誰かが書いていたが、最初から答えを見る(書き写す)だけで勉強になるのか、という意見はもっともだと思う。自分で考える作業が無いと勉強にはならないのは当然だ。しかし、大学受験の勉強法としては、「答えを先に見て、なぜその答えが『正解』なのか考える」という勉強法は、実は非常に有効だと思う。私がそういう勉強法をしていれば、東大の文Ⅱ文Ⅲくらいは合格できたかもしれない。我々の時代には東大を目指すこと自体が「異常な人間」だったのである。当然、難関大への勉強法など、普通の高校生はまるで知らなかったし、私のような田舎の高校生だと赤本の存在さえ知らなかった。
私なら、東大に行きたければ、東大の赤本を数種類買ってきて、その「正解」を先に見て、それがなぜ正解とされるのかという「研究」をする。国語などだと、出版社ごとに正解も違うのである。だが、その中に同じ要素があれば、なぜそれが「正解要素」なのか考える。こういう思考が、実は東大的な思考を身に付ける勉強法だろう。京大も同様だ。東大と京大の国語問題は水と油ほども違うのである。それは、大学が求める学生像が違うからだ。東大は冷徹な官僚タイプを求め、京大は研究者や学者タイプ、深い人間性を求めるのだ。
まあ、今もそうかは知らないが。
要するに、東大の国語問題は、「難解な論文的文章を、いかにしてエッセンスだけを捉えて要約するか」というもので、京大の国語問題は「滋味や深みのある古典的要素の強い文章を、いかにして自分の頭と感性で理解するか」というものだったのだ。
(以下引用)
chatGPTはあらかじめ答えを知ってて答え合わせをするには面白いとは思うけど、答えをしらなくて、ChatGPTの結果を妄信するのは怖いと思うね。 全く正しくない回答結果が出ているというレポートもあるし。 外部からの情報や刺激を遮断して勉強に取り組んだ結果、佐藤さんのお子さんが東大医学部に合格したのは良いけれど、そこは出発点でこれから医学の道でどう進むかだろうね。 スポーツでも勉学でも何かに集中して取り組むために他を捨てなきゃならないけど、その結果として捨てたものがのちの人生にどう影響するかだよね。 勉強は一番だけど友達は居ないとかね。 堀江は今の大人の目線で「こんな便利なもの使わないのは・・」って言ってるだけで、子供の成長期の人格形成の大事な時期に必要な情報や経験の取捨選択ってレベルまで思いが行ってないな。
自分の子供を誰が教育(勉学)するのかという話だ。 人間が育てるべきだと思うのならば、人間が育てれば良い。 人間よりもAIの方が優秀だと思うのならば、AIにやらせれば良い。 人間を育てるというのは、物事を沢山正確に知っていれば完璧にできるかというと、そうではない。 何に興味を示すか、何でヤル気スイッチが入るか、いつ何で気晴らしさせるか、全てひとりひとり異なっている。 それが人間だ。 将来はともかくいまのAIに、相手を見て手を変えるという真似ができるだろうか? 50年後ならば、相手によって最善の方法を選択する教育専門のAIができているかもしれない。 いつの時点を想像して意見を言っているのかが、そもそも異なっていると思うぞ。
やはり、堀江には忌避感、嫌悪感しかない。 一体何様なのか、この人は。 まだまだ社会に出たばかり、浸透や導入にもまだまだ時間や慎重さが求められてもおかしくない革新的な新技術に対し、賛否両論が出るのはむしろ自然、当たり前。 実際、各種報道によれば、既に東大を始め各大学でも学生向けのこの新技術の導入に向けてのルール、指針づくりが本格化したようだし。また、今からこれらの策定が進むというのは未だ社会全体で試行錯誤の段階であるということ。 学生向けでさえこうなのだから、まして子ども、小中学生向けの対応についての議論が噴出するのは、むしろ自然、当たり前ではないか。 それを簡単に自身の考えが正しいと決めつけた上で、意に沿わない内容だからといって、なぜすぐその発信者を簡単に、偉そうにバカ呼ばわりするのか。 私からすれば、まともに子育ての経験や苦労も知らない堀江などにこんなこと言える筋合いなどない。
大学での論文というところで言えば、ChatGPTを使わないと論文が書けないようなら、大学に行かなくてもいいんじゃない。 最終的には、自分でその論文が理にかなっているかどうか判断をしなくてはいけないわけだから。他人(機械)がかいた論文が理にかなっているかどうかの判断がつくくらいの知識と勉強をしているので有れば、当然自分で論文が書けていいはずなのでね。ネットに転がってる情報を参考にはするかもしれないけれど。 ただ、使い方をきちんと教えていけば、高校生くらいになればタブレットやPCに頼ったほうがいい場面と、紙の辞書や本を読まなくてはいけない場面とを切り替えるくらいの事が出来るはず。そのような教育が出来ずにただ、アナログだ、デジタルだと二極化する理論にしてしまうのは、普段自分たちがいかに勉強をしていないかということを証明しているだけのような感じがする。
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