今さら言わなくても、聞く耳さえあれば、こうした証言は実はいくらでもあったし今でもある。ただ、そうした証言がどんどん覆い隠され、無かったことにされつつある今の状況(安倍政権による超右傾化)に鑑みて、何度でも何度でも繰り返し、批判の声を上げ続けなければならないだろう。
戦争を否定する戦争経験者がどんどん亡くなっていった時こそが、新たな「戦争の季節」なのである。
(以下引用)
亡くなった元BC級戦犯・飯田進さんが残した魂の文章
デイリー新潮 10月14日(金)19時0分配信
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■93歳の「元戦犯」
13日、元BC級戦犯で、戦争体験を著書としてまとめ、また講演活動などでも語り継いできた飯田進さんが、93歳で亡くなった。
飯田さんが戦争についての記録を残そうとした背景には、強烈な怒りがある。自身の体験をまとめた『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』は、「戦闘ではなく飢えと疲労と病で死んだ」兵士たちの無念が伝わってくる力作である。
同書の「おわりに」は、飯田さんの血涙が感じられる文章となっている。少し長くなるが、追悼の意味で、以下に抜粋・引用してみよう。
***
これまで、私の体験と元兵士たちの記録をたどって、ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死にしなければならなかった大勢の兵士たちの実態です。
重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争戦域各地に共通していたことなのです。二百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。
この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論をしても虚しいばかりだと私は思います。この思いが、人生の終末を生きている私に、この原稿を執筆させる動機を与えたのです。
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。この習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。60年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。
戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。
「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください」
飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいました。
なぜあれだけ夥(おびただ)しい兵士たちが、戦場に上陸するやいなや補給を断たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されねばならなかったのです。兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。
その大本営の参謀たちは、戦後どのような責任をとったのでしょうか。象徴的な例をひとつ挙げます。
太平洋戦争発起時の大本営参謀本部の作戦課長に、服部卓四郎という人物がいました。まさに作戦の中枢に位していた人物です。彼はサイパン島の陥落を機に、中国の奥地に連隊長として左遷されていました。
服部大佐は、戦後間もなく、GHQのウィロビー少将によって、一人任地から連れ戻されています。名目は太平洋戦争の戦史編集ということでしたが、実際には対ソ連戦に備えた軍事情報の提供と、再軍備の下工作に携わっていたのです。
なぜ服部大佐だったのか。その理由は簡単でした。大本営に着任する前、彼は関東軍(満州[中国東北部]に駐屯していた日本陸軍部隊)の作戦主任でした。関東軍の長年の仮想敵国はソ連でした。もうお分かりになった筈です。服部大佐は、日本を片付けたアメリカ軍にとって重要な人物と判断されたのです。
旧軍の職業軍人を集めた「服部機関」なるものが、GHQからの給与を受けながら再軍備の下工作に暗躍し、大佐自身は再軍備の総参謀長に擬せられていました。彼が仕えた東条首相が、A級戦犯として処刑される前後のことです。
私がスガモ・プリズンに送還されて間もないころに朝鮮戦争が勃発し、警察予備隊が発足したことは先にお話ししました。服部大佐の幕僚長就任こそ、時の吉田首相によって忌避されましたが、旧軍人に対する公職追放令は解除され、職業軍人だった者たちが、続々と警察予備隊に入隊しました。それが、今日の自衛隊の発端です。
その旧軍人たちを、ここで一概に非難するつもりはありません。家族を養わねばならなかったでしょうし、日本を赤化から防止する「建前」もあったでしょう。ですが、職業軍人とは、昔でいえば武士です。武士道の最重要な規範に、恥を知ることがあります。同義語に名誉を尊ぶ、という言葉もあります。
彼らの大部分は、参謀の立案した作戦計画に従って戦場に投入され、命を落としました。運良く生き残って本国へ戻り、また懸章(徽宗注:勲章?)をぶら下げる軍人のどこに恥を知る心があったのでしょうか。
もうひとつだけ事例を挙げます。戦争末期。日本の都市は、アメリカの絨毯爆撃によって壊滅的な打撃を受けました。何十万人もの老人や女、子供が焼き殺されました。さらに広島、長崎には、事前の警告なしに原爆が投下されました。これが戦争犯罪でなくてなんでしょう。一方で、落下傘降下して捕虜になった敵の飛行兵たちを処刑した日本軍の将兵は、戦後、戦争犯罪者としてスガモ・プリズンで処刑されています。
その爆撃作戦を立案し、指揮したのは、アメリカ軍のカーチス・ルメイという空軍少将でした。戦後彼は、空軍元帥にまでなっています。その彼に、日本政府は昭和39年、勲一等旭日大綬章を授与しているのです。もちろん天皇の名によってです。授章の理由は、日本の航空自衛隊の育成に協力したことでした。
ヘドが出そうです。ねじれにねじれた戦後日本の在り様こそが、ニューギニア島はじめ太平洋の島々で、飢えて野垂れ死にした兵士たちの実相を、直視することから目をそらしてきた結果としてあるのです。
防衛庁が防衛省に昇格し、憲法改正のための国民投票が論議されているいまの日本に、最も求められている国民的課題は、60年前に行った大戦の真相と、それを覆い隠してきた歴史的経緯を、しかと検証する営為だと私は思います。醜いはらわたは、明るみに出されねばなりません。歴史の闇に閉ざされてきたこのおぞましい事実を、白日の下に晒すことによって初めて、今後の日本がたどるべき進路が、浮かび出て来るのではないでしょうか。腐臭に満ちた日本の道徳的、倫理的再建の糸口もまた、そのような営為を通してのみ、見出される筈だと、私は自責の念を込めて思うのです。
そのために、自らの行為も敢えて曝しながら、この原稿をまとめる作業をしてきました。「あの戦争は酷かったんですね」という感想で終わることを、深く懸念しているからです。
デイリー新潮編集部
新潮社
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