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徽宗皇帝のブログ

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宮台真司の論考
「宮台ブログ」から転載。
学者風の難しい言葉が途中に混ざるのが難点だが、書かれた内容は現在の日本の分析と日本の未来像についての示唆に富んでいる。
日本の未来を建設していくための土台となる優れた考察の一つであると思うので、全文を転載する。


(以下引用)


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「どう生きるのか」という
本当の問いに向き合うとき
        宮台真司


■キーワードは依存
 僕は仙台に生まれた。父親が転勤族だったので子どものころしかいなかった。だが今でも憶えている土地はたくさんある。知り合いも多い。だから今回の地震の震源地が三陸沖だと知って他人事ではいられなかった。家族、友人、知人、いろんな人と連絡を取り合った。
 弟が福島第一原発から35キロ離れた福島県いわき市に住んでいた。震災後なかなか連絡が取れずに気を揉んだ。ツイッターで原発事故情報を流しはじめたのも弟が見て連絡をくれるかもしれないと思ったことが理由のひとつだ。5日後にやっと連絡が取れた弟は幸い無事だった。
 震災と原発事故で日本人の自明性に亀裂が生じる可能性を直感した。日本には平時を前提にした行政官僚制しか社会を動かすものがない。民衆も政治家も行政官僚制を掣肘できない。そのことを意識しないまま民衆も政治家も行政官僚制に依存する。キーワードは依存だ。
 行政官僚は既存のプラットフォーム上で最適化の席次争いをするのが責務。そして本来の政治家は社会環境の変化で既存のプラットフォームが不適切になればそれを刷新するのが責務。行政官僚はプラットフォームが適切であれ何であれ、政治家による刷新に抵抗しようとする。
 ご存じの通り冷戦体制終焉後の急速なグローバル化=資本移動の自由化で、経済分野では、どのみち新興国に追いつかれる産業領域で平均利潤率均等化の法則で労働分配率の低下が起こるから、新興国との競争に耐えて経済指標を好転させることに成功すれば勤労者が貧しくなる。
 政治分野では、かつてあり得たような再配分政策は機能しなくなる。再配分の原資を調達すべく所得税率や法人税率を上げれば工場や本社が国外に移転する。もちろん税収が減って財政がいっそう逼迫し、生活の安定や将来に不安を抱く人々は貯蓄に勤しんで消費をしなくなる。
 かくしてデフレが深刻化すると購買力平価の均衡則によって為替レートが円高となり、企業は輸出競争力を低下させ、それに抗おうとすれば国外に工場や本社を移転するしかなくなる。かくして税収が減って財政がいっそう逼迫し、不安になった人々はますます消費を控える。
 こうした循環状況は、経済システムや政治システムがかつて前提とした環境がもはや存在しないという意味で「平時」ならざる「非常時」に近い。従ってプラットフォームが変わらねばならない。つまり、産業構造改革や、租税制度改革や、行政官僚制改革が、必須になるのだ。
 「平時」にしか働かないシステムに依存したヘタレな国が稀代の震災と原発事故に対応できるはずがなかろう。震災と原発事故で日本人の自明性に亀裂が生じと思ったというのはそういう意味だ。日本社会がそれなりのものだといった信頼が木端微塵になるということである。
 「平時」にしか働かないシステムへの依存。あるいは「平時」への依存。こうした依存がいかにもろい前提に支えられているかを震災と原発事故が暴露した。多くの人は津波が何もかも押し流す映像に現実感覚が湧かなかったと言う。「平時」に依存した思考停止のなせる業だ。
 震災と原発事故を契機に思考停止が若い世代に継承されなくなってほしい。可能性は辛うじてあろう。僕のゼミにもやむにやまれずボランティアに出かけ、遺体の数々が木枝に串刺しになっているのを見た学生らがいた。彼らが新たな前提の上で社会を再建することを切に望む。


