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徽宗皇帝のブログ

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戦争と「下級国民」
「世に倦む日々」ブログから転載。
あまり正確には覚えていないが、私が大学生(落第生)のころ、酒飲み仲間の友人が私に「我々が出世するためには、もう一度戦争でも起こらないと無理だろうなあ」という意味のことを言ったことがある。ここで「我々」というのは、今で言えば下級国民の若者ということだ。まだ日本が高度成長期の頃(その末期)だったと思うので、彼の言葉はかなり深い社会的洞察を示していたと思う。つまり、日本はその時点で既に「階級社会」がほぼ確定していたということだ。それは、下から上の階級に上がることがほぼ絶望的だ、ということだ。今で言えば、非正規雇用の派遣社員が正社員になることがほぼ絶望、というのと同様だ。
で、戦争が起これば、少なくとも「社会が変わる」可能性があり、上の席が空けば、そこに潜り込める可能性も出て来る、というのが冒頭の友人の言葉だったのだろう。
言うまでもなく、それは完全な間違いで、兵士は使い捨ての道具でしかない。下級国民は下級国民のままで、社会の上の席は空かないのである。一般国民は戦争で得られるものは何ひとつなく、生命や家族や友人や家財や社会的自由を失うだけだ。
ネットフリックスに入っている人は、「私は貝になりたい」が今月末までの放映なので、今のうちに見ておくことをお勧めする。


(以下引用)

小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる

小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16301617.png少し前から、小泉悠あたりの発言で、一人一人の命よりももっと大切なものがある、国家の主権と独立を失うことは国民の命を失うことよりも重大で、どれほど犠牲を出しても最後まで戦って守り抜かねばならないものだという主張が連発されている。安倍内閣で国家安全保障局次長をやった兼原信克が、3/16のプライムニュースの席で小泉悠の発言に相槌を打ち、「そんなこと当たり前の話ですよ」と念を押していた。この問題が非常に気になる。とても気に障るけれど、焦点を当てて問題提起している声がほとんどない。

戦後の日本人はこの問題に非常にナーバスで、関心が高く、憲法9条をめぐる議論の中心にこの根本的な思想対立があった。小田実は個人の命が何より大事だと強調し、対して石原慎太郎は国家や共同体のために個人が命を捨てることこそ大切で、そこに人の生きる意味があるのだと反論した。戦後日本の大きな右と左の対立軸であり、長く果てしなく続いた論争と記憶する。そして、日本人はほぼ左の考え方を選び採り、その集大成というか総括が、文科省推薦の日本を代表する文化であるジブリ映画のテーマとメッセージだった。




小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16304231.pngこのジブリ的な認識と思考が若い世代にも広く定着し、現代日本で不動の信念として確立したものと思っていた。戦争で国家のために命を落とすのはバカらしく、国を守るために死ぬなどあり得ず、自分や家族が生き延びることが第一だと、誰もがそう確信しているものと思っていた。だが不思議なことに、小泉悠が吐く国家主義のエバンジェリズムに対して反発がない。普通ならば、この小泉悠の復古的な挑発言辞に対して、ジブリ型日本人はアレルギー反応を示すものだ。生理的に拒絶するものだ。

テレビがウクライナ戦争のプロパガンダの刷り込みで充満・沸騰し、プーチンとロシアを憎悪して共振共鳴する熱狂空間となり、その中央演壇でコンダクターを務めている小泉悠の言葉だから、誰もそれに異を唱えず、小泉悠の恐ろしい軍国主義のイデオロギーの発信に頷いている。戦前戦中の「一億火の玉の皇国皇民」擬(もど)きな主張が、軍事ジャーナリストの解説に紛れて一般論化され、放送法が前提する「公正中立」の衣を着た洗脳メッセージに化けている。憲法9条と真逆の思想がシャワーされている。皆、それに抵抗せず黙っている。


小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16305529.png嘗ては、その言論を石原慎太郎が吐き、櫻井よしこと小林よしのりが言っていた。明確に右翼の立場から、異端で極論の位置づけで、それが国民に訴えられていた。今ではすっかり変わり、イデオロギーとは無縁な風貌のテクニカルな領域の専門家が、公然とこの猛毒の主張を発している。そこが恐ろしい。石原慎太郎は作家だった。櫻井よしこは極右のジャーナリストだ。小泉悠には特にグロテスクな右翼表象はなく、技術屋のキャラクターが標榜されている。表現にも過激な熱量がない。熱がないのに、戦慄する軍国主義の説教を淡々と垂れている。

国家が戦争を始めたときは、国民は国家を守るために団結して戦って死ぬのが当然で、その生き方を選ぶのが正しいと言っている。個人個人のプライベートな人生を楽しむ価値よりも、所属する国家共同体を守護し防衛することの方が意義が重く、生き方として後者が尊重されるべきだという主張。戦争を是認し、戦争への国民の積極参加と国家への犠牲を当然視する言説。それが、中立的な立場の論者から、すなわち、後で世論調査してその主張が賛成多数となるような設定で、公然と議論されるのは、今回が初めてのような気がする。


小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16311277.pngこの問題は、例の、橋下徹と玉川徹の発言の問題と絡む。そして現在は、マリウポリの戦況と市民の命の問題の判断と関わる。CIA御用論者とマスコミは、そして右翼と左翼は、ウクライナ側に妥協と降伏を要求する橋下徹と玉川徹の意見に対して、神聖な防衛戦争の遂行と勝利を邪魔する雑音として排斥する態度で一貫している。世界中が応援し加勢するロシア打倒の十字軍戦争に対して、余計な水を差す愚論だと非難している。私は、マリウポリの地下室で怯える弱者市民の身に即せば、一日も早くウクライナ軍に降伏して欲しいのが本音だろうと想像する。

