嘘の上に築かれた国-米国はいかにして豊かになったか(パート3a)
by Larry Romanoff
3a. 米国労働者の歴史
他の多くの先進国とは対照的に米国は労働組合という概念を受け入れることはなく、米国のメディアは労働者を搾取する危険な社会主義の一種であると悪くいってきた。しかし常に真実は労働者を搾取するのは資本主義であり、労働者を守ろうとするのは社会主義であった。メディアのおかげで今でもほとんどの米国人は現実とは逆の理解をしている。実際、米国政府も企業も労働者や従業員を大切にしてこなかったことは歴史的な記録を見れば明らかである。第二次世界大戦後、恐怖に駆られた賢明な企業の利己主義が穏やかな労働環境を生み出していた短い期間があったが、それは一種の幻想に過ぎず、1980年代になると政府も資本も元の色に戻ってしまい、その幻想は払拭された。1980年代に入ると、厳しい資本主義と法制度の影響を受けて、あらゆる種類の組合に加入している産業界の民間労働者の数は約70%減少した。米国労働者の大多数はまだ労働組合を望んでいたが、反組合の陰謀はあまりにも強力だった。
米国政府と企業は、労働組合を内部から破壊するために腐敗した政治家やその他の役人を労働組合に侵入させるために行動した。この試みが失敗し、労働組合の組織者が成功しそうになると彼らは単に殺されるか、罪を着せられて有罪となり、処刑されることも多かった。米国政府はその歴史において、目的のために法律が不都合になると法律を完全に無視して行動した。その目的の1つは労働組合をつぶすことで、政府は頻繁に労働組合の組織者に対して犯罪容疑をでっち上げただけでなく存在しない法律に基づいて有罪判決を下した。有名な例では、ペンシルバニア州で鉱山労働者の組合を作ろうとしていた労働者の組織者が殺人と共謀の罪で州から告発された。これが不起訴になると組織者と約10人の組合員は「強情」だとして絞首刑に処せられたのである。
2015年2月、サム・ミトラーニは次のような有益な記事を書いた。「警察の起源の真の歴史:社会の主人を守り、奉仕すること」{1}。これは米国の司法制度の起源とその適用を正確に反映している。ここでは、彼のコメントを簡単に編集して紹介する。
問題をこのようなリベラルな方法で捉えることは、警察の起源とその目的を誤解した上で成り立っている。警察は国民を保護し、奉仕するために作られたのではない。少なくとも多くの人が理解しているように、犯罪を阻止するために作られたわけではない。また、正義を推進するために作られたのでもない。警察が作られたのは、19世紀半ばから後半にかけて登場した新しい形態の賃金労働資本主義を、そのシステムの産物である労働者階級の脅威から守るためだった。19世紀以前には、世界のどこにも警察組織と呼べるものは存在しなかった。しかし、北部の都市が発展し、支配階級とは物理的にも社会的にも隔絶された移民の賃金労働者が多く住むようになると、様々な自治体を運営する裕福なエリートたちは、新しい労働者階級の居住区に秩序をもたらすために、何百人、何千人もの武装した人間を雇った。19世紀末の米国では、シカゴのような都市で階級闘争が繰り広げられ、1867年、1877年、1886年、1894年に大規模なストライキや暴動が発生した。これらの騒動では警察がストライキ参加者を過激な暴力で攻撃した。この後警察は自らを警察部隊(Thin Blue Line)とよび、文明(つまり文明の中のブルジョワ・エリート層)を労働者階級の無秩序から守る存在となっていった。このイデオロギーはその後も増殖し、企業の経営者がどんなひどい犯罪を犯してもほとんど起訴されない一方で、下層階級の人々がちょっとした窃盗やマリファナを吸っただけで5年の懲役を食らうのもこの思想からである。
大都市の警察が中立的に「法」を執行していた時代はなかったし、そもそも「法」が中立的だった時代もなかった。19世紀の米国北部では、警察はほとんどの場合、治安紊乱罪や浮浪罪という曖昧な定義の「犯罪」で人々を逮捕した。つまり、警察は「秩序」を脅かすと思われる人をターゲットにすることができたのである。近代以降の南部では、警察は白人至上主義を貫き、黒人をでっち上げの罪で逮捕して囚人労働制度に送り込むことが多かった。警察が行った暴力や、パトロールする人々との道徳的な分離は、個々の警官の残虐性の結果ではなく、賃金労働経済の発展に伴う社会問題に対処するために警察を暴力行使ができる部隊にする、慎重に計画された政策の結果であった。警察は選挙による民主主義と産業資本主義を調和させるために、暴力を行使するために作られたのだ。今日では、警察は同じ役割を果たす「刑事司法」制度の一部に過ぎない。警察の基本的な仕事は、この制度に恨みを持つ人々に秩序を守らせることである。