■「安全デマ」にまどわされた人たち
 僕は震災直後から国内外発の原発関連情報をツイッターで大量にリツイートした。ツイッターでも述べたが二つの動機がある。第一は、東電や政府の発表やそれを垂れ流すマスコミ情報を鵜呑みにするのは危ないということ。これらの情報は愚民政策を前提としている。
 本文でも紹介したエリートパニックの概念がある。エリートが民衆のパニックを恐れてパニックになって社会を滅茶苦茶にする。人々の合理的行動計画にはマクシミン(最悪事態最小化)戦略を可能にすべく最悪シナリオの認識が必須だが、官邸がこれを意図して妨害した。
 官邸による妨害を単に愚昧なエリートパニックと詰ることはできない。そこには確かに愚民政策がある。だが我々が愚民でないとは断言できない。政府発であれマスコミ発であれ誰発であれ、この情報さえ信じれば大丈夫という依存癖がある限り、我々は愚民そのものだからだ。
 つまり、内外の原発関連情報を敢えて玉石混淆のままリツイートした第二の動機は、こうした自明性への依存癖がどれほどのものかを確かめたかったということ。案の定、否定的反応と肯定的反応が極端に分かれ、原発問題でおきまりの「陣営帰属&誹謗中傷」が反復された。
 「不安を煽るのか」「デマを飛ばすな」「いつから反原発になったのか」…。2週間続いた。この間、政府・東電・マスコミ・御用学者は「放射能漏れは僅か」「終息しつつある」という情報を流した。だが3月末に最悪シナリオが具現化し、反発ツイートは一挙に消滅した。
 愚民ぶりも露わな反発ツイートの背後に何があるのか。震災数日後には東京を離れた標高1200mの山荘に僕や知人の子どもたちを疎開させた。政府が各地放射線量を計るリアルタイムモニタリングを公表しない以上、政府情報は「安全デマ」だと判断したからだ。
 ちなみに自宅近所の世田谷区や目黒区の幼稚園や小学校では終業式前後の段階で半数ほどが疎開した。疎開させた親はむろん政府・東電・マスコミの情報を信用していなかったことになる。ならば疎開させなかった親は政府・東電・マスコミの情報を信用していたのか。
 必ずしもそうではなかろう。僕や妻もそうだし知り合いの編集者(とその妻)らもそうだが、苦労して疎開先を見繕った。気を遣わせ過ぎたり遣い過ぎたりしない関係性で、なおかつ疎開先がそれなりの居心地を与えてくれること。ああでもない、こうでもないと話し合った。
 話し合いをしながら感じた。僕たちは日本社会ではラッキーな方だろう。相談できるくらいにはソーシャルキャピタル(人間関係資本)がある。でも若い夫婦の多くはそうではなかろう。かつてスワッピングの取材で「二人寂しい夫婦」が如何に多いのかを知って驚愕した。
 人間関係資本を持たない人々は、政府や東電やマスコミの「安全デマ」を信じるしかなかったのではないか。頼れる人間関係がなけれは、「放射能の危険があるとして、子供をどこに疎開させる?当てがない」という苦しい状態に陥る。ならば、宮台ツイートこそがデマなのだ。
 自分にとって回避できないもの––例えば自分自身の属性––に合わせて、整合するように他の事物を認知的に歪曲しがちだとするのが、フェスティンガーの認知的不協和理論やハイダーの認知的バランス理論だ。総じて認知的整合性理論congnitive consistency theoryと呼ぶ。
 ソーシャルキャピタルというと日本では上下水道の如きソーシャルインフラを意味するが、この言葉を最初に用いたハニファン(1916年)によると、メンバー相互の善意、友情、共感、社交を指す。金銭に還元できる資本とは異なる、金銭に還元できない資本という比喩である。
 巷間では格差社会というと経済の格差を含意するのが専らだ。だが今回の震災で露わになったことの一つは人間関係資本の格差だ。これは目に見えないぶん気付きにくい。そのせいで、人間関係資本の脆弱さに由来する事柄が、行政官僚制の不備として糾弾されたりしている。


