「組織のようなものにしばられたくない」と若い人たちがどんどん表明しだしたのは、大学での学生運動が下火になりつつあった1970年代後半以降だろう。1980年代は「政治の季節」が去って、個人主義・消費社会へ…と総括されることがあり、そういう単純な総括自体には違和感はあるけども、組織や社会との対立という形で個人の尊厳を重んじる感覚が社会や新しい世代に本格的に根づき始めたとは言えるだろう。
「今日ではほとんど常識」
伊藤整が「組織と人間——人間の自由について」と題して講演し、組織と人間を対立の構図のうちにとらえて、人間=個人の側からの絶望的とも思える抗議をしたのが本評論である。『小説の認識』の中に収められている。
1953年の講演だから、問題意識としてはかなり早くに提起されたものだ。
曾根博義の解説でも
チャタレイ裁判と戦後の資本主義ジャーナリズムのなかでの体験を踏まえ、スターリン批判をもわずかに先取りして、あらゆる組織と政治権力の絶対性と相対性を説いた論文として、当時はきわめて強い衝撃力を持った(p.291)
とする。しかし、続けて
が、その後の社会学や政治学の発展、構造主義的方法の普及などにより、今日ではほとんど常識化され、学問的意義を失っている論文だといってもよい。(同)
とまで言われている。「ダメな言説だった」というのではなく、もう今日ではすっかり当たり前の認識ですよね、というのが解説者の言いたいところだ。
宮本顕治がこれを批判したことも(一部界隈では)知られている。
伊藤整が、「組織と人間」という設定で、組織にある人間の宿命的非人間性という主題をくりかえし書いた。私は、これを信じたことはない。この組織と人間の統一的発展の可能性にこそ、組織を武器にする新しい人間、新しい歴史の前進の保障があると信じている(『宮本顕治文芸評論選集 第四巻』あとがき、新日本出版社、1969年)
絶望的なまでの組織論
伊藤整は何を語ったのか、まず「組織と人間」を読んでみようではないか。岩波文庫でわずか10ページ余ほどの小さな評論である。
伊藤は、「コンミュニスト」たちが自由のために闘いながら、権力を握ると、いや権力を握る以前からその組織においてどういう実態だったかを次のように述べる。
その組織が国家権力を握らないうちでも、その革命的エネルギイが国際的に組織され、その運動の効果が国際的な力の動きに集中するように一々指令されるようになるに従って、そのエネルギイは組織としての独自の生命を個人の生命以上のものとして持ちはじめる。昨日までそういう組織の重いポストに居たものが、今日は裏切りものとして徹底的に論難され、スパイと罵られ、辱められて姿を没する、という例を私たちは近年幾つも見て来た(p.276)
それはそいつが問題だったからだろう? 情勢の困難さに負けてダメになっちゃったんだyo! という言い分を、伊藤は退ける。
それは組織の生命の進展、組織の発展の必然が、ある人間を切り離されなければならなくなった事である。現代の人間は自由な生命と判断と意見とを持つ権利を失い、組織に従属する傾向を強く持っている。そして組織のみが、必要な人間を取り入れ、不要な人間を排除しながら、真の生命としてこの世に生きているように見える。(同)
個人ではなく組織こそが本当に存在している生命体のように見える、と伊藤はいう。それは太古の昔から、人間は社会的存在であり、組織を作って自然と向かい合って来たのだから、そのように作られているのだと説く。
人間として社会を持って以来、我々はちょうど蟻のように、組織の奴隷として絶えず働くことに心の平安を味わっていたのである。(p.277)
「俺たちは自由だ!」などと叫べるのは、ある組織体が崩壊して、次の組織体ができるまでのほんの束の間の解放感にすぎない、とする。
それは資本主義企業はいうにおよばず、批判的精神が必要なジャーナリズムだって同じだし、革命政党だって同じだろ? と伊藤は辛辣に言う。
それは革命党員が、党の組織の生命に食われる人間の生命について、批判を向けることができないと同様である。(p.279)
組織から不当に除名され、処分される個々の人間。そのような排除といじめを行う組織体の在りように批判を向けることなどできないだろうと伊藤は言いたいのである。これを伊藤が書いている時期は日本共産党でいえば「党史上、最大の誤り」*1となった、組織の多数派が少数派を除名・排除し、徹底して痛めつける「50年問題」の真っ最中であった。その現実を目の当たりにしながら、伊藤はこれを書いている。
どんなに多く、私たちは、「僕個人としてはそう思わないが」というこの種の組織の奴隷と化してしまった人々の発言を聞くことだろう。そしてまた、私たちは、どんなにしばしば、知人のコンミュニストたちの顔に、「僕個人としては言いたいことはあるが、しかし党というものに従わねばならないから」といった苦しい表情を見ることであろう。(同前)
なんの疑問も感ぜず処分の「正当性」を便々と論じたり、あたかも「法悦」のごとくの表情をして少数派をいじめるのではなく、「苦しい表情」をみせて絞り出すような弁疏を紡ぐところに、1950年代の当該革命政党の水準と苦悶をみることができる。
伊藤は、これを共産党固有の問題とせずに、組織一般の持つ問題へと普遍化する。
私の印象でいえば、その根本は、人間にとっての自由や真実が存在せずに、ただ組織という見えない怪物が、人間を奴隷としてその中に組み入れ、その組織に役立つものを不当に拡大し、それに役立たないものをはき出し、ふみつぶしながら、ますます強力に発育して行っているということである。(p.280)
独立していたときには「自由」だった個人は、なんらかの事情で組織に組み込まれる。その途端に、自由だったはずの個人が組織の傀儡のようになっていく様子を伊藤は次のように描写する。