米国で最も有名な労働者のリーダーの1人である自動車労組のウォルター・ロイターは、社会主義的な考えを持っていたためゼネラルモーターズなどの自動車メーカーの経営者たちから反感を買っていた。ロイターは、労働者の安全と生活に見合った賃金を求めた後、2度の暗殺未遂にあった。さらにロイターが乗っていた自家用機は不審な形で墜落した。ロイターは一命を取り留めたが、同じように不審な自家用機の墜落事故でついに命を落とした。{2} {3} {4}この記事を書いている時点で、FBIはロイターの死に関連する何百ページもの文書の公開をいまだに拒んでいる{5}。意図的な殺害やでっちあげはさておき、米国政府は国家の中でも特異な存在であり、自国民が議会やホワイトハウスを常に支配している資本家と対立すると、軍を使って自国民を弾圧し、残忍な行為を行ってきた長くて汚い歴史がある。また、国民を犠牲にして企業エリートの利益を守り、増やすために、同様に汚い法律を制定してきた歴史もある。{6}
しかし、もっとさかのぼると、共和国成立当初から米国の資本家や政府のDNAに組み込まれていた、非エリートに対する基本的な考え方が見えてくる。1800年代後半までは、ほとんどの人が農業を営み、小さな店を持ち、大工や鍛冶屋、仕立て屋などの商売をし、残りは雑用や臨時雇用で生計を立てていた。この間、工業化の進展に伴って社会が大きく変化し、国民の多くが職を求めて都市部に移住したため独立した農業や零細企業の経営者から、依存度の高い専従労働者へと変化していった。この状況の中、資本家と政府指導者の両方にとってこれらの労働者と生活できる賃金を求める労働者の願望は進歩の敵であった。この時期、労働者たちは、事実上の賃金奴隷状態と労働安全の欠如をほとんど常に一様に訴えていた。一方で政府は、労働者の安全ではなく資本主義の利益を確保するために例外なく非常に冷淡に軍を起用した。
1800年代後半から米軍は、労働者弾圧の主要な手段の1つだった。1894年にシカゴで起きた鉄道労働者のストライキでは米軍が発砲し、数十人の労働者を殺害してストライキを中止させた。{7} {8} {9} 米国の鉱業は、何世紀にもわたって現在と同様に非常に危険な職業であり、鉱山労働者によるストライキは特に頻繁に行われていた。 1914年にはコロラド州でストライキ中の鉱山労働者の集団に米軍が発砲し、ストライキ参加者を殺害してストライキを終結させた{10}{11}。その少し後には、ペンシルバニア州の炭鉱で労働組合を結成しようとした人たちが会社の経営者に射殺され、犯人は短期間の裁判で無罪となった。警察も無縁ではなく、1919年にボストンで行われた警察のストライキは軍が召集されて暴力的に終結し、多くの警察官が殺された{12} {13}{13}。 同年、ワシントンの労働運動家が捕らえられ、拷問を受け、去勢された後でリンチされた。{14}
軍隊も無縁ではなかった。大恐慌が深刻化した1932年、第一次世界大戦の退役軍人約5万人がワシントンに行進し、約束されていた625ドルのボーナスを数年前倒しで支払うよう政府に要求した{15}{16}。 兵士たちは、その多くは家族とともにキャピトル近郊の平地でキャンプを張り、自分たちの窮状への同情を高めたが同情は得られなかった。その代わりに当時のフーバー大統領は警察を送り込み、残忍で暴力的な行為で多くの死者を出した。それが失敗するとフーバー大統領は政府を困らせただけで何の問題も起こしていない「反体制派」を解散させるために、現役の軍隊を送り込んだ。軍隊は偉大なダグラス・マッカーサー将軍に率いられ、当時少佐だったドワイト・アイゼンハワー(後にアメリカ大統領になる)と病的に有名なジョージ・S・パットンを補佐としてキャンプを襲撃して退役軍人に発砲し、催涙ガスで数千人を負傷させ、生まれたばかりの赤ん坊を何人か殺した{17}。マッカーサーは自分の元兵士たちを追い散らしたいために大統領から中止命令を受けても攻撃を続けた。退役軍人たちは追い散らされ、手ぶらで帰っていった。