■仮設住宅の自殺・孤独死の可能性にどう対処するか
 人間関係資本の不足は被災地支援における末端ディストリビューションにおいて現れた。海江田経産相が不足物資を送れと号令をかけた結果トラックが列をなして現地に行った。でも末端でのディストリビュージョンができない。義援金は集まったけどなかなか配分されない。
 行政を糾弾する向きが多い。だが行政は所詮平時を前提とするシステム。問題は〈共同体自治〉と〈市民自治〉の脆弱さだ。これらが脆弱だと行政は被災者個人と向き合うことになる。でも行政は身分証明のない個人に被災証明を出せず、被災証明がないと金銭は分配できない。
 各国の例を見ても大災害時には地縁共同体や教会組織を介さねば末端ディストリビューションは無理だ。それを示す例が今回も見られた。実は創価学会の避難所が物質的にも精神的にも最も安定していた。信者仲間としての共通前提ゆえに数多のものをシェアできたからだ。
 一般の避難所では配給物資を手にする順番を巡って険悪な雰囲気になりがちだった。避難所の規模が大きい程そうなりがちだった。だから配給物資が少しずつ届いていても全員分揃うまで配給できない滑稽な事態が見られた。こうした事実の背景要因に対する指摘が少なすぎる。
 人間関係資本の問題は復興計画にも関わる。阪神大震災では4万3000世帯9万人が仮設住宅に入ったが、震災後4年間に仮設住宅での自殺と孤独死は合わせて250人に上った。今回の震災では5月10日時点で12万人が避難生活をしている。このままでは大変なことになろう。
 阪神大震災後の悲劇は金銭や住居があるだけでは人が生きていけないことを示す。経済的資本だけでなく人間関係的資本なくしては“生きる甲斐”がなくなる。それに関連するが、被災者は元の村ごと移転するのを望む。当然の希望だが、それでは移転先で分断と差別をもたらす。
 移転先に元々ある地域社会が移転者たちを包摂する新たな〈共同体自治〉を構築する動きに向かうべきだ。こうした動きを支援するための知的かつ経験的な議論が必要だ。移転先に元々ある地域社会もどのみち空洞化している。だから共同性再構築の絶好の契機にもなる。
 三宅島噴火のとき村ごと強制移住命令が出て住民は東京都や神奈川県に分散した。数年後帰宅許可か出た。だが帰島した人は1割もいなかった。移住先で既に生活基盤とりわけ人間関係ができていたからだった。こうした適応––住めば都––は日本人のいいところでもある。
 その意味では仮設住宅受け容れに併せて各地で定住化政策を進めるべきだ。定住化の希望が出てから対処するのでは遅すぎる。かつての震災の経験に学んで行政が先回りすべきだ。こうした提案は被災者からは出てこない。当事者の要求に対応するのが最善とは限らない。
 後述するが、同じことは震災後の街作りにも言える。当事者のコンビニエンスやアメニティの要求に応えることを最優先すれば、沖縄の米軍用地返還後の跡地利用(北谷や天久)がそうだったように、大型スーパーとコンビニと量販店からなるショッピングモール化が進む。
 コンビニエント(便利)な街やアメニティ(快適さ)溢れる街はどこにでもある。そこでは場所と人の関係が入替可能になる。結果としてそこは住む人にとって便利で快適ではあっても幸福を欠いた実りのない場所になる。そうした事態を避けるための議論が少なすぎる。
 人々のニーズに応じた結果、人々が必ずしも望まない街作りがなされる。この逆説は古くから知られている。逆説を回避するには迂回路が大切だ。環境倫理学者キャリコットによれば、こうした逆説は、功利主義にせよ義務論にせよ、人間を主体として考えるから生じる。
 人間を主体として考えるのでなく、陸前高田という町を主体として考える。我々人間は、陸前高田という町に寄生する存在に過ぎない。陸前高田はそれではどんな生き物なのか。歴史を遡ることによってそれを精査し、陸前高田という生き物に相応しい将来を考えるのが良い…。


■〈良き共同体〉とはなにか?
