仕事の都合で更新が遅くなった。
「阿修羅」の記事のコメントに、福島に原発が作られた時の状況が書かれた週刊現代の記事が載っていたので、一つの資料として掲載しておく。
いわゆる、「金で人の横っ面をひっぱたく」というやり方である。しかも、金が投下されるのは最初だけで、後は記事中にもあるように「釣った魚に餌はやらない」ので、地元はさびれる一方。原発交付金は馬鹿な地方自治体の長や議会によって箱モノとなって消えていく。すなわち、行政と癒着した土建屋に金が流れていくだけである。その土建屋を通じて、行政の長や地方議会の議員たちの懐にも入るわけだ。
まあ、これが日本政治の構造である。そして、いったん原発事故が起きると、誰一人、責任など取りはしない。すべては住民や国民の負担となるのである。
こんな日本という国に愛国心を持てという方が無理ではないか?
いや、私は日本という国の文化にも自然にも愛情を持っている。しかし、日本という国の政治や社会体制は、根っこから腐っているとしか思えない。それらすべては拝金主義という悪魔のためである。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と言った。 (夏目漱石『三四郎』より)
(以下引用)
05. 2011年5月10日 00:58:08: zg1HQqJF1o
以下「週刊現代 5/7.14号」“原発の力学・なぜ福島だったのか”より、一部引用
<前略>
災害以降、どこにもきちんと書かれていないが、根本的な疑問を抱いている人は多いだろう。
「なぜ、福島に原発を造ることになったのか?」
福島第一、第二原発が生む電気は全て首都圏が消費している。長い長い送電線によって、福島の海辺からはるばる送られてくる。そのためにロスする電力の量は1割近いとも言われる。
なぜ、わざわざそんな面倒なことをする必要があるのか。どうして東京電力は東京や千葉に原発を造らなかったのか。
そこには原発を巡る力学が働いている。
<中略>
なぜ福島だったのか スリーマイル島の事故以来、原発反対に身を投じて来た双葉町の住民が解説する。
「タテマエは大熊と双葉が手を挙げたことになっていますが、それは順序が逆。’55年に原子力発電課をスタートさせた東京電力が、すぐさま浜通りを第一候補としてピックアップしたのです」
その背景には、当時、東電の次期社長と目されていたある人物の存在があった。「当時副社長だった木川田一隆氏です。浜通りより少し内陸の伊達郡の出身で、福島の地理には精通していました。県は県で、’60年に原子力産業会議に加盟。時の佐藤善一郎知事(引用者注: 1957~1964)と木川田氏とのホットラインによって、話はとんとん拍子に進んだんです」(同前)
佐藤知事は大熊、双葉両町長を呼びつけて行ったという。
「あんたら、財政的に困ってんだろう。原発を誘致したらどうだ。固定資産税が入るし、将来、町の発展につながるんだから」(恩田勝亘著『原発に子孫の命は売れない』より引用)
●想定外ではなく、想定したくなかっただけだ
ではもう一段階、疑問を進めよう。なぜ東電は、浜通りに目をつけたのだろうか。
背景には、’60年に原子力産業会議が行なったある試算があった。
日本初の原発となる茨城県東海村の東海一号炉が重大事故を起した場合―ー
・死者720人
・障害5000人
・要観察130万人
お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都近郊には造れない。それが東電の判断だった。
原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で,他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットはほぼ自動的に浜通りに決まった。何のことはない。「危険すぎて首都圏に造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島浜松通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。
受け入れた町はどうなったか。双葉町議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。
「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4軒5軒と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。東電の100%出資の子会社『東双不動産』という会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚に餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタと潰れました」
結局、潤ったのは最初の10年で数十億円(現在の貨幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。これも、町役場やコミュニティセンターなどの箱モノに消えた。広く整備された道路に立ち並ぶパチンコ屋とコンビニ。貧しくても住民同士支え合っていたかつてのコミュニティは、完全に失われた。
「阿修羅」の記事のコメントに、福島に原発が作られた時の状況が書かれた週刊現代の記事が載っていたので、一つの資料として掲載しておく。
いわゆる、「金で人の横っ面をひっぱたく」というやり方である。しかも、金が投下されるのは最初だけで、後は記事中にもあるように「釣った魚に餌はやらない」ので、地元はさびれる一方。原発交付金は馬鹿な地方自治体の長や議会によって箱モノとなって消えていく。すなわち、行政と癒着した土建屋に金が流れていくだけである。その土建屋を通じて、行政の長や地方議会の議員たちの懐にも入るわけだ。
まあ、これが日本政治の構造である。そして、いったん原発事故が起きると、誰一人、責任など取りはしない。すべては住民や国民の負担となるのである。
こんな日本という国に愛国心を持てという方が無理ではないか?