1920年代には米国の資本家と政府は労働者とその賃金要求を統制するための全国的な計画をすでに策定し、すべての組合組織者と資本主義や政府に対する批判者を特定して妨害することを任務とするタスクフォースを設立した。たくさんの人が容疑もなく、弁護士にアクセスすることもできず投獄された。軍隊の効率も上がり、多くの場合、爆撃機を使ってストライキ中の労働者を空から攻撃するようになっていた。1921年にウェストバージニア州で起きた大規模な鉱山ストでは、数千人の兵士が約5,000人の鉱山スト参加者と銃撃戦を繰り広げた{18}。勝てる見込みがなくなると米国政府はさらに数千人の軍隊を送り込み、爆撃機や戦闘機に加えて化学兵器部隊も投入した{19} {20}。最終的に抗議者たちが降伏すると、生き残った人々は反逆罪で起訴され、投獄された。1930年にはカリフォルニアで数百人の農場労働者が組合を結成しようとして殴られ、逮捕され、「犯罪的社会主義」の罪に問われた{21} {22}{22}。米軍がストライキ参加者を殺害し、残忍かつ暴力的に労働争議を終結させた例は、何十年にもわたり何十件もある。
このような残虐行為を行ったのは米軍だけではない。多くの大企業がストライキ中の労働者に対抗するための常備軍を支持した。ジョン・ロックフェラーはその中でも最悪な一人だが、彼だけではない。1927年には、コロラド州にあるロックフェラーの鉱山でストライキ中の鉱山労働者が彼の私設軍隊によってマシンガンで虐殺された。{23} {24} {25} その2年後、ノースカロライナ州ではストライキ中の繊維労働者のグループが待ち伏せされて殺害された{26}。その数年後、サウスカロライナ州で50万人以上の工場労働者がストライキを行ったが、このストライキは米軍と私設軍隊の両方によって激しく弾圧されたため、その後20年間は誰も組合を作ろうとはしなかった。{27}{28} {29}1935年には、オハイオ州トレドの工場でストライキ中の電気労働者が、8つのライフル隊と3つのマシンガン隊を含む1,300人以上の米軍に襲われ、大勢が殺された{30}{31}。その1年前には、サンフランシスコの警察がストライキ中の多くの港湾労働者を射殺し、そのあまりの非道さにサンフランシスコ・オークランド地域全体でゼネストが行われた{32} {33}。メディアは資本家側につき、「共産主義者の扇動者が街を支配した」と主張した。
特に悪名高いのは「ラドローの虐殺」と呼ばれる事件である。これはロックフェラー家のオーナーの非人間性に対して炭鉱労働者がストライキを起こしたもので、北米の労働史上最も残虐な労働者への攻撃の一つだった{34}{35} {36} {37} {38} {39} {40}。その背景には、労働者は死亡率が非常に高く、賃金が低く、非常に過酷で危険な条件で働かされていたことがある。さらに労働者は現金ではなく買い物券のようなもので支払われ、それは非常に高価なものしか置いていない会社経営の店でしか使用することができなかった。鉱山労働者は労働組合の結成に成功し、安全規制の導入や実費での賃金アップを図った。このような安全性や賃金の問題は米国の産業界では何十年も前から存在していたが、当時の産業界のエリートや政府は、労働者や貧困層に対して強固に団結していた。
この事件では、組合の組織者が鉱山経営者に殺害されたことで緊張がピークに達し、ロックフェラー鉱山の権益に対するゼネストが広まり、労働組合が設置された。鉱山を所有してこの地域の多くを支配していたロックフェラーは組合の要求に激怒し、鉱山労働者全員を社宅から追い出し、真冬の荒野に彼らとその家族をホームレス状態にし、7ヵ月間の継続的な残虐・抑圧プログラムを開始したのである。ロックフェラーは他の多くの米国大企業と同様に、ストライキ中の労働者に対して驚くほど攻撃的な態度をとり、何百人もの武装したチンピラを雇って嫌がらせをしたり、殴ったり、殺したりした。ロックフェラーは、マシンガンを搭載した装甲車を入手し、炭鉱夫たちが野営しているテント地帯を走り抜けて銃撃し、多くの炭鉱夫とその子どもたちを殺した。組合員や組織者は拉致され、殴られた。私設軍隊では抗議者たちの意志を打ち砕けないと判断したロックフェラーは、政府に国家警備隊の派遣を依頼し、好戦的で暴力的な政策を続けた。最終的に政府は国家警備隊に鉱夫たちのキャンプを空にするように命令した。国家警備隊は大規模な火力を持ってキャンプに入り、軍力とマシンガンで約14時間に及ぶ戦闘でキャンプを破壊した。