 この数年間僕がずっと言ってきたことは「任せる政治から、引き受ける政治へ」あるいは「(市場や国家など)システムへの過剰依存から、共同体自治へ」ということだ。システム過剰依存は思考停止をもたらす。思考停止は安全保障上重大な帰結をもたらす。今回がそうだ。
 本文中でも議論になったように、「完璧な」安全策を講じた原子力発電所にせよ、「ギネス級の」高い堤防にせよ、今回の震災は、システム過剰依存が、システム機能不全の際、生活世界に如何に恐ろしい事態をもたらすのか、まざまざと見せつけた。
 システム過剰依存の危険は、事故対策や防災対策に限られない。既に様々な場所で記した通り、欧州では既に1980年代から、共同体が市場メカニズムや行政官僚制に過剰依存する危険を、スローフードやスローライフを通じて共通認識としてきた。
 システムへの反省的視座が一般化した契機は、1970年代の福祉国家政策の破綻を契機とした新自由主義--小さな国家&大きな社会--と、1986年のチェルノブイリで急加速した、食の共同体自治(スローフード)と、エネルギーの共同体自治(自然エネルギー)の動きだった。
 日本は、1970年代後半以降の製造業一人勝ちによる右肩上がりの継続が、新自由主義的方向へのシフトを妨げ、自民党的再配分政治を継続させた。チェルノブイリが他人事だったラッキーがアンラッキーにも1990年代以降の食とエネルギーの共同体自治を妨げた。
 加えて1980年代半ば以降の日本は、欧米とは対照的に、一方でコンビニ化&フェミレス化に象徴される市場依存が進み、他方で日米構造協議の末に日本政府が応じた430兆円の公共事業に象徴される行政官僚制依存が進み、共同体が空洞化し続けた。
 89年から91年にかけて冷戦体制が終わり、グローバル化と呼ばれる資本移動自由化が進んだ。その結果、バブル崩壊以降の日本では、社会の穴を辛うじて埋め合わせていた経済が回らなくなり、社会の穴が顕在化した。共同体の空洞化である。
 それが、英国の3倍、米国の2倍にも及ぶ高自殺率であり、超高齢者所在不明問題や乳幼児虐待放置問題であり、続発する孤独死や無縁死である。どれも恥晒しな事態だが、システムがうまく回る「平時」を自明視化する愚昧のツケである。
 1997年の酒鬼薔薇聖斗事件以降、全国各地で動機不明の凶悪な少年犯罪が続発し、取材で日本各地をまわった。多くの事件がかつてと変わらぬ風光明媚な場所で起こっていた。だがかつての絆が消えていて、隣家がどんなトラブルを抱えているのか誰もシェアしていない。
 だから、隣家の子が親を殺したという事件があっても、何が起こったのか誰も分からない。田舎で隣近所なのだから分かるはずだ、と僕は思っていた。多くの人が取材に応じて、80年代に入ってから人間関係が変わったと答えた。現在は共同体の空洞化はもっと進んでいる。
 今回、東北地方の相互扶助が美風として語られた。確かに高齢世代も残っているから、事があったときには「昔とった杵柄」でかつてあった相互扶助が再活性化することはあろう。でもそれはソルニットの言う一時的な「震災ユートピア」であることを忘れてはいけない。
 凶悪少年犯罪の取材でもう一つ分かったことがある。多くの地域が新住民と旧住民の対立を抱えていることだ。自殺をもたらすような激烈なイジメ事件の背後には多くの場合この対立がある。犠牲になるのが新住民の子の場合も旧住民の子の場合もある。原因は新旧住民にある。
 旧住民側の問題は閉鎖性で、新住民側の問題は入替可能性だ。旧住民の絆は多くの場合「消防団ネットワーク」で、これは「中学校OBネットワーク」と等しく、新参者は入れない。新住民は便益と快適ばかり追求して負担を負おうとしない。絆に必要な絆コストを払わない。