「頑張れ、負けるな、最後まで抵抗しろ」と言っているのは、テレビのキャスターとCIA御用論者だ。最後まで抵抗しろという意味は、ロシア軍の爆撃で殺されて死ねという意味である。そこには、悪いのはロシアだからという前提があり、その遮眼革的な認識が顧みられない。事実上、マリウポリの市民は「人間の盾」にされ、犠牲の頭数にされ、ロシアを糾弾するための生け贄の材料に仕立てられている。ロシア軍を消耗させる「捨て石」にされている。ウクライナ軍が降伏すれば市民の命は助かるのに、そのことは誰も口にしない。命を救う最短の問題解決策は言わず、ひたすらロシアに非人道性の指弾を集中させ、結論を固定して連呼する。


小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16312509.pngなぜ、この日本で、マリウポリは白旗降参しろという声が強く出ないのだろう。ジブリ作品の教育で精神のカーネルを形成構築しているはずの日本人が、この多数意見で纏まらないのだろう。不思議でならない。ジブリ作品の「生きろ」とは、まさにこういう境遇に置かれたときの選択基準の問題だった。人の命以上に大事なものはなく、それを超えた国家やイデオロギーの価値を説く教義に惑わされてはならず、安易にコミットするなという啓蒙だったはずだ。善いか悪いかは別にして、宮﨑駿の思想はそこにあり、9条の平和主義の派生だったと私は解釈している。

小泉悠らに毒々しい軍国主義のメッセージを発信させているのは、中国との戦争が間近に控え、日本のために戦い抜いて血を流す戦士国民を作るためであろう。分かりきったことで、詳論する必要もない。が、ジブリの教育を受けた者たちが、自分の命よりも国家の主権と独立が大事だと観念し、80年前の日本人のように国に命を捧げるだろうかと、どうしてもそこは合点がいかない。兼原信克は「そんなこと当たり前ですよ」と軽く言うが、兼原信克の話に説得力を感じ、真に受けて国の言いなりになる若者がどれだけいるだろうと思う。陳腐すぎて話にならないように私には聞こえる。


小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16314232.png小泉悠や兼原信克は、国家の側の人間である。マリウポリで死んで行く者たちを見ながら、それを扇動と飛檄の道具にするゼレンスキーと同じだ。ゼレンスキーは戦争が終われば英雄になる。水木しげるの戦場体験をドラマ化した作品の中で、指揮する部隊に突撃と玉砕を命じて、自分だけさっさと逃げる口達者な参謀がいた。戦争になると、戦争指導者と兵隊・庶民の二つに分かれる。後者は国家に命を捧げて死ぬ役割の者だ。戦場で死に、空襲で死ぬ。国を守るための人生と意義づけられ、戦争の中で命を落とす。

前者はずっと生き続ける。あのインパール作戦でも、牟田口廉也は無傷で生還しているし、ノモンハンとガダルカナルで参謀をやった辻政信も生きて帰って政治家になった。NHKが毎年制作する終戦記念特集番組を、もう何十年と見てきたが、本当に驚くのは、高級参謀や軍司令官が戦後もピンピン生きていて、好き勝手な言い訳をヘラヘラくっちゃべっていることである。彼らは死んでない。無傷で、それだけでなく、何やら戦後も成功して富裕で満足な人生を送っている。


小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる_c0315619_16322349.png下に命令を下し、檄を飛ばす戦争指導者は、最後まで死ぬことはない。戦場に斃れ戦禍に散るのは庶民である。ウクライナの兵隊も、国民動員令で出国禁止され兵役に応募した男たちの何千人かは死んだだろう。中国との戦争になったとき、小泉悠や兼原信克は戦争指導部の「参謀」になるのである。われわれは、マリウポリの住民になるか、動員令で徴発されて前線で激戦する歩兵になるのだ。カウントされる犠牲者の一人になり、戦場で迷彩服姿で逝った者は靖国神社に祀られ、マリウポリ的に死んだ者は動画に撮られて西側マスコミに配信されるのだ。アメリカの同盟国のセンチメントを刺激する「悲劇」として。

おかしなことに、日本では、悲惨な戦争を目の当たりにしながら、反戦の気分が広がるのではなく、好戦意識ばかりが異様に高まっている。核武装をしろだの、9条改憲をしろだの、ウクライナの次は台湾だから準備せよだの、そんな話ばかり溢れている。世論調査の数字を示すのは面倒だから省く。テレビの環境はすっかり変わった。空気は戦時そのもので、野党は大政翼賛化した。東京のデモも、反戦デモなのか、打倒ロシアの戦勝祈願デモなのか訳が分からない。嘗ては、ベトナム戦争のときも、イラク戦争のときも、こんなことはなかった。


みんな戦争に飢えている。暴露膺懲と暴支膺懲の咆吼と絶叫ばかり。そして、プロパガンダのシャワーを浴びて神経を興奮させた勢いで、少しでもロシア寄りと看做した「非国民」の者をネット空間で見つけて、引き摺り出し、唾を吐き、暴言で殴りつけ、リプライで袋叩きにしている。憎悪のエネルギーを爆発させて溜飲を下げている。その毎日が繰り返されている。
中国との戦争の予行演習空間のようだ。そのまま、東アジアの戦争に滑り込むのだろうか。

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