一人の炭鉱夫が警備隊本部に停戦交渉を試みるために近づいたが、殴られ銃弾を浴びせられた。その夜、警備隊がキャンプ地に入り、たくさんのテントに火をつけ、多くの女性や子供を生きたまま焼き殺し、逃げようとした人々を射殺した。この大虐殺のニュースが広まると全米の労働者は全国的なストライキに突入したが、結局、金の力と米国政府の悪辣な残虐性が最高位にあったため、労働者は完全に弱体化した。殺人などの罪に問われた者は誰一人いなかった。
労働者に対処するために自分の施設軍隊を持っていたエリート資本家はロックフェラーだけではなかった。{41}
冷酷な犯罪資本家が支配する国の中でも、リパブリック・スチール社を所有していたサイラス・イートンは、労働組合を結成しようとする者を射殺する傾向があったという点で特に注目に値する。リパブリック社は軍用火器に催涙ガスなどを加えた武器庫を保有していた。あるストライキの際、警察が何度逮捕しても抗議者たちを解散させることができなかったため、イートンの軍隊は銃、催涙ガス、棍棒を持って突入し、多くの労働者を死傷させた。{42}{43} {44}先に自動車労組のウォルター・ロイターの死を紹介したが、彼は生きているときも最期と同様で、フォード自動車会社の私設軍隊に彼と彼のスタッフは酷く殴られたこともあった{45}{46}。カーネギー家をはじめとするアメリカの裕福なエリート産業家はすべてこの同じ型に当てはまる{47}{48}。
米国の抑圧は他の国とは異なり独特である。米国では政府のいうことをきく企業は人間を食い物にする行為を支援するために米軍の援助を受けることができた。また貧しい労働者に対処するときに独自の施設軍隊をつくってもほとんど完全に免責された。軍隊を持たない企業には3つ目の選択肢があった。不幸な労働者に対する残虐行為の悪名高い源はピンカートン探偵社{49} {50}{50}である。ピンカートン探偵社は、最盛期には世界最大の民間の法執行機関で、米軍より多くの人員を雇用していた。その時期、企業はピンカートン社を雇って組合に潜入したり、労働者を威嚇したり、抵抗する人には軍隊式の暴力を振るった。ピンカートン社は大企業以外のほとんどの人から嫌われ、米国のある都市の市長はピンカートン社を、「誠実な労働者を抑圧するために悪徳資本に雇われる、人殺し、泥棒、殺人者の集まり」と表現した。
低賃金、不十分か存在しない労働者の安全、長時間労働、特に労働災害に対する医療の欠如などの問題は1945年まで続いた。第二次世界大戦中、米国では賃金が凍結される一方、企業の利益は極めて高い水準に達していたため、産業労働者の間には激しい恨みや憤りが生じた。戦争によってストライキが禁止されていたこの5年間、米国では鉱山、鉄鋼、自動車産業を中心に約700万人の労働者による1万4,000件以上のストライキが発生した。ルーズベルト大統領は反乱を強制的に鎮圧するために軍を召集した。
これらの労働問題は、戦時中は賃金凍結やストライキが禁止されていたが、それが解除された戦後になって増加した。1946年の最初の6ヵ月間は、現在米労働省が「この国の歴史上、最も集中した労使紛争の期間」と呼ぶ期間で{52} {53} {54}、 全米の労働者が数十年にわたる残虐行為と不正行為についに反旗を翻したのである。米国の労働者たちは制度がもたらした不幸への怒りと不満でいっぱいになり、危険で低賃金の職業について奴隷になることを断固望まないというところまで到達したが、企業とそのエリートたちはその一方で空前絶後の利益を享受していたのである。その年の1月、20万人の電気労働者がストライキを起こし、続いて10万人の食肉加工業者がストライキを起こし、その数日後には約100万人の鉄鋼労働者が米国史上最大のストライキを起こした。