 そんな中、うまくいっている少数の地域には共通する原理がある。旧住民ネットワークが分厚くて包摂的なことだ。祭りや出産の機会を通じて新住民を旧住民ネットワークに包摂していく。かくして新住民の若い世代が知恵を持ち込んで、地域のリソースはより潤沢になる。
 旧住民ネットワークの包摂性は地域の人間関係資本を再活性化する。旧住民が閉鎖的であることは人間関係資本が細っていくことを意味する。そういう場所が開発で便利で快適になっても新来の新住民は旧住民と交わらない。この分断が地域と人間の入替可能化をもたらす。
 旧住民が新住民を包摂することで地域の共同性を刷新する。そうした刷新なくして〈悪い共同体〉を克服できない。「今さらやめられない」という制度的惰性や同調圧力が妥当性や合理性についての議論を失墜させるのが〈悪い共同体〉だ。
 こうした「物言えば唇寒し」の〈悪い共同体〉は地域社会に限られない。民間企業組織にも行政官僚組織にも蔓延する。〈悪い共同体〉が生むのは思考停止だ。この思考停止が、環境変化が要求するプラットフォームの刷新を悉く阻む。そのことが日本を墜落させてきた。

■「今さらやめられない」という思考停止
 現在の原発推進政策は合理性や妥当性が無視された選択だ。原発がローコストだと言うが間違いだ。本書に収録されていないが、「マル激」でも「<原発は安い>は本当か?」というテーマで、立命館大学教授の大島堅一先生に話を聞いた(第523回/4月23日放送)。
 電力会社が発表したコストは1キロワット時あたり原子力は5.3円で、火力や水力と比べて一番安い。でもこれはモデル計算で、本当のコストはわからない。ここには「バックエンド費用」として使用済燃料処理費や廃炉費用などが計上されているが、積算根拠が曖昧で甘い。
 それでも2004年の政府審議会報告書ではバックエンド費用の総額18.8兆円。電気料金に上乗せされている。コストの3%まで利益として良いとの総括原価方式で、どんなにコストが高くても電気料金に上乗せできるどころか、コストが高い方が利益が増えるのだ。
 諸外国と違って、日本の電力会社は地域独占供給体制のもとで発電・送電・配電の全てを押さえている。人々は電力会社を選べない。公開競争入札もない。だから電気料金が馬鹿高い。2003年の資源エネルギー庁の比較だと、家庭用で米国の2.1倍。産業用で2.5倍である。
 民主党政権がとりまとめた東電賠償スキームだと、損害賠償費用を電気料金値上げで捻出して良いことになっている。だが原発災害について国民に責任はない。地域独占供給体制と総括原価方式をそのままにして、馬鹿高い電気料金に更に値上げを許すのは狂気の沙汰である。
 話はそれでは済まない。税金から拠出される国の「エネルギー対策費」はほとんどが原子力関連で、原発立地地域への補助金に使われる。1970~2007年度の一般会計エネルギー対策費は5兆2148億円。97%の5兆576億円が原子力関連予算だ。これらはコストに算入さていない。
 原発事故では何兆円もの賠償額になるが、原発はローコストだというときの費用に算入されていない。真の廃炉費用。真の使用済燃料処理費。税金からのエネルギー対策費。事故の損害賠償費用。原発につきものの揚水発電コスト。全て合算したら幾らになるか。試算さえない。
 CO2が出ないからクリーンだというのも嘘。ウランの採掘、濃縮、運搬、原発建設の過程でどれだけCO2を出すか?しかもCO2は毒ではないが放射性廃棄物は毒。六ヶ所村の再処理施設はほとんど動かず、再処理したプルトニウムで動く高速増殖炉もんじゅは16年間も停止中だ。
