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徽宗皇帝のブログ

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北林あずみ氏の「西欧近代主義(欧米至上主義)の毒」論
「北林あずみ(男性)」のブログ記事で、かなりの長文なのでそのほんの一部である。私自身、流し読みしかしていない。しかし、重要な意見や視点が多々あるので、元記事を読むことをお勧めする。だが、かなり苦行だろうなあwww
ちなみに、いろいろな政治ブログの中で、一番見識が高いというか、思考が深く、政治知識があるのが、この北林爺さんではないかと思うが、書く記事が常にあまりに長いという、現代人には耐えがたい欠点がある。
まあ、「隠居爺の世迷言」などが、読みやすさが抜群で、見識も高いのではないか。ただし、「社会主義嫌い」のようで、私とは政治的には反対の立ち位置である。元共産党員の北林氏も「資本主義と社会主義は双子である」論だが、その説明はしていないようだ。そもそも、共産主義と社会主義を同一視していないか? まったく別なのだが。(その説明は何度もした。「程度の違いだ」論を言うなら、猿と人間は同じか? 猿に人権を与えるべきか? )

(以下引用)


 左翼と右翼、そして保守とリベラルに関する、この国に広く蔓延してしまっている「思い込み」がある。
 思い込みとは、いわゆる保守と右翼と、いわゆるリベラルと左翼とは対極にあるとする暗黙の了解のことだ(但し、言葉の厳密な意味での「保守」については除外する)。
 これまでこの国の奥深くにまで入り込み、宿痾のようになってしまっていた、この「思い込み」が、ウクライナ戦争と、イスラエルによるガザ地区に生きるパレスチナ人へのジェノサイドで、激しく揺さぶられ、土煙を上げて崩れ去ろうとしている。その土煙の中に浮かび上がってきたのがおぞましい化け物の貌だ。
 刮目すべきは、そのおぞましい化け物の貌を透かしてみると、これまで対極にあると思い込み、当たり前に対立図式として捉えていた、いわゆる左翼と右翼と、いわゆる保守とリベラルとが、本質的には違いがないということがみえてくる。
 とりわけウクライナ戦争は、その事実を鮮明にみせてくれた。
 この国のいわゆる左翼と右翼と、そして、いわゆる保守とリベラルとが、
「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」という論理で、ひとかたまりになったからだ。「市民連合」を名乗っている、いわゆる知識人たちと、お利口さん達も同様だ。
 間違えてならないのは、この論理は、単純にナショナリズムの論理として「だけ」では捉えられないという点だ。元々がナショナリズムとは国民国家の誕生と切っても切れない関係にあり、だから西欧近代主義と深く繋がっている。
 が、わたしが強調したいのは、そうしたナショナリズムの論理として捉えることによって、その背後に隠れたより重要であり、より本質的なものが見えなくなるという点だ。見えなくなるというのは、欧米至上主義というおぞましい化け物の貌だ。
「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」という論理には、欧米至上主義が色濃く反映されている。欧米諸国とNATOが「ウクライナ=絶対的正義」とし、「ロシア=絶対的悪」として線引きをし、更に驚くべきは、ネオナチ政権と言っても過言ではないウクライナを民主主義国家とみなして、ウクライナ戦争を「ウクライナ=民主主義国家vsロシア=侵略的独裁国家」と色分けし、あろうことか、ゼレンスキーを「人類の普遍的価値」である、自由と平等と基本的人権と民主主義を護るために闘う英雄のように祭り上げている点だ。わたしは驚きと怒りを通り越してめまいを覚えた。
