問題3と4はつまらない設問だと思うが、答えもありきたりな感じだ。で、私が一番興味のある問題2だが、これに対するカマヤン氏の答え(私が赤字にしてある)は見事だ。真実は、まさに、これだろう。
なお、中学や高校での日本史の授業がだいたい明治維新くらいまでで年間カリキュラムが終わるようになっているのは、太平洋戦争突入や、その敗戦について、国民(生徒)の頭に疑問を起こさせ、政治意識を持たせたくないからだ、というのは多くの人が感じていることではないだろうか。
(以下引用)
2015-11-08
■[雑記]日本の教育行政はそもそも何を目的としているのか・2
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20151106/1446820804 の続き。
現時点で
http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/07/233134
http://www.ugo-butsu.com/2015/11/post-5713.html
http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20151108/1446983360
という反応をいただいている。
1
まず自己ツッコミとか。「藩校」ってどうなるんよ? というツッコミをいただきましたが、
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kamayan/20151106/1446820804
nanae_ll 本題とは関係ないけど藩校は身分制ゆえに私塾の扱いなのかしら
俺もそう思いました(後出しジャンケン)が、俺は藩校って内実を知らないので。俺の回答へはそういう反証があります、までにしておく。
徳川幕府に知性で対立しようとした藩に藩校があったんだろうなあと思うけど。ちなみに山梨県には藩校はございません。ウチの地域は長男には学歴を付けません、土地と家があるから。次男以降に財産のある家は学歴を付けさせます。という因習が。
2
試験テクニック的には、こういう設問には、頭から回答してはダメで後者から回答するのが得点を稼ぎ易い(正確には解答しやすいところから解答しろ)という技もあるので、後ろの方から回答を再度試みてみます。
3
<試験に絶対出る教育問題>
以下の問題に答えよ。制限時間なし
.
1 欧米に日本のような予備校や塾はない。
なぜ日本ではダブルスクール化が進んでいるのか。
2 社会に出て必要な「法律」も「経済」も教科にないのはなぜか。
3 「受験」と「教育」と「学問」の違いについて述べよ。
4 「受験秀才」とは揶揄か褒め言葉か。その理由も述べよ。
4について。
「学歴貴族」という集団がありまして。「学歴貴族予備軍」への揶揄が「受験秀才」という言葉だと思われます。
3について。
3-1;「受験」は「学歴貴族」の認定テスト。東アジア史の伝統上「科挙」試験を模範とする。
東アジア社会の悪しき伝統により、「科挙」より程度が悪く、原則的に一生に一度しかチャレンジできない。
チャレンジできる回数が少なくなるほど、階層の固定化にはより有利に働き、縁故社会・身分制社会の際清算にはより有利に働く。AO入試は縁故受験の別名であり、そこから小保方晴子のような人材も輩出される。
学校としては生徒より生徒の保護者が資産家であるかどうか、上層階層であるかどうかのほうが重要であり、できるだけ資産家・上層階層の子弟を入学させたい。
3-2;「教育」は「調教」である。
ある刺激に対して特定の反応を示すよう調教することが原則的な意味での「教育」である。
「ある刺激」と「特定の反応」への普遍性の度合、深度は、社会と時代によって規定される。
最も重要であると思われる調教へ対してはあらゆる手段が用いられるが、教員・保護者・生徒・地域社会・政府・文部省が同時に最も重要だと合意できることは意外に少ない。少なくとも「知識を与えることが最も重要だ」とは彼らのうちだれも考えていない。「実直な精神を刷り込むこと」が最も重要だという合意はなんとなくとられるので、10段ピラミッドのような児童虐待「感動ポルノ」は温存される。
3-3;
中世欧州社会において「学問」は僧侶の独占物だった。
「科学革命」以降、18世紀産業革命を経て20世紀初頭まで、たまたま、より学問的に優れた国家が世界を席巻するという競争的状況が生まれ、国家が学問を支援した。
21世紀以降、どこの国も「もうこの辺で格差固定しようぜ」と方針転換したので、20世紀前半程「学問」に国家は価値を置いていない、と、俺は感じる。
2について。
文部省はきっとこう言う。「公民」や「現代社会」という教科で「法律」も「経済」も教育している。
60年安保から70年安保にかけての学生運動により、「法律」や「経済」を教科として理想主義的に教育すると政府がやばくなると日本政府は経験的に感じ(その頃に「法律」「経済」という「教科」が高校までにあったわけじゃないけど)、深い知識をできるだけ大衆に与えないよう方針づけたというのは考えられる。
根っこには日本の「ナショナリズム」は、既存上流階層が自分の地位を温存させるための「公定ナショナリズム」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060220/1140368017を国民へ「教育」しようとし(調教であるから知的にはブレーキがかかるよう設計されているhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051214/1134509973)、国内の平等と公正を要求する意味での民族ナショナリズムが育たないよう設計され、それが戦前からの日本における社会科学の教育での貧弱を規定している。
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