 ウランは石油よりもはるかに埋蔵量が少なく、長くても70年で枯渇する。太陽光発電など自然エネルギーの発電コストが急激に下がりつつあるから、40年経たずに採掘コストが見合わなくなると言われている。早晩廃れるしかないエネルギー技術であるのは分かりきったことだ。
 確かにウランの枯渇に対処するための高速増殖炉に希望が託された時期もある。だが実用化コストが馬鹿高いことから日本以外の国は全て断念した。日本の高速増殖炉もんじゅは実験段階の事故で16年間も停止中。政府は少なくとも2050年までは実用化があり得ないと認めた。
 ところが、こういうこと––原発にはコスト的にもリスク的にも環境的にも合理性や妥当性がないこと––は原子力ムラの専門家ならば全員すでに知っている。ならば、なぜ原発推進政策が止まらないのか。原子力ムラの元住民が教えてくれた。「今さらやめられない」からである。
 どこかで聞いた言葉だ。日米開戦の直前、陸海軍将校と若手官民エリートからなる総力戦研究所がシミュレーションした結果、開戦すれば日本が勝つ確率はゼロ%との結論が出た。陸軍参謀本部や海軍軍令部に上げられたが、開戦した。やはり「今さらやめられない」からだ。
 「短期決戦ならば勝機はある」が口実となった。だがそれを心底信じるエリートがどれだけいたかは怪しい。極東国際軍事裁判では多くの被告は、自分としてはどうかと思ったが、空気に抗えなかった、今さらやめられないと思った、というような証言を残していたからである。
 今さらやめられない。これは単なる権益への執着を意味するものではない。実存や関係性に関わる意識を含むと解するべきである。やめようと言ったら、自らに矜恃を与える役割、役割を与えてくれる組織行動を否定することになり、自らの立つ瀬がなくなると意識されるのだ。
 「マル激」にも何度も登場した小出裕章京都大学原子炉実験所助教が面白いことを言っていた。70年代から原発の合理性欠如を主張して、数知れぬ論争に負けたことは一度もないが、議論に負けた推進派研究者が最後に言う。「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」と。
 80年代から原発に距離をとった(フランスを除く)西ヨーロッパ各国にも当初は推進派研究者がいたし、彼らにも家族があり生活があったろう。だが、そうした〈内在〉的事情ゆえに何が真理かという〈超越〉的事情を曲げて恥じぬが如き研究者が溢れるかどうかは、別問題だ。
 オーソドックスな社会学者なら、ここに宗教社会学的な背景の差異を見出す。唯一絶対神的な信仰生活の伝統が欠如するために〈内在〉を前に〈超越〉はいつも頓挫すると。だが、だからといって御用学者を免責すれば、合理性や妥当性が頓挫する社会から永久に出られない。
 我が国が行政官僚制肥大を克服できない理由は、単に行政官僚が政治家よりも頭が良いからとか強いからという話でなく、我々自身に、関係性内部での立ち位置ばかり気にして真理性や合理性を優越させない〈悪い心の習慣〉があり、それによって〈悪い共同体〉を営むからだ。


■完全に過去の技術である原子力
 ちなみに、日本は原発技術を世界に誇るというのも嘘だ。日本の原発の技術は半人前だ。東芝は米国のウェスティングハウス・エレクトリック社を買収し、日立はGEと提携して技術を手に入れた。これは、日本が独自に原発をワンパッケージ建てる技術がないことの証明だ。
 このように、日本の原発推進政策は、コストについてもリスクについても技術水準についても虚偽の情報で塗り固められた上で成り立っている。しかし、昔からそうだったわけではない。公平に見た場合、日本が原発推進政策を採用しない道は全くあり得なかったと思う。