 この国の政党をみると、れいわ新選組以外の政党は、「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」という論理に絡め取られてしまっている。
 そして、欧米と足並みを揃え「ロシア=絶対悪」として諸々の制裁に走り、「ウクライナ=絶対正義」として資金援助と武器供与へと雪崩れ込んで行った。
 世界的にみれば、ウクライナ戦争をめぐっての対応と見方は一枚岩ではない。
 欧米諸国とそれ以外の国の違いを際立たせている。
 こうした温度差の中から浮かび上がってきたのは、資金援助ばかりか、武器供与と武器輸出を行い、ウクライナ戦争にあからさまに介入し、戦争を長引かせている欧米諸国のおぞましい姿であり、欧米の論理の土台にある欧米至上主義という醜悪な貌だ。
 この欧米の論理に、日本共産党までが絡め取られてしまっている。
 日本共産党は、西欧近代主義が高らかに掲げる自由と平等と基本的人権と民主主義を「人類の普遍的価値」として無条件に絶対視し、その「普遍的価値」の中に入り込んでいる、欧米至上主義の「本質的な矛盾と牙」への眼差しがまったくないことを暴露してしまったといえる。
 日本共産党は自民党政権の対米従属を批判し、自主独立の立ち位置での中立的な、そして全方位的な外交を提唱しているが、西欧近代主義の「普遍的価値」を絶対視しているから、中立的な全方位的外交が可能になるはずがない。何故なら、中立的な全方位的外交が、西欧近代主義の「普遍的価値」を絶対視することで歪められてしまうからだ。そして、「普遍的価値」には欧米至上主義の二枚舌の本質が組み込まれてしまっているのだから、無条件で欧米のいう「普遍的価値」を絶対視した時点で、中立的な全方位外交などできるはずがない。
 日本共産党は対米従属を批判しているが、わたしからみれば、
欧米至上主義という檻の中での対米従属批判でしかない。
 その証拠は数限りなくあるが、あからさまになったのは、ウクライナ戦争での欧米諸国と足並みを揃えた「ロシア=絶対悪vsウクライナ=絶対正義」と「ロシア=侵略的独裁国家vsウクライナ=民主主義国家」という認識での立ち位置であり、その立ち位置へと日本共産党を導き、そしてその立ち位置を正当化して露程も疑っていないのが、欧米諸国が高らかに掲げ、日本共産党が絶対視する「人類の普遍的価値」(自由・平等・基本的人権・民主主義)なのだ。
 しかし、欧米諸国が自らの正当性とし、金科玉条としているこの「人類の普遍的価値」だが、イスラエルによるガザに生きるパレスチナ人へのジェノサイドを前にすると、欧米諸国のご都合主義と、身勝手さと、傲慢さが浮き彫りになり、「人類の普遍的価値」が本質として持つ二枚舌を隠せなくなった。欧米諸国のご都合主義と、身勝手さと、傲慢さと、二枚舌とは、言ってみれば欧米至上主義そのものなのだろう。
 イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドを前にしての日本共産党の立ち位置は、基本的には欧米諸国と同じだ。日本共産党はジェノサイドを「イスラエルvsハマス」の戦争という図式の中で捉えているからだ。だから、イスラエルのネタニヤフの狂気の本当の狙いがみえていない。ネタニヤフの狂気は、パレスチナ民族をパレスチナの地から抹殺することだ。すなわち民族浄化だ。
 歴史を振り返れば、シオニズムの悪しき旗を掲げた、イスラエルの侵略的建国の背景にあるのも、欧米のご都合主義と、身勝手さと、傲慢さと、二枚舌だ。
 不思議でならないのは、日本共産党はイスラエルとハマスの戦争(わたしはそう捉えていない。イスラエルがやっているのは、紛れもなく一方的なジェノサイドだ)の停戦を主張するのに、ウクライナ戦争の停戦を主張しないことだ。ウクライナ戦争は、祖国防衛戦争だから、侵略者ロシアに勝利するまで絶対に停戦してはならず、徹底抗戦しろとでも思っているのだろうか。
