政治的変節、転向というものはよくあることだが、下にウィキペデイアから引用した川田悦子氏については、薬害エイズ裁判の初期のころにその明晰な頭脳と話し振りに感心していただけに、彼女が政治家になってどんな活躍をするかと期待していたのだが、代議士としてはまったく無名の存在で終わったのは残念だった。しかし、下記の記事を見れば、彼女はオポチュニスト(日和見主義者、ご都合主義者)的な人格の持ち主だったように伺われる。頭がよくて弁が立っても、人格的な誠実さの無い人間は、基本的には信じるべきではない、ということだろう。もちろん、誠実であっても政治的演技力の無い馬鹿正直者も政治家にはなれないのだから、難しいところである。
こういう母親の息子だから、川田龍平もまた民主党からみんなの党へ移るという政治的変節、言いかえれば支持者への裏切りをしたわけで、親子はやはり似るようだ。
(以下引用)
元法律事務所職員。遺伝性疾患である血友病に罹患する次男・龍平がその治療に用いられた血液製剤によりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染、薬害エイズの真相究明を求める運動の先頭に立って活動する。2000年10月に、衆議院議員山本譲司の辞職に伴い行われた東京21区補欠選挙に無所属で出馬し、初当選した。院内会派に属さず無所属で活動。2003年の総選挙にも出馬したが落選した。
もともと日本共産党に近い団体である日本民主青年同盟(民青同盟)、新日本婦人の会(新婦人)などに属しており、先に民主党から出馬した家西悟については「出馬するのは勝手だが、自身の当選のために裁判を利用するのはやめてもらいたい」と不快感を表明していた。自身の選挙出馬に際しては、共産党に既に擁立を決めていた公認候補を下ろして自身を推薦候補とするよう要請していた(ただし川田は共産党の側から推薦を申し込まれたと主張)。しかし支援者の1人である中村敦夫が共産党との共闘に反対したため、無党派候補であることを強調するために共産党の推薦要請を撤回し、むしろ中村との関係を全面に押し出すようになった。選挙当時、共産党は「共通の政策で共闘する」「共産党を敵視しない」などの確認事項を発表し、独自に「応援」するという形を取った。
その後川田が中村との関係をますます強め、「自分と共産党との関係は初めから一切無い。支援を受けたことも求めたことも無く、向こうが勝手にやっているだけ」と、共産党に近いスタンスに見られることに不快感を示す発言を繰り返したり、著書で「政党助成金がいらないなら受給した上で私たち無党派議員に配ればいい。それが出来ないのはエゴ」と書くなど、共産党に批判的な言動が目立つようになっていった。これを重大な裏切りと見た共産党は2003年になってから『しんぶん赤旗』2月7日号にて批判するに至った。結局、2003年の総選挙では共産党が独自候補(田川豊)を擁立した。中村のいた「さきがけ」(後のみどりの会議)に近い民主党などの支持も得られず(民主は長島昭久を擁立して当選)、川田は共産の田川と共倒れの形で落選することとなった。
これについて左翼や共産党支持者からも「2003年に当選した民主党の長島昭久は党内右派であり、共産などの『左翼』との共闘を批判している。共産にとって、川田を落として長島を当選させるメリットは(川田個人への意趣返しを別にすれば)ないのではないか」と疑問の声が上がった。しかし川田と田川の得票を合わせても当選には遠く及ばなかったことや、川田が事実と異なる発言を繰り返したこと、一方的に協定を破られて自党を攻撃されたことなど、共産の立場も考えるべきとの反論もある。
現在は「平和への結集」など、革新統一候補擁立運動などに参加。また、無防備地域宣言運動ネットワークの呼びかけ人としても名を連ねている。
こういう母親の息子だから、川田龍平もまた民主党からみんなの党へ移るという政治的変節、言いかえれば支持者への裏切りをしたわけで、親子はやはり似るようだ。
(以下引用)
元法律事務所職員。遺伝性疾患である血友病に罹患する次男・龍平がその治療に用いられた血液製剤によりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染、薬害エイズの真相究明を求める運動の先頭に立って活動する。2000年10月に、衆議院議員山本譲司の辞職に伴い行われた東京21区補欠選挙に無所属で出馬し、初当選した。院内会派に属さず無所属で活動。2003年の総選挙にも出馬したが落選した。
もともと日本共産党に近い団体である日本民主青年同盟(民青同盟)、新日本婦人の会(新婦人)などに属しており、先に民主党から出馬した家西悟については「出馬するのは勝手だが、自身の当選のために裁判を利用するのはやめてもらいたい」と不快感を表明していた。自身の選挙出馬に際しては、共産党に既に擁立を決めていた公認候補を下ろして自身を推薦候補とするよう要請していた(ただし川田は共産党の側から推薦を申し込まれたと主張)。しかし支援者の1人である中村敦夫が共産党との共闘に反対したため、無党派候補であることを強調するために共産党の推薦要請を撤回し、むしろ中村との関係を全面に押し出すようになった。選挙当時、共産党は「共通の政策で共闘する」「共産党を敵視しない」などの確認事項を発表し、独自に「応援」するという形を取った。
その後川田が中村との関係をますます強め、「自分と共産党との関係は初めから一切無い。支援を受けたことも求めたことも無く、向こうが勝手にやっているだけ」と、共産党に近いスタンスに見られることに不快感を示す発言を繰り返したり、著書で「政党助成金がいらないなら受給した上で私たち無党派議員に配ればいい。それが出来ないのはエゴ」と書くなど、共産党に批判的な言動が目立つようになっていった。これを重大な裏切りと見た共産党は2003年になってから『しんぶん赤旗』2月7日号にて批判するに至った。結局、2003年の総選挙では共産党が独自候補(田川豊)を擁立した。中村のいた「さきがけ」(後のみどりの会議)に近い民主党などの支持も得られず(民主は長島昭久を擁立して当選)、川田は共産の田川と共倒れの形で落選することとなった。
これについて左翼や共産党支持者からも「2003年に当選した民主党の長島昭久は党内右派であり、共産などの『左翼』との共闘を批判している。共産にとって、川田を落として長島を当選させるメリットは(川田個人への意趣返しを別にすれば)ないのではないか」と疑問の声が上がった。しかし川田と田川の得票を合わせても当選には遠く及ばなかったことや、川田が事実と異なる発言を繰り返したこと、一方的に協定を破られて自党を攻撃されたことなど、共産の立場も考えるべきとの反論もある。
現在は「平和への結集」など、革新統一候補擁立運動などに参加。また、無防備地域宣言運動ネットワークの呼びかけ人としても名を連ねている。
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