 日本は、二発の原爆を落とされて敗戦して後はポツダム宣言どおり武装解除され、平和憲法を樹立させられ、サンフランシスコ講和直後に日米安保条約に署名させられた。そのことで去勢意識を埋め込まれた。去勢意識が「核の平和利用」への固執をもたらしたのだと思う。
 巷間、原発政策には核兵器転用の目論みがあるとの議論がある。だが、日本の監視を主要目的とするIAEA(国際原子力機関)レジーム内にあり、米国が日本の核武装を絶対に許さないことに鑑みれば、日本の核武装可能性はゼロ。要は政治オンチのタワゴトにすぎない。
 だが、原発推進政策の是非をめぐる価値判断を背後で支える自明性の地平は、「核の力による、去勢意識の埋め合わせ」という潜在意識といつも表裏一体だった。元々プルトニウム原爆製造のために要求された原子炉だが、戦争利用か平和利用かを問わず、力の象徴だったのだ。
 そして1960年代は、原子力ロボット「鉄腕アトム」、原子力潜水艦「スティングレイ」、原子力ロケット「サンダーバード3号」の時代だ。原子力はSF的なアカルイミライと結びついていた。60年代に原子力研究の道に入った人は、小出助教を含めて当時で一番の知性だった。
 かくいう僕も小学生時代は核融合の研究者になりたかった。作文にもそう書いた。麻布中学に入ってからはSFとガモフ全集と天体写真撮影にハマった。紛争が契機で文転して東大に入学したが、当時理科系では原子力工学が最も進路振分けの足切り点が高い学科の一つだった。
 それが70年代末の話だが、僕が東大助手になった80年代後半になると、すでに原子力人気に陰りが出ていた。過渡的技術に過ぎず未来がない原子力(核分裂)研究にはもはや優秀な人材は集まらない。日進月歩の自然エネルギーやスマートグリッドの研究に優秀な頭脳が集まる。
 原子力政策と周辺にはもはや知的議論の厚みがなく、自然エネルギー政策と周辺には知識議論の厚みが増しつつある。事故があろうがなかろうが近い将来に原発は捨てられる。捨てる時期を、旧技術の後遺症回避と、新技術の先行者利得獲得の観点で、吟味する段階だったのだ。
 頭脳も集まらず、技術的進歩もさしてなく、新規立地も出来ず、現在運転中のものの安全性を高めるだけでも莫大な費用がかかり、寿命が来つつある多くのものの廃炉にも気が遠くなる年月と費用がかかる。そんなクズみたいな技術をありがたがる時代はとっくに終わっていた。
 だが、そうした時代の流れを日本人の多くは知らないままで来た。「平時」に回るシステムが「非常時」に回らなくなったらどうなるかを想像するには、知的な努力が必要だ。だが、日本ではそうした努力がないがしろにされ、「平時」に回るシステムへの過剰依存が蔓延した。
 〈悪い心の習慣〉と〈悪い共同体〉、〈過剰依存〉と〈思考停止〉がキーワードになる。これらの悪病が社会の隅々にまではびこっている。これらを放置したまま、東電や経産省をやり玉に挙げるだけでは、悪病は根治できない。根治できなければ、また別の問題が噴出しよう。


■「幸せ」は、「快適」「便利」とは違う
 社会や人生の〈最終目的〉の話をしよう。〈過剰依存〉は様々な形を取る。国家(おカミ)への依存。市場への依存。所属組織への依存。「絶対安全」な堤防への依存。「絶対安全」な原発への依存。総じて「平時」にしか回らないシステムへの依存=非自明な自明性への依存。
 非自明なこと(作為)を自明性(自然)と取り違える癖を丸山眞男は「作為の契機の不在」と呼び、「抑圧の移譲」(上から抑圧されると下を抑圧すること)などと並んで、問題のある社会や組織(の行動)を、他の国々のように変えることができない理由ではないかと考えた。