 欧米諸国は、あろうことかイスラエルを民主主義国家と見なし、ハマスをテロ組織としてみなしている。だから基本的にはイスラエル擁護だ。さすがに世界の世論で、イスラエルの「やり過ぎ」に制限をかけようとしているが、基本的な姿勢には変わりはない。欧米の後ろ盾があるから、イスラエルのネタニヤフの狂気は放置され、極悪非道の戦争犯罪のやりたい放題なのだ。欧米諸国のロシアのプーチンに対する対応と、ネタニヤフの狂気を前にした対応とのこの隔たりをどうやったら正当化できるというのか。
 それでも欧米諸国が高らかに掲げる「人類の普遍的価値」で正当化するつもりなのだろうか。
 正当化などできるはずがない。
 西欧近代主義の「普遍的価値」そのものの欺瞞性と、ご都合主義と、身勝手さと、二枚舌と、そして、その土台にある欧米至上主義という「差別主義」が否が応でも見えてきてしまっているからだ。
 考えれば、アメリカの建国の歴史をみれば、西欧近代主義の「普遍的価値」のご都合主義と、身勝手さと、傲慢さと、二枚舌とが見えてくるだけでなく、「普遍的価値」の血に飢えた性格までがみえてはこないか。
 アメリカという国家は、西欧近代主義が掲げる自由と平等と博愛と、そして基本的人権と民主主義とを「純粋培養」する形で、ヨーロッパ人からみれば真っ新な新大陸に建国されたものだ。視点を換えると、「純粋培養」だけにアメリカ建国の歴史が、西欧近代主義の「普遍的価値」の本質を「純粋に」垣間見せてくれているといえないか。
 新大陸には先住民が暮らしていた。その先住民を虫ケラ同然に殺戮して建国されたのが、アメリカという国家だ。これは紛れもない歴史的事実だ。西欧近代主義の「普遍的価値」に潜むおぞましい貌がみえてこないか。
 わたしはこの西欧近代主義の「普遍的価値」に組み込まれた欧米至上主義と、西欧近代主義が産み落とした資本主義の意志である拡大再生産=膨張主義と、生産至上主義とが、戦争を生み出す原動力になり、地球破壊の原動力になったと思っている。
 皮肉ではある。
 自由と平等と基本的人権と民主主義が、戦争を正当化する口実になっていたと言ったら非難囂々だろう(笑)。
 歴史を辿れば、野蛮国を解放してやり、自由と平等と基本的人権と民主主義の国にしてやったのだ、そのための戦争だったという、ご都合主義で、身勝手で、傲慢で、二枚舌の欧米諸国の論理が浮き彫りになる。

 驚くなかれ、未だにこの論理で無差別爆撃が正当化されている。
 更に驚くことには、日本共産党までがこの論理に嵌まってしまっていることだ。
 が、驚くには当たらない。
 日本共産党の信奉する社会主義は、資本主義とともに西欧近代主義を母として持つ双生児であり、価値観と世界観とを共有している。そして、中核にある機械論的世界観と生産至上主義とを共有している。
 思えば、社会主義によって資本主義を超えられるという発想が、根本的に間違っていたのであり、資本主義の弊害が、社会主義によって乗り越えられるというのは単なる幻想でしかなかったということだ。その幻想が、根本的な資本主義の乗越を阻止していた要因となっていたといえないか。幻想によって民衆が、社会主義と資本主義とが双子であることをみえなくされたからだ。思い込みとは恐ろしいものだ。それが分かるためにどれほどの時間を費やし、どれほどの代償を人類は払ってきたのだろうか。

(中略)

 資本主義がキリスト教の精神的土壌に花開いたことは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)を持ち出すまでもなく広く周知されている。そればかりか、資本主義にはダーウィンの進化論的な世界観が色濃く反映されてもいる。一神教の世界観とダーウィンの進化論の世界観こそが、資本主義における資本の意志だと、わたしは思っている。当然に限りなく、そして、足ることを知らずに貪欲に膨張していく意志を持っている。