いや、私は日本という国の文化にも自然にも愛情を持っている。しかし、日本という国の政治や社会体制は、根っこから腐っているとしか思えない。それらすべては拝金主義という悪魔のためである。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と言った。 (夏目漱石『三四郎』より)
(以下引用)
05. 2011年5月10日 00:58:08: zg1HQqJF1o
以下「週刊現代 5/7.14号」“原発の力学・なぜ福島だったのか”より、一部引用
<前略>
災害以降、どこにもきちんと書かれていないが、根本的な疑問を抱いている人は多いだろう。
「なぜ、福島に原発を造ることになったのか?」
福島第一、第二原発が生む電気は全て首都圏が消費している。長い長い送電線によって、福島の海辺からはるばる送られてくる。そのためにロスする電力の量は1割近いとも言われる。
なぜ、わざわざそんな面倒なことをする必要があるのか。どうして東京電力は東京や千葉に原発を造らなかったのか。
そこには原発を巡る力学が働いている。
<中略>
なぜ福島だったのか スリーマイル島の事故以来、原発反対に身を投じて来た双葉町の住民が解説する。
「タテマエは大熊と双葉が手を挙げたことになっていますが、それは順序が逆。’55年に原子力発電課をスタートさせた東京電力が、すぐさま浜通りを第一候補としてピックアップしたのです」
その背景には、当時、東電の次期社長と目されていたある人物の存在があった。「当時副社長だった木川田一隆氏です。浜通りより少し内陸の伊達郡の出身で、福島の地理には精通していました。県は県で、’60年に原子力産業会議に加盟。時の佐藤善一郎知事(引用者注: 1957~1964)と木川田氏とのホットラインによって、話はとんとん拍子に進んだんです」(同前)
佐藤知事は大熊、双葉両町長を呼びつけて行ったという。
「あんたら、財政的に困ってんだろう。原発を誘致したらどうだ。固定資産税が入るし、将来、町の発展につながるんだから」(恩田勝亘著『原発に子孫の命は売れない』より引用)
●想定外ではなく、想定したくなかっただけだ
ではもう一段階、疑問を進めよう。なぜ東電は、浜通りに目をつけたのだろうか。
背景には、’60年に原子力産業会議が行なったある試算があった。
日本初の原発となる茨城県東海村の東海一号炉が重大事故を起した場合―ー
・死者720人
・障害5000人
・要観察130万人
お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都近郊には造れない。それが東電の判断だった。
原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で,他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットはほぼ自動的に浜通りに決まった。何のことはない。「危険すぎて首都圏に造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島浜松通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。
受け入れた町はどうなったか。双葉町議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。
「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4軒5軒と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。東電の100%出資の子会社『東双不動産』という会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚に餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタと潰れました」
結局、潤ったのは最初の10年で数十億円(現在の貨幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。これも、町役場やコミュニティセンターなどの箱モノに消えた。広く整備された道路に立ち並ぶパチンコ屋とコンビニ。貧しくても住民同士支え合っていたかつてのコミュニティは、完全に失われた。
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