 こうした非自明な自明性への依存は、社会や人生の〈最終目的〉を見失わせてしまう。原発を自然エネルギーに置き換えようという話は出てきても、北欧諸国のように将来的にはエネルギー消費を半分以下に減らそうという話が出てこないのは、自明性への依存癖によるだろう。
 十年前は世界2位だった個人別GDPが23位に落ちたと嘆かれるのもそうだ。そもそも世界2位だった時期でさえ、様々な幸福度調査で世界75位以上になったことがない。社会や人生の〈最終目的〉が、皆の・自分の幸いだとすれば、GDP低下を嘆く前にすることがある。
 原発をやめると今まで通りエネルギーを消費できなくなるという、それ自体は電力会社の嘘に騙された不安もそうだ。従来のエネルギー消費が、経済水準はともかく幸福水準にどれだけ関連しているのかを見直し、幸福水準を上げつつエネルギー消費を下げる道が模索されない。
 子供を疎開させた山荘には北欧の部材を使った。床に30センチ厚、壁に25センチ厚の断熱材、三重ガラス、極めて密閉性の高い窓と扉の御蔭で、外気が零度10度以下になる冬でも、朝2時間の暖房すれば後は暖房せずに余熱と日照熱で快適だ。床暖房がなくても床が暖かい。
 実際、世田谷区にある自宅に比べて、同じ期間過ごした場合の光熱費は、すごい寒冷地にある山荘の方が圧倒的に安い。幸福度よりもレベルが低い快適度の話なのだが、エネルギー消費水準を圧倒的に落としながら逆に快適度を上げる工夫に、北欧の反省的態度を見て取れよう。
 北欧では、このハイテク時代でさえ暖房方法として暖炉を手放さない。手放さずに暖炉のハイテク化(効率化と低炭素化)に技術の粋を集める。暖炉の回りに人々が集まって談笑しながら寛ぐ時間が与える幸福に注目するからだ。こうした反省的構えが社会の隅々に浸透する。
 原発という電源を自然エネルギーで置き換えるという話をする前に、あるいは、原発という電源を失うとエネルギー消費水準が下がるという話をする前に、僕らが何のためにエネルギー消費を維持し、それで経済水準を維持するのかを反省すべきだ。僕らの幸福のためにこそ。
 ツイッターやブログで「煽るのか」「不安にさせるのか」とイキり立つ遣り取りを見るたびに、自己維持のためのメタゲームの浅ましさ、陣営帰属&誹謗中傷の浅ましさ、人間関係資本の乏しさゆえの認知的整合化の浅ましさ、総じて不幸な人々の浅ましさを感じて悲しかった。
 こうした浅ましさは日本の変質と関連する。1980年になるころから日本では法化社会が進んだ。何かというと管理者や設置者の責任を問う構えが拡がり、小川は暗渠化され、屋上や放課後の校庭はロックアウトされ、公園から箱ブランコが撤去され、監視カメラ化されてきた。
 隙間や余剰やノイズが除かれ、クリーンで安全で平準化した社会が出来上がった。子供はノイズ耐性を失い、やがて、トラブル解決ができず、何かというとキレ、隣人騒音で警察を呼び、超高齢者所在不明や乳幼児虐待放置を行政のせいにするような、浅ましい大人が増えた。
 総じて僕らは、コンビニエンス(便利)やアメニティ(快適)をハピネス(幸福)と取り違えてきた。更に深い水準ではハピネス(幸福)とウェルビーイング(存在の取替不可能)を混同してきた。だからエネルギーを馬鹿食いする高GDP社会で、不幸な人々ばかりになった。
 非常時が訪れ、快適さも便利さも失われたとき、つまりシステムに依存できなくなって初めて、「幸せとはなにか」「どう生きるのが良いのか」という、幸福と存在の取替不可能に関わる本当の問いを僕らは突きつけられる。問いに答えるための議論の厚みを手にする段である。



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