そのすぐ後には約100万人の鉄鋼労働者が米国史上最大のストライキを行った。続いて、数十万人の炭鉱労働者がストライキを行い、全米の電力供給に支障をきたし、さらに数十万人の鉄道労働者と石油産業労働者がストライキを行った。米国政府は、そのルーツに忠実に軍を使ってこれらの産業拠点をすべて掌握し、トルーマン大統領はこれらの労働者を絞首刑にすると公然と脅し{55}{56} {57}、厳しい刑事罰を提案した。ウォルター・ロイターがついに最期を迎えたのはこのような未曾有の社会不安の中であった。
そしてその後、ほとんど突然に環境が変わった。それは主にエリート層が第二次米国革命への不安を抱いたことによる。このような恨みや反乱の状況があまりにも広まっていたため、社会は急速に不安定になり、無政府状態になり経済的にも破綻が迫っていた。そのため社会契約を見直し、最低賃金や週休2日制、定期的な昇給、安定した、おそらく永久的な雇用への期待など、新たな規範を導入せざるを得なかったのである。休日や健康保険その他の福利厚生も追加されていった。労働の安定、実質賃金の上昇、所得格差の縮小という新しい社会契約は米国に優れた経済パフォーマンスをうみだし、それは約40年間続いた。このような労働力の一貫性と賃金の公平性の向上により、賃金、労働条件、社会的公平性が大幅に改善され、歴史上初めて工場労働者でも家や車、船を所有し、定期的な休暇を取ることができるようになったのである。
さらに重要なことは、この社会契約の大幅な変更と賃金の上昇により、米国史上初めて、中流階級や下流階級の子供たちが高等教育を受けられるようになったことである。雇用で生活費を得ている米国の家庭で、児童労働によるわずかな収入を捨てて子供を学校に行かせる余裕ができたのだ。この根本的に社会主義的なアプローチと技術革新が同時に起きたために米国経済は繁栄し、人々は突然未来への無限の期待を抱いたのである。第二次世界大戦中から戦後にかけて生まれた子供たちは、希望に満ちた雰囲気の中で育った米国人の第一世代である。このような背景から、米国の歴史上初めて、国民が将来への希望を高め、自分たちの子供の生活が自分たちよりも良くなることを期待しているという世論調査結果が出たのだった。これらの感情は、この準革命以前にはいかなる規模でも存在していなかった。米国の中産階級の誕生につながる大規模な社会的変化をもたらしたのは、普遍的でほとんど制御できない労働者の反乱と、広範で全面的な国民の反乱に対する真の恐怖だけだったのである。これらはすべて、米国が残忍な「自由市場」の資本主義社会から社会主義的な民主主義社会へと短期間で変化した結果だった。しかし、それは長続きしなかった。
自分たちの罪を捨てることを余儀なくされた米国のエリートたちは、典型的な米国のやり方に基づき、ユダヤ・キリスト教的な新たな美徳を賞賛しただけでなく、米国は「チャンスの国である」という新たな歴史的神話を作り上げた。こうして生まれたのが「アメリカンドリーム」であり、これはすべてプロパガンダだった。米国の労働者は、地球上で最も虐待される残酷な労働者から、絶望と苦行以上のものを含む生活を送るようになった。そしてハリウッドに代表されるプロパガンダマシンが総力をあげて、物事はいつもこういうふうに良くて、それがさらに良くなっていくと米国人に信じ込ませたのである。そして彼らはそこで止まらなかった。ドリームは年々大きくなり、価値はあっても退屈な定職に就くことなど考えられなくなり、他の国では不可能な富と成功の夢に変わっていった。そしてもちろんエリート資本家たちは、この新しい中産階級からすべてのお金を奪おうと画策し、消費主義と「生活水準」を推進して消費社会を生き方として定着させようとしたのである。それらはすべて、エリートに対する革命的な憤りを架空の未来への偽りの希望に置き換えるために、騙されやすい大衆に対して行われた大規模なプロパガンダキャンペーンによって生み出された作り話だった。
