齟齬 より
上記文抜粋
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すべての社会集団のなかで個人主義者は反逆者でありつづける。
ロシアの革命家、ヴィクトル・セルジュ(1890-1947)がL’Anarchieに記載したエッセイを英訳より訳しました。
なお、セルジュについては山路昭氏のエセー(PDF)が詳しい。
個人主義者と社会
Source: L’Anarchie, No. 323, June 15, 1911;
Translated: by Mitchell Abidor for marxists.org;
CopyLeft: Creative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2006.
社会という言葉は集団の同義語である。今日、ほとんどの人間は莫大な手段(徽宗注:「集団」の誤記だと思うが、「莫大な」という形容詞と「集団」という言葉も合わない。「無数の集団」とでもすべきか。)を構成する。無数の下位集団(人種、国籍、社会階級、イデオロギー集団)に細分されているにせよ、それでもひとつの全体として考えることができる。社会という言葉で我々が示すのは、この全体、恐るべき集団性である。
社会を個人の集合とみなし、その重要性を否定することは、短絡的、あまりに短絡的である。それは社会心理学、群集心理、さらに驚くべきことにはもっとも初歩の観察結果を理解できていないことを意味するのだ。実際に観察が示し、研究が裏づけていることによれば、利益や願望、あるいは似かよった遺伝を通じて人々が一緒になる、その事実によって人間が変化させられるのである。新しい心理が創造され、それが連合の成員すべてに共有される。群衆を構成するという時点で、群衆は、それを構成する個人とは異なるメンタリティ、人生、運命を持つのである。
社会という存在は個人存在を支配する生物学と同じくらい不変であるところのこの法によって支配される。
さて、ここで問題提起しようではないか。これら法は個人にとって好ましいものだろうか? 本能と調和したものだろうか?
すばらしい短文「Precis de Sociologie」でジョルジュ・パラントは書く。「社会はいちど形成されると、自らを維持しようとする」したがって、「すべての領域――経済的、政治的、法的、道徳的――において個人の活力は、共同の有用性のもとに窮屈に屈服する。この規律のもとに屈従しない活力の哀れなことよ。社会はその活力を慈悲もなく破壊あるいは排除する。それは盲目の本能のように、否応なく執念深い。ひどく具体的な形で、社会はショーペンハウアーが「知性と切り離された生への意志」と表現する残酷な力を示している」
盲目の本能のように否応なしに、執念深く振る舞う。それはひどく具体的な形で、ショーペンハウアーが「知性から切り離された生への意志」と表現する残酷な力を表出する」
現代の社会学者のほとんどが認めるように、我々は「社会保護の一般法」をあまりにその肩に重く受けとめているために、このことはいっそう事実である。
このことに「すべての組織化された社会が成員に、行動、外見、意見や理念の一定の同一性を求める社会的コンフォーミティ」と、「結果としてもたらされるコンフォーミズムに反逆する個人を排除する法」を加えたとき、個人と社会のあいだの対立の全容が示される。
我々が理論的に到達した結論の際立つ例を確認するには、ひとめ見渡すだけでいいのである。
実際、その名のもとに各々が万人に潰されるような、いわゆる社会契約よりも不道徳なものはあるのだろうか? 君は労働者に、兵士に、娼婦になるだろう、社会がそれを要求するために。そして一度も合意を求めずに強制された契約によって。君は法律に服従して伝統の下僕となる。慣習法と風習にしたがって生活する。そして伝統、法律、風習は君を制限して発展を妨害し、苦しみを生むのだ。服従せよ、屈服せよ、放棄せよ。そうでなければ隣人が君を非難し追求する。世論はあざ笑い、君の無礼に対して最悪の刑を要求し、法が君を攻撃する。飢え、中傷され、罵られ、名誉を傷つけられた君は、彼らが容赦なく圧殺するところの反逆者となる。
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