 そればかりではない。ハンナ・アレントが『人間の条件』(ちくま学芸文庫)で看破したように、資本主義の本質には「破壊」の意志がある。永遠に拡大再生産するには破壊が不可欠だからだ。破壊こそが消費を生み出す源泉なのだ。戦争は破壊の最たるものだろう。世界市場において需要と供給のバランスを失い恐慌が起これば、戦争による破壊がガラガラポンの役割を果たす歴史的必然性があるのだ。 
 一神教的世界観が土台にあり、その土台にダーウィンの進化論の世界観が組み込まれ、更に、破壊することで膨張していく意志を持っている資本主義が、西欧近代主義と不可分に結び着いたものだとすれば、鶴見和子の想い描いた多様性を抱きかかえた「近代化論」が、許容されるはずがない。
 歴史を辿れば鶴見和子の「近代化論」と真逆の道を歩んだことが分かる。19世紀と20世紀が戦争の世紀だったのがその証拠だ。欧米による一方的な近代化の道こそが植民地主義だ。それは、鶴見和子のいう
「西欧型の非連続的、単系発展型近代」を圧倒的軍事力によって強要することであり、欧米の「普遍的価値」の押しつけであり、それまでの生活基盤と文化と伝統と慣習とが、土台ごと破壊されることを意味した。当然に、抵抗は起こるだろうから、戦争は不可避となる。欧米の植民地主義こそ、欧米至上主義そのものだし、欧米以外は人間とは見なさない差別主義の最たるものだろう。
 ここで留意すべきは、国民国家という概念と民族という概念の植え付けと拡散は、欧米諸国による植民地主義と不可分に結び着いたものだという点だ。ナショナリズムと民族主義という種が欧米以外の地域に蒔かれることになる。批判を恐れずに言えば、ナショナリズムと民族主義は、西欧近代化の産物だといえると思う。
 あからさまな軍事力による植民地主義が終わるとどうなったか。今度は新自由主義の登場だ。経済理論という仮面を被ってはいるが、姿を変えた植民地主義といえないか。
 資本主義の黎明期の古典派経済学の市場における見えざる手(=神の手)の復活だ。市場が果たす調整と調和のメカニズムを神に見立てて絶対化し、その神の手による支配を世界規模で果たそうという目論見であり、そのための自由で平等な競争を可能とする一元的市場を求め、それを神の名で正当化するのだから、一神教の世界観そのものだといえる。
 自由で平等な競争を可能とする一元的市場とはどういうものか。
 この定義にも、欧米のご都合主義で、傲慢な欧米至上主義が色濃く反映されている。いや、欧米のご都合主義と傲慢と二枚舌そのものだろう。

(中略)

 長々と論じてきたが、この国のこれからのあり方を展望したとき、上述したような視点が不可欠だと思っている。
 ウクライナ戦争と、イスラエルによるジェノサイドを目の当たりにして、世界は、欧米至上主義の終焉を迎えたといえないか。そして、新しい世界の姿が、幕を切って下ろした向こう側にうっすらと現れたといえないか。
 わたしにはその姿がみえる。この欧米至上主義の終焉こそが、新しいこれからの世界のあり方の出発点になり、歴史的転換点になる。
 欧米至上主義の終焉と言ったが、それはそのまま、欧米至上主義と対になった西欧近代主義の「乗り越え」を模索する時代になるのだろう。
 哲学と思想のレベルでは、既に、西欧近代主義の徹底的批判と乗り越えは試みられているが、それがいよいよ経済と政治のレベルで行われることを意味していると思う。今村仁司の
『近代性の構造』(講談社選書メチエ)から借りれば、「可能性としての近代の理念を圧殺する方向に」働いてきた経済でいえば資本主義経済と社会主義経済、政治で言うと近代国家のあり方」が根本から見直されなければならないのだろう。これは正しく、新しい生き方と暮らし方のデザインであり、そのためのあるべき国の姿のデザインになるのだろう。