この「労働者の黄金時代」や新しい社会契約、それに伴うプロパガンダは、作り話や神話であっただけでなく、エリートたちが再編成して過去数十年に渡って彼らに貢献してきた政治的・軍事的な力を再構築する間の、一時的な気晴らしに過ぎなかった。エリートと彼らの秘密政府は、米国の田舎者たちにお金を分け与えるために払った金銭的な犠牲に決して満足していなかったため、この状況が長続きすることはなかった。今日、多くの作家や歴史家が、米国の中産階級を消滅させるための工作計画が存在することに同意している。彼らの結論は正しいが、多くの人は、上位1%の人々が今日の中産階級からお金を盗んでいるのではなく、もともと自分たちのものであったものを取り戻しているという重要なことを見逃している。田舎者に富を分け与え、それによって米国の中産階級を生み出した彼らの寛大さは、彼らにとって強制的に押し付けられた異常なことであり、したがって彼らは今、中産階級や下産階級の持つ富をすべて回収することで、それを覆そうとしているのである。簡単に言えば、お金を返せということだ。田舎者の幸福と将来への自信をすべて終わらせ、中流階級の銀行口座をすべて略奪する計画は1970年代にすでに立てられ、1980年代初頭に米国連邦準備制度理事会(FED)が悪質な不況を引き起こしたときに、その復讐は実行された。そしてこれが終わりの始まりだった。2008年の金融危機は、同じくFEDによって引き起こされたもので、プロセスの途中であった。終わりはまだ先だが、賃金泥棒はそれを加速させる一つの方法である。
ポール・クルーグマンが、2015年03月02日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事でこう書いている。
そして、歴史がある。かつての中流社会は、非人間的な市場原理の結果として発展したものではなく、政治的な行動によって、しかも短期間に作られたものだったのである。1940年、米国はまだ非常に不平等な社会だったが、1950年には、経済学者のクラウディア・ゴールディンとロバート・マーゴが「Great Compression(大圧縮)」と名づけた所得格差の劇的な縮小により変貌を遂げていた。これはどのようにして起こったのか。その答えの1つは、政府の直接的な介入であり、特に第2次世界大戦中は政府の賃金設定権を利用して高給取りと低給取りの格差を縮めたのである。また理由の1つは確かに労働組合が急増したことだ。戦時中の完全雇用経済により、労働者に対する需要が非常に高まり、労働者はより高い賃金を求める力が与えられたこともある。しかし重要なのは、戦争が終わると同時に大圧縮がなくなったわけではないということだ。そのかわりに完全雇用と労働者擁護の政治が給与水準を変え、強力な中産階級が1世代以上も存続したのである。また戦後の数十年間は、空前の経済成長を遂げた。{58}
私は、クルーグマンが自国の経済史にこれほど無知であることに驚いている。彼は事実を間違えているだけでなく、出来事に対する理解もせいぜい幼い程度で、最後には米国の歴史の中で最も重要な経済的出来事の一つを馬鹿げたコメントで矮小化しているのだ。「戦後の数十年間は、空前の経済成長を遂げた」と。
ジェームズ・ペトラスは、この時期を「大転換」{59}と分類している。この時期は、米国政府、FED、銀行家、大規模多国籍企業が、驚くほどイデオロギー的に極右化した時期だった。後述するように、これは労働力が使い捨てになった時であり、雇用者と被雇用者の間の社会契約は、すべての忠誠心のふりをして末期的に切断されたがこの社会契約の崩壊は不況のせいではない。ボルカー氏が意図的に不況を演出したのは、社会契約の一方的な書き換えを促進するためだった。1983年の深刻な経済収縮は、不思議な市場の力による偶発的な災害ではなかったことを理解することが重要である。米国のFEDと、FEDを所有しているユダヤ系のヨーロッパの銀行家というエリートたちが意図的に仕組んで実行したのである。ポール・ボルカーはFEDの議長として指示に基づいて行動し、金融と企業の全体像を書き換え、40年間存在してきた社会契約を破壊することを意図して、さらに猛烈な不況を引き起こしたのである。{60} {61} {62} {63}
