忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

何でもない日
「ギャラリー酔いどれ」所載の「マスコミに載らない海外記事」より抜粋転載。
8月9日に東京ディズニーランド公報サイトでは「何でもない日おめでとう」と書いたとか言う。
言うまでもなくアニメ「不思議の国のアリス」の「何でもない日万歳!」を転用したものだが、原作の「非誕生日」と「何でもない日」では意味が違ってしまう。
そして、「8月9日」を「何でもない日」とされることはアメリカ人に「12月8日」や「9月11日」が「何でもない日」だと嘲笑するのと同義である、ということを、この「ネズミーランド」の公報担当者が知らなかったのか、それとも知っていてわざとやったのか、という疑問が当然生じたのである。
8月9日はアメリカ人にとっては何でもない日だろう。だが、長崎市民がこの日のことを忘れることは永遠にあるまい。



(以下引用)


☆長崎を標的にする決定

1945年8月1日が、日本爆撃ミッション派遣の一番早い日時であり、ワシントンD.C.の標的委員会は、
通常のUSAAF(アメリカ陸軍航空軍)焼夷弾攻撃作戦
(1945年前半、基本的に無防備の60以上の日本都市を焦土と化す為に、ナパーム弾を用いていた)
から除外されるべき、比較的無傷の日本都市リストを、既に作り上げていた。

焼夷弾攻撃から守られる都市のリストには、広島、新潟、小倉、京都と長崎が含まれていた。
この比較的無傷な5都市には、焼夷弾爆撃攻撃は許されなかった。

これらの都市は、マンハッタン計画が始まって以来、アメリカ中の研究所や、製造工場で、研究され、
開発されている“新機軸”兵器の潜在的標的として、保護されるべきものだった。

皮肉にも、8月6日と9日以前には、これら5都市の住民達は、
他の都市の様に爆撃されない自分たちは幸いだと思い込んでいた。

広島と長崎の住民達は、自分達が、何万人のも生ける人間モルモットが暮らす
都市全体の大量破壊を引き起こす新兵器実験による
更に酷い大量殺りくを一時的に免れているのにすぎないことを全く知るよしもなかった。


☆トリニティー実験

最初で、唯一の原子爆弾実地試験は、冒涜的なことに(明らかにキリスト教用語の)
“トリニティー=三位一体”というコード名がつけられていた。

この実験は、原爆投下に先立つこと三週間、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドでおこなわれた。
結果は見事に壊滅的だったが、爆風は、不運なコヨーテ、ウサギ、ヘビや他の砂漠の害獣を絶滅させただけだった。

アラモゴルドの、プルトニウム原子爆弾は、長崎原爆と同じものだった。

トリニティー実験では、予期せず、後に“トリニタイト”と呼ばれるようになった、
膨大な量の新たな鉱物をもたらしたが、
これは原爆爆破地点上空の太陽温度の二倍もの強烈な熱によって生み出された溶岩塊だった。

1945年8月9日午前3時、(ボックスカーという“洗礼名を授けられていた”)超空の要塞B-29が、
ルター派とカトリックの従軍牧師の祈祷と祝福を受けて、南太平洋のテニアン島を離陸した。

重い貨物を搭載した飛行機が離陸する前、すんでのところで滑走路からはずれるところだったが
(搭載していた原爆は重さ10,000ポンド)、一次標的の小倉に向けて北上した。

ボックスカーのプルトニウム原爆は、ウィンストン・チャーチルにちなんで
“ファットマン”というコード名を付けられていた。

三日前に広島を焼いて灰にした原爆、リトル・ボーイは、
最初はシン・マン(=痩せ男) (ルーズベルト大統領にちなんで)と呼ばれていた。

長崎は日本の軍事参議院が、再度降伏条件について議論をしている最中、灰にされた。

次の会議を 8月9日午前11時に開催する予定だった、東京にある日本の軍事参議院は、
広島で一体何が起きたのか、全く理解していなかった。

それで、メンバー達には、降伏問題に関する緊急性を高める意図はなかった。
軍事参議院は、会議を行いながら、長崎で一体何が起きているかより、
もっぱらロシアの宣戦布告を懸念していた。

だが、それは既に遅過ぎた、軍事参議院メンバーがやってきて、御前会議に向かう頃には、
歴史の流れを変える機会はもはやなかった為だ。

無線封鎖をして飛行しているボックスカーは、既に、日本南部の諸島に接近し、第一目標の小倉に向かっていた。
乗組員達は任務を遅らせてしまう可能性のある予想された台風と雲を切り抜けることを願っていた。

ボックスカー乗組員は、必ず目視照準をした上で、原爆を投下するよう指示されていた。

しかし小倉は雲に覆われていた。そこで、都市上空の雲の上で、原爆投下の為の飛行を三度試み、
エンジン四基中一基のトラブルを経験した後、貴重な燃料も消費した為、爆撃機は二次目標の長崎に向かった。


☆長崎キリスト教の歴史

長崎は、日本のキリスト教史上で有名だ。

長崎は、日本で最大のキリスト教徒の集中地だった。

浦上天主堂は当時の巨大教会で、12,000人の洗礼を受けた信者を擁していた。

長崎は伝説的なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、1549年に伝道教会を建てた場所だ。
長崎のカトリック教共同体は拡大し、ついには続く数世代、繁栄した。
ところが結局、日本にとって、ポルトガルとスペインの商業権益が、日本を搾取していることが明らかになった。
やがてわずか数世代で、全てのヨーロッパ人と、彼等の外国宗教は国外追放された。

1600年から1850年まで、日本では、キリスト教徒であることは、死罪に値した。
1600年代初期、信仰取り消しを拒否した日本人キリスト教徒は、
磔刑を含め、言語に絶する拷問を受けた。
大量磔刑を行った後、恐怖政治支配は終わり、あらゆる観察者にとって、
日本におけるキリスト教は絶滅したかに見えた。

ところが、250年後に、マシュー・ペリー准将の砲艦外交が、沿岸の島を、アメリカ貿易の為に開放させた後、
長崎には、政府には全く知られず、
地下潜伏した形で、洗礼を施された何千人ものキリスト教徒達が暮らしていることが発見された。

この屈辱的な発見の後、日本政府は新たな粛清を開始した。
ところが国際的圧力の為、迫害は止められ、長崎のキリスト教は地上に出現した。
1917年には、政府から何の援助も受けずに、復興したキリスト教共同体が、
長崎の浦上川地区に、壮大なセントメアリー大聖堂を建立した。


☆キリストの名において、キリスト教徒を殺害するキリスト教徒

9300メートル上空から確認可能な、長崎に二つしかない陸標の一つ
(もう一つは、連合諸国の海上封鎖の為、原材料も不足していた、三菱の兵器工場複合体)
である巨大な天主堂が、ファット・マン原爆の爆心地となったのは皮肉の極みだ。

午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒は
ゆだり、蒸発し、炭化し、あるいは天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。

間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、多数の長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった亡骸を包んだ。
長崎の黒い雨の神学的含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。


☆長崎キリスト教信者の死者数

大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。
ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。
12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。

他の多くの人々も極めて致死的な全く新しい病気になった。放射能疾患だ。

近隣にあった三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。
何万人もの無辜のキリスト教信者ではない人々も即死し、更に多くの人々が、致命傷を負ったり、
治療もできないほど負傷したりした。

犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされる、
継代悪性腫瘍や、免疫不全を患っている。

ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。

日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、
アメリカのキリスト教徒は、数秒でなし遂げたのだ。

第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、
日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、
キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。

拍手

PR

コメント

コメントを書く