 そのためには、そうしたデザインを描くことを可能とする地点にまで到達している必要性がある。その地点とは、世界が歴史的転換点にあるという認識が前提としてあり、更に、うっすらと新しい世界の姿が見える地点に立っことを意味している。
 この日本という国にあって、その地点に立っている唯一無二の政党がある。
 れいわ新選組だ。
 この事実こそが、れいわ新選組の独自性であり、特異性であり、時代を先取りした先見性なのだ。
 が、残念ながら、れいわ新選組のそうした本質は見過ごされ、軽んじられている。
 この国の数ある政党の中にあって唯一無二、新しい世界が幕を切って落とされようとする歴史的転換点に立っている政党なのに、その事実がみえないばかりか、その可能性を潰す醜悪な政治的潮流が出来上がってもいる。「市民連合」とか「野党共闘」とかであり、前明石市長の泉房穂が仕掛ける、狭苦しく、腐りかけた永田町の世界での、使い古されて手垢が付いた政界再編劇だ。
 れいわ新選組というと「消費税廃止」しかないかのように思われがちだが、それは浅薄な見方であり、奥深くに隠れた本質をみていない。れいわ新選組の土台にあるのは、国民の命を守ることであり、生きるための基盤を守り、そしてより強固なものにすることだ。消費税廃止はそのための必要不可欠な手段でしかない。
 国民の命を守ろうとするから、命を奪い、生きる基盤を根こそぎ奪う原発を否定するのであり、だから福島第一原発の汚染水海洋投棄を正当化する「科学的根拠」を否定できるのであり、「風評被害」とか、「食べて応援」とかの欺瞞性を根底から批判できるのだし、拒絶できるのだ。立憲民主党の党首である泉健太の言動と、半煮え状態の日本共産党の態度と比べれば違いが鮮やかに浮かび上がる。
 そして、国民の命と、生きるための基盤を死守しようとするから、戦争に結び着くものを徹底的に拒否することになる。だから、「ウクライナ戦争=祖国防衛戦争=正義の戦争」の論理を拒絶し、即時停戦を主張できたのだ。
 以前、山本太郎の「地球愛」という直観の意味についてブログに書いたが、この「地球愛」という直観が、山本太郎を更なる高みへと押し上げたのだろう。元々が「3・11」を生きたことで政治家を志した山本太郎だけに、「地球愛」の高みへと昇り詰める必然性はあったのだ。何故ならば、山本太郎は「3・11」に真摯に向き合い、徹底的に拘ったから、「3・11」の衝撃を広島と長崎に投下された原爆の衝撃と同じものとして捉えたはずだからだ。人間の理性と科学が産み落としたものが、人類を破滅へと導くばかりか、地球の生きとし生けるものの命を奪うものだという事実の前に、真摯な心で向き合ったのだろう。そして、人間中心主義の身勝手さと、おぞましさにたじろいだはずだ。わたしがそうだった。
 わたしはその地点から西欧近代主義批判の道へと駈け出したのだが、山本太郎は「地球愛」の心を我がものとしたのだろう。
 山本太郎が到達した「地球愛」の立ち位置にあっては、人間中心主義が否定される。地球の生きとし生けるものの命が平等だという立ち位置になる、合わせて、「地球愛」なのだから、祖国愛=ナショナリズムが相対化されることになる。
 考えてみると、「地球愛」という地点に駆け上がったことで、山本太郎の土台にある、この国の民衆の命を死守し、生きる基盤を守り抜くという意味も、自ずと変わったものになったはずだ。「地球愛」とは、この国の民衆の命だけではなく、地球に生きる民衆の命をも守り、地球に生きる民衆の生きる基盤を守るという高みに登ったはずだ。だから、イスラエルによるジェノサイドを徹底的に否定し、ガザ地区で生きるパレスチナ人への熱い連帯の心を沸騰させたのだろう。