これは、政党のような厳格な組織体に限らない。例えば文壇・論壇・ジャーナリズムでデビューしてスターになった文士や作家が、その世界での自分の役割を忖度してポジショントークをするようになってしまうという意味でも伊藤は語っている。ある世界での地位を得ることは自己確立ではなく、その世界=組織の歯車になってしまうことで、自己を喪失するのだと。
このような社会の中で、顕著な存在になり、その存在に商業的政治的価値が生まれると、その人間は、何等かの組織の上層部に、即ち大きな歯車としてはめ込まれる。その時、その人間は以前にオブスキュアな存在であった時の自由らしいものを急速に失って行く。彼の言葉はアイマイになり、彼の態度や表情は決定なしのものになり、その次には自分の言葉を失ってその組織の生命の命ずるとおりの言葉を機械的に繰り返すアヤツリ人形になる。(p.280-281)
彼は党の代言人として、絶えず政治公式への合致を顧慮することによって、人間的真実よりも、組織の発展のための発言を強いられる。この場合もまた自己確立は自己喪失である。(p.281)
組織人としてこの評論を見れば、伊藤のこの評論は、これでもかというほどに組織への絶望を煽っている。人間は社会的動物として組織を使うが、組織からはどうやっても自由ではいられないのだ、と。イライラするだろう。
宮本顕治が原則的解決方向を示した意義
その時に宮本顕治は、「組織と人間」というものの矛盾の原則的な解決方向を示す。すなわち、反組織でもなく、対立的な個人主義の称揚でもなく、組織と個人が統一して発展できるという方向である。50年問題で徹底して排除された少数派の一人であったという、「獄中非転向」と並ぶ、これ以上ないほどの重みから、「組織と人間の統一的発展の可能性」を示すのである。なんといっても彼は、(その後の不十分さや問題点はあるにせよ)その組織の間違いを最終的には正して、組織を大きく発展させる道を開いた一人になったのだから、原則を示しただけとはいえ、びっくりするほどの説得力がある。
伊藤整が述べた組織と人間は、組織をめぐる一つの抗弁し難い現実である。
だからこそ、組織というものに絶望することになりやすい。
絶望し、組織への徹底した対立というテーゼに立てこもってしまいがちなところへ、両者は統一できるという原則的な方向を(自身の体験という説得力をもって)示した意義は大きいだろう。
具体的な解決のための技術・制度・努力なしには伊藤に勝てない
しかしである。
そのような原則を一般的に示したからと言って、伊藤がかけた呪いから、近代人であるぼくらが簡単に救われるわけではない。奥深い山中で迷った人が、「南に行けば出られるようだ。出た人がいる」という原則的方向を知ることは一つの希望ではあるが、問題は、狼が出たり見えない深い谷や崖があったりする危険極まる奥深い山中でどのようにしたら生き延びて、無事に出られるかという、具体的な技術と知識の話がなければならないということなのだ。
つまり、実際に組織の飲み込まれず、組織を生かしながら個の尊厳を確立すること即ち「組織と人間の統一的発展」は、並大抵なことではない。ぼさっとしていれば、あっという間に組織に食い殺されてしまう。
ハラスメントを受けたり、処分され懲罰され追放されたり、心身を病んだり、そうでなくても黙って従う、もしくは自己喪失をして組織のいいなりになっているだけなのにそれを自己確立だと信じ込んだり…。
宮本顕治が言った一般原則をイマドキただ繰り返したり、「組織に目的の正しさだけがあれば大丈夫だよ♫」などという毛沢東やスターリンでも言いそうなドグマを能天気に喋り散らかしたりするだけの「組織論」はなんの役にも立たない。有害ですらある。
問題は具体的な技術である。
(中略)
伊藤の評論は、実は組織への絶望とは言い切れない。
なぜなら、評論の最後を次のように締めくくっているからである。
私は人間が自由であるという大まかな前提を疑うことから出発したい。そして真に生命をもっているのは、人間ではなく組織であり、我々はその奴隷ではないかという怖れを意識することから自由そのものを考えることを始めたい。〔…中略…〕我々がいかに自由でないかを知ること知らせること自体が、あるいは我々を真の自由に一歩でも半歩でも近づけるかも知れない。(p.284)
伊藤は絶望を押し付けて終わりではなく、そこから考え始めるようにしたいと言っているのだ。
現実はかなりシビアだという認識を持てということなのだ。
組織の生命力の過剰なまでの強さをまず認識しろ、その上で、そこから逃れるなり、それを制御するなり、慎重に、そして精密に考えろと言っているのである。
原発をどうするにせよ、それをサモワールのようなお気楽なものだと考えるんじゃない、人間には扱い難いほどの危険で未完成の技術なのだというわきまえがあって、どうするかとという付き合い方が生まれるのでないか、というのに似ている。
「心理的安全性」や「ハラスメント根絶」「民主主義的組織討論」などのような具体的な技術・手続きが綿密に用意されて初めて、「組織と人間」の「統一的発展」にようやく一歩近づけるのである。
具体的な技術・制度・努力を積み重ねることなしに伊藤の問題提起を乗り越えることはできない。
「自己改革」だの「成長」だのをなんの具体化もなくお題目のように唱えているだけなら、その組織は組織体が人間を食い殺す化け物のままであるか、さもなくば見捨てられた当該組織体が遠からず滅びるしかないのである。
「南へ行けば出られそうだ」と最初にリーダーが言った一般的な原則的方向を、その後もずーっと繰り返しているだけで、狼を避け、危険な崖や谷を見つけて超えていく技術や努力を身につけて、具体的なルートを確保しなければ、その部隊は絶対的に遭難する。
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