戦後の社会契約を破壊し、経済状況を再構築する計画は、契約書が書かれた直後から立てられ、実行に移されていた。経済学者のエドウィン・ディケンズは、1950年代から現在に至るまでのFEDの公開市場委員会の記録を調査し、FEDの行動は、労働者をより不安定にし、賃金や労働条件の面でより従順になるような状況を作り出すことで一貫して上位1%の利益を主目的としていると分析している。彼はFEDが、主要な組合契約の期限が切れる直前にマネーサプライとクレジットを意図的に縮小し、差し迫った交渉で賃金や福利厚生を下げさせてきたことを何度も確認している。ジョン・メイナード・ケインズは、FEDや他の民間中央銀行について、「信用制限の目的は、既存の賃金と価格の水準で労働者を雇用するための財政的手段を雇用者から奪うことである…労働者が厳しい事実の圧力の下で貨幣賃金の必要な引き下げを受け入れる準備ができるまで、失業を際限なく増大させる」と書いて、世界に警告していた。{64}言い換えれば階級闘争である。プロパガンダや一般的な信念に反して、 米国FEDの政策は通貨規律の問題ではなく、労働力のコントロールを通した階級の規律であった。FEDが完全雇用を維持するために政策を実行することは、少なくとも米国の略奪的なスタイルの資本主義においては、資本と労働の間に階級闘争を引き起こすだけなので明らかに自滅的なのである。
連邦準備制度は、権力者のニーズに応えるものである。その役割は、労働者の利益から資本を守ることである。労働規律を維持するために連邦準備制度理事会は、労働者が職を失うことを恐れているほど高い失業率を維持する仕事を任されている。
ボルカーは連邦準備制度理事会の議長に任命されると、インフレを打破するという決意を表明したが、彼の本当の決意は労働者の背中を永久に打ち砕くことだった。ボルカーは米国の下層・中層の労働者に対して文字通り血を流すつもりで階級闘争を仕掛けたのである。インフレと戦うと彼は宣言したが、(インフレはFED自身が起こしたものだったが労働者のせいにされた)それはプロパガンダであり、大衆を黙らせ、彼が計画している悪質な攻撃を知らないようにするためのものだった。彼が最初に行ったのは極端なマネーサプライの引き締めで、その結果、アメリカは大恐慌以来の最悪の経済不況に陥った。そして米国の金融システム全体が脅かされたときにだけ金融緩和を行った。この血祭りの間、ボルカーの唯一の関心事は、労働契約の要求と和解の条件だったようだ。彼が唯一やりたかったのは賃金を下げることであり、「平均的な米国人の生活水準は下がらざるを得ない」と繰り返し述べた{65} {66} {67}。上位1%と銀行家という企業エリートたちは、国内の賃金に架空の責任を負わせようとしたが、彼らを動かしていたのは過去の不当な利益の記憶からくる強欲さだけだった。Business Week誌は社説の中で、ボルカー氏の行動が階級闘争的であることをうっかり指摘してしまった。「少ないものでやっていかなければならない人もいるだろう。しかし、多くの米国人にとって、大企業がより多くのものを得られるように、より少ないものでやっていこうという考えは受け入れがたいだろう。」{68}これが物語の全体だった。
IMFのリサーチ部門のディレクターであるマイケル・ムサは、ボルカーのアプローチを高く評価し、次のように書いている。「連邦準備制度は、インフレ対策のために金融引き締め政策を維持するか、不況対策のために金融緩和を行うかという苦渋の選択を迫られたとき、インフレ対策を選択することを示さなければならなかった。言い換えると、信頼性を確立するために連邦準備制度理事会は、血を、たくさんの血を、他人の血を流す意思があることを示さなければならなかった」。{69}そして彼は「他人の血」を流したのである。ボルカーの仕事が終わる頃には、何百万もの製造業の雇用が失われ、賃金は30%以上も下落し、中西部の産業は決して回復することはなかった。ボルカーが放ったもう1つの矢は規制緩和で、さらに賃金を下げ、米国の労働力を破壊することを目的としていた。あるコラムニストはこう書いている。「興味深いことに、この戦争の最大の敵である労働者は、この巻き添えとなった農民やラテンアメリカの人々と同じく、回想の中で言及されることはなかった。しかし、労働者は国家に敵視されるようなことをしたのだろうか?この人たちは、はした金以上のものを求めること以外の何か悪いことをしたのだろうか?」。最近の演説でオバマが「1970年代後半から社会契約が崩れ始めた」と述べた。彼はその原因を十分に認識していながらそれを明言しなかった。
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