の必要性よりも行政力(官僚)の必要性のほうが高い。
サムライとは、実質的に行政官僚の、ことだったのでしょう。
在日朝鮮人一世の老人の言った言葉が、今でも気になって仕方が無い。
老人は、自分がどれだけ差別されたか、ひどい扱いを受けたかを激高しながらまくし立て、日本人の無法、非道を非難していたのですが、最後に朝鮮半島から大昔の日本に来た時の印象を、静かに語っていました。
彼は、『今とは比べられないくらい(日本は)素晴らしい国だった』
『信じられないほど良い国だった』
何を指して、素晴らしいと感じたのか。?何がそれ程良かったのか。?
『逝きし世の面影』の時代の神々は廃仏毀釈で滅ぼされ、唯一残った国家神道の神もアメリカによって滅ぼされ、日本は二度にわたった『神殺し』の結果、無道徳、無節操の日本が出来上がったとする、梅原猛の世界がまんざら嘘とも思えない気がしてきました。
『日本の伝統と三度目の神殺し』
今の多くの日本人が、お上(政府)を信用するのは、現在の日本のような、国民国家の特徴です。
150年前の庶民は、「お上」は「お上」、「自分」は「自分」でまったくの別物だと考えていました。
これこそが、本当の日本の伝統というものです。
決して武士道などが日本の伝統などではありません。
(私の思考レベルは150年前の庶民程度に止まっているようです。)
民主主義(民主国家)では建前上、主権者は国民ということになっているので、「お上」と自分を混同する慌てモノが、自然と出てくるような、仕組みになっています。
『最後の神としての憲法9条』
憲法9条はアメリカが日本を律するために与えたとする説(アメリカ押し付け説)もあるが、本当は憲法9条が、元々150年前に日本に存在した「江戸文明の精神」を一番正確に継承している。
『いかにして戦争に勝つか』を考えるのではなく『いかにして戦争を起こさないか』『いかにして戦争に巻き込まれないか』を最優先事項で有ると考えていた。
江戸文明では幕府によって日本全体で徹底した軍備の縮小が図られ最低限度の『警察力』程度の軍備しか保持していなかった。
日本国憲法の成立には不思議な偶然があるようです。
GHQ(アメリカ)が深く関係しているのは疑いないでしょう。
当時ドイツと日本、人口が殆んど同じ両敗戦国のアメリカのコミットの仕方が大きく違ってくる。
2000万人を動員したドイツが(アメリカにとっては)主敵で、600万人しか動員できなかった日本の占領には四個師団しか使わなかった。
文民も一番優れた人材はドイツに送られた。
日本に来たのは、国務省内の主流派には、決してなれない人達だったのです。
アメリカにとって最も優れた人(強者の倫理の信奉者)ではない人々が、日本の憲法の筋道を作っていきます。
彼等は、決して自分の国内では、絶対実現できない理想を夢見たのです。
そして日本国憲法は出来ました。
日本国憲法は生まれたその日から、邪悪な者達の憎悪の対象だったのです。
そう言う意味では、イエス・キリスト誕生の伝説と似通っています。
『憲法9条とは、日本人に残された最後の神ではないか』
憲法をひもとくまでもなく現行象徴天皇制は其の存在を憲法に委ねている。
憲法99条を引き合いに出すまでもなく、今上明仁天皇が9条を含む平和憲法を八百万の神々や先祖神の1つに加えることは十分に有り得る。
靖国派は自分達の神を殺したのが9条であると誤解、逆上、逆恨みの結果、平和憲法改正を主張していますが、
三度目の神殺し(9条改廃)が行なわれれば、其れは日本社会の道徳、倫理を根本的に破壊し、日本国にとって立ち直れない程の、致命的打撃を与えるでしょう。
(以下略)
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