 れいわ新選組のガザ地区に生きるパレスチナ人への連帯の心は、他の政党よりも熱く、そして強い。大石あきこをみれば分かる。
 欧米至上主義のご都合主義と、傲慢さと、身勝手さと、二枚舌とを、国会で徹底的に指弾し、欧米諸国と日本が、イスラエルのジェノサイドに加担していると怒りを込めて批難した。大石あきこは「イスラエルvsハマス」の戦争とは見ていないから、ネタニヤフの目的が「パレスチナの民族浄化」だと見抜けている。こうした視点も、欧米至上主義から自由な大石あきこと、れいわ新選組だから可能なのだろう。
 北朝鮮の偵察衛星の打ち上げ成功への対応も、れいわ新選組だけが独自の見方をしている。党の見解を公表してもいる。意図的に北朝鮮への敵愾心を煽り、戦争前夜でもあるかのような情報操作によって、世論が偏狭的で、差別的なナショナリズムへと雪崩れ込む危険性に、警鐘を鳴らしている。
 れいわ新選組の特異性と独自性はこれ以外にも多々ある。が、長くなったので割愛するが、わたしが言いたいのは、「野党共闘」とか、政界再編とか、れいわ新選組への他の政党からの入党にしろ、そのときの判断基準が、消費税廃止と積極財政だけで判断するのは、根本的に間違っているということだ。それでは、れいわ新選組の独自性と特異性が失われるばかりか、れいわ新選組の本質が壊れてしまうことになる。
 れいわ新選組の土台にあるのは、この国に生きる民衆の命を守ることであり、生きる基盤である暮らしを死守することだ。「だから」消費税廃止なのであり、今やるべきは積極財政の経済政策だというのだ。消費税廃止が先ずあるのではない。積極財政論が先ずあるのではない。そこを見誤ると本末転倒だ。
 消費税廃止がなったとして、戦争に突入したら、それこそこの国に生きる民衆の命は危うくなるし、生きる基盤である暮らしが徹底的に破壊されてしまう。
 消費税廃止を口にし、積極財政論を口にするが、祖国防衛と軍備増強に前向きな議員は数多くいる。原発再稼働に賛成し、中には新しい原発の建設に積極的な議員もいる。
 また、生きる基盤を確保するとなれば、当然に、食料問題は重要となり、食糧の自給はまったなしだろう。気候変動で世界的に砂漠化が広がり、世界規模での食料危機にある時代だ。水資源に恵まれた日本が、農産物を自給せずに輸入に頼っている状況は、世界的に水資源が枯渇し、アフリカ大陸などで飢餓が常態化しているときに犯罪的行為だ。何故ならば、農産物の輸入とは水の輸入に等しいからだ。
 れいわ新選組は、第一次産業の保護政策を掲げ、農産物の輸入自由化に根本的な見直しをしようとしている。連合の意のままにTPPに前のめりだった立憲民主党とは真逆の政策だ。
 もう一度言おう。
 歴史的転換点にあって、世界のあり方が大きく変わろうとしている。
 欧米至上主義が終焉を迎えようとしている。欧米諸国は最後の悪あがきをするだろう。欧米諸国の常套手段である戦争は避けられないだろう。
 野党第一党であり、「市民連合」が野党共闘の中核に据える立憲民主党は、日米同盟堅持だ。日本共産党は対米従属路線を否定しているが、ウクライナ戦争をみれば明らかだが、欧米至上主義に毒されきっている。そればかりか、志位和夫の言動を観察していれば分かるが、中国とロシアに対する憎悪は尋常でない。アメリカが画策している台湾有事を前にしては危険極まりない。とてもじゃないが、戦争を食い止める防波堤にはなり得ないだろう。
 言葉の厳密な意味で、戦争を回避する自主独立の全方位外交が可能なのは、れいわ新選組しかないのではないか。
 れいわ新選組は、消費税廃止と積極財政「だけ」の政党ではない。
 これからの激動の時代にあって、この国の未来を展望するとき、れいわ新選組の可能性と、重要性は否応なしに増すことになる。

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