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徽宗皇帝のブログ

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多数決における「決断の主体」と「責任者」
昔は、本を読んで分からない部分があっても読み飛ばしていたが、今は特に時間に追われてはいないので、分からないところで立ち止まって考えることができる。この点では若い時より老年のほうが読書に向いているのではないか。まあ、老齢になっても仕事に追われている人や、仕事のほうが読書より面白いという奇特な人の話は別だ。

さるところから貰ってきた本である山本七平の対談集「日本教の社会学」の中の小室直樹の発言で「西洋の場合であれば、責任者を明確にして、そして決断の主体を特定するというところに民主主義の出発点があるわけでしょう」という言葉があるが、一読では意味が分からなかった。その数ページ後に、「近代民主主義の大前提である『作為の契機』」という言葉が出てきて、これも意味不明である。そこで、前に戻って読み直して、先に書いた発言にぶつかり、さらにその少し後に「西洋における多数決というのは、むしろ無限に多くの主張を、多数決という形で一つの主張にしてしまおうと」という部分が出てきて、小室直樹流に言えば、この箇所を「補助線」とすることで最初の疑問箇所が理解できた気がする。
つまり、

1:責任者を明確にして、決断の主体を特定するのが民主主義である。
2:では、複数の人間がいて、複数の意見があれば、どうするか。
3:多くの意見を多数決という形で一つの主張にする。
4:これによって、複数の意見が一つに集約され、さらに
5:全員が決断の主体となり、全員がその決断の責任者になる。(ここ、重要)

ところが、日本の場合は、「多数決」によって、「俺はその意見に反対だった」から「決断の主体」ではない、よって「責任も無い」という、無責任体制が生じ、それが「日本の民主主義」の在り様になっているわけだ。そこで、小室直樹と山本七平は日本人は民主主義を分かっていない、と嘆くわけである。

これは、日本の組織における「責任者の不在」という、重大な問題を解明する、重要な指摘だと思う。

ついでに「近代民主主義の大前提である『作為の契機』」という言葉を解釈してみるが、「契機」とは哲学用語で「必須要素」くらいの意味だと思えばよい。つまり、何かを「為す」ために近代民主主義は存在するのであり、「為す」ためには「決断の主体」と「主体者の責任」が必須である、それが当事者全員であるのを「民主主義」と言う。と解釈しておこう。「為す」べき問題の当事者ではない外野の人間が井戸端で無責任に駄弁を振るう(批評や批判をする)のは民主主義でも何でもない、ということだ。もちろん、批評や批判が無意味だとは言わないがそれ自体は「民主主義」でも何でもない、ということである。







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コメント

1. アメリカの民主主義

保護者が教育委員会の前で行った「脱衣説教」が論理的だと話題、校内でのマスク着用義務を求めて
https://gigazine.net/news/20210831-texas-man-strips-down-underwear-mask-mandates/
Texas Dad Strips Down to Swimsuit at School Board Meeting to Make a Statement About Masks
https://people.com/human-interest/texas-dad-strips-down-to-underwear-at-school-board-meeting-make-point-about-masks/
Board of Trustees - Agenda Review
https://www.youtube.com/watch?v=7W0ztbX6mjg&t=1578s
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