「紙屋研究所」から、ローマーの本の書評の一部を転載。
「市場経済」と「資本主義」を同一視してはいけない、というのが紙屋氏の主張だが、私には今ひとつ理解ができない。
そもそも、「市場経済は、等価交換で成り立つ商品交換経済のことです」という紙屋氏の定義は納得できるだろうか。これは原始的な(牧歌的な)物々交換の時代なら成り立っていたかもしれないが、貨幣経済に入ってからは、利潤を考慮して交換(商取引)をするのが当たり前になっているのではないか。だからこそ、「市場原理主義」が新自由主義経済の代名詞にもなっているのであり、政府が規制しない限り、市場経済は常に資本主義(資本家の利益の最大化を図る交換経済)と同一になるわけである。
ただし、紙屋氏の主張に賛成できる部分もあり、それは、社会主義の定義として「生産手段の国有化」ととらえるのは狭い(あるいは古臭い)考えではないか、という指摘だ。ローマーが別の場所で言っている(らしい)ように、国家政府による計画経済というのは市場経済より失敗する可能性が高いわけで、それはソ連の運命が証明している。(ソ連がなぜ失敗したかは前に書いたような気がするので今さら論じない。)
では、「これからの社会主義」はどうあるべきか、を考えた時、私は紙屋氏のように市場の機能や市場に対する政府や市民の介入をそれほど信頼はできない。その考え(信頼)がナンセンスであるのは、国民が上級国民と下級国民(国民の6割くらいが下級だと思う。)に分かれ、下級国民が貧困にあえぐ今の日本の惨状を見れば明白だろう。
(以下引用)
「市場経済」と「資本主義」を同一視してはいけない、というのが紙屋氏の主張だが、私には今ひとつ理解ができない。
そもそも、「市場経済は、等価交換で成り立つ商品交換経済のことです」という紙屋氏の定義は納得できるだろうか。これは原始的な(牧歌的な)物々交換の時代なら成り立っていたかもしれないが、貨幣経済に入ってからは、利潤を考慮して交換(商取引)をするのが当たり前になっているのではないか。だからこそ、「市場原理主義」が新自由主義経済の代名詞にもなっているのであり、政府が規制しない限り、市場経済は常に資本主義(資本家の利益の最大化を図る交換経済)と同一になるわけである。
ただし、紙屋氏の主張に賛成できる部分もあり、それは、社会主義の定義として「生産手段の国有化」ととらえるのは狭い(あるいは古臭い)考えではないか、という指摘だ。ローマーが別の場所で言っている(らしい)ように、国家政府による計画経済というのは市場経済より失敗する可能性が高いわけで、それはソ連の運命が証明している。(ソ連がなぜ失敗したかは前に書いたような気がするので今さら論じない。)
では、「これからの社会主義」はどうあるべきか、を考えた時、私は紙屋氏のように市場の機能や市場に対する政府や市民の介入をそれほど信頼はできない。その考え(信頼)がナンセンスであるのは、国民が上級国民と下級国民(国民の6割くらいが下級だと思う。)に分かれ、下級国民が貧困にあえぐ今の日本の惨状を見れば明白だろう。
(以下引用)
市場経済=資本主義だという誤解があるので、市場を排除しなければ社会主義だと言えないと思っている人がいますし、市場を認めることは社会主義の後退・敗北として受け止められています。
ここで考えておくべきは、一つは、市場経済と資本主義の違いでしょう。
資本主義は、Gという投資額をG’、つまりG+ΔGにすること、もうけをあげることを至上目的・最優先にする経済のことです。
両者は明らかに違うものです。
こまかくは立ち入りませんが、資本主義は市場経済という交易様式の上に成り立っている生産様式です。
資本主義の克服というのは、もうけをあげることを経済の至上目的(自己目的・最優先課題)にしている、そういう原理が全体を覆っている社会を乗り越えることです。長い資本主義の歴史の中で、利潤第一主義という原理には次第に修正がかけられていきます。
もうけ本位でやりすぎて、労働者がバタバタ死ぬために労働者は反乱を起こし、工場法ができました。社会保障もできました。同じように環境が破壊されるので、環境規制もできました。
そのように、「もうけ最優先」という原理には次第に規制がかけられて行きます。
しかし、社会全体ではやはり「もうけ最優先」「利潤第一」という原理がはびこっています。
社会の必要を第一にして、こういう原理を自分(社会)の統御・コントロールのもとにおいていくのが社会主義でしょう。
従来は、その統御・コントロールを市場と対立させて、生産手段を国家所有にして一元的な集権計画に委ねる経済が「社会主義」だとされました。
しかし、市場と資本主義は別のものであり、市場を使いながら資本主義を克服していくという方策は、いますでに資本主義の中にそのヒント・制度が芽生え始めています。
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