ある意味では、今年一番重要な文章かもしれない。
日本も「来るところまで来た」という感じだ。精神の土台から腐っている。
コメントの2番目の開業医氏のように、何でも病気扱いして患者数を増やして医者が儲かればいい、という精神も唾棄すべきものだが、このコメントも一つの「日本の病症例」として残しておく。
(以下引用)「孔徳秋水」氏のツィッターで知った記事である。この記事の存在を教えてくれたことに感謝したい。
2016-12-21
「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」
大学の授業内で時々ミニレポートを書かせ、その提出をもって出席票に替えている。その日、家に帰って80人あまりの学生のミニレポートを読んでいたら、ほぼ同じ内容のミニレポートが続けて四枚出てきた。内容もそっくりなら書体もまるでそっくり。すぐに、これは全部一人の学生が書いたなと感じた。
おそらく、四人の中で一番文章量の多いAさんが「主犯」。あらかじめ頼まれていたAさんが、欠席している残りの三人の分も書いたのだ。そして次回は、その三人の中の誰かが「主犯」を引き受けるのだろう。他の学生の出席票も書いて出すとか、代返をするとかと同じ、昔からある大学生の不正互助行為である。
にしても、それを堂々とやっているのにちょっと驚いた。普通はバレないよう、内容や言葉遣いや書体を多少は変えるものだ。これでは「見つけて下さい」と言っているも同然。自分のも含めて四人分を時間内に書かねばならないということで、小細工している余裕がなかったのだろうか。
うっかり騙されるのは仕方がないが、見つけてしまったものには、それなりの対応をしないと‥‥ということで、次の授業後、四人を呼び出した。一人は欠席していて、三人が来た。ミニレポートを机に並べ、Aさんが誰かを確かめた上で、「これを全部書いたのはあなたですね?」と聞くと、そうだと答えた。
この後は「やっちゃいけないことだよね」「スイマセーン」「じゃ、この日は全員出席取り消しね」で終わると思ったのに、事態は意外な方向に。「やっちゃいけないことだよね」に、Aさんが「どうしてですか?」と尋ねたのだ。
以下、私とAさんの会話。
私「それぞれが書くことになっているものを、一人が代筆してはいけないでしょう。こういう方法で出席したことにするのも、ずるい行いでしょ」
Aさん「でも他の授業でもやってるし、今まで他の先生には何も言われたことないですけど」
私「それは、その先生が気づかなかっただけじゃないですか? 認めてはいないと思いますよ。じゃあ、やってもいいことだと思っていたの? いつからそう思ってた?」
Aさん「えっと、大学入って少ししてから」
私「そうなんだ。でもこういうのはダメです。カンニングと同じ、不正行為になります」
Aさん「そうなんですか」
私「人に書いてもらうとか人のを書くということは、学問の世界ではアウトですよ。この授業でも、自分で考えて書いたものを評価するって言ってありますよね。それをあなたたちは破っているわけ。しかも私を欺いて出欠を誤摩化しているから更に悪いです」
Aさん「知りませんでした。知らなかったことを教えて下さってありがとうございました!」
私「‥‥はい。じゃあ、この日の出席は全員取り消しね」
Aさん「どうしてですか?」
私「だって不正行為をしたでしょ? 取り消しになるのは当然でしょ」
Aさん「でも悪いということを知らなかったんだから、それはちょっと行き過ぎじゃないですか?」
私「‥‥いや、あのね‥‥‥」
この後、「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」ということを諄々と説いた。後の二人はきまり悪そうな顔をしていたが、Aさんは最後までちょっと不服そうだった。
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私もこの稼業が長いので、これまでさまざまな学生を見てきたが、今回は一番考えさせられた。
単位認定のレポートをネットからの剽窃で埋めた上で、コピペはしてないと言い張った学生のほうが、まだ理解できる。「自分のやっていることは人から盗み人を欺いて利益を得ることであり、それは悪いことだから単位はもらえない」という認識があるから、彼は「やってない」と主張したのだ。
しかしそれと同じようなことをしているにも関わらず、「これは悪いことだ」という認識のない学生が登場し、誰でも持っていそうな常識的な善悪の観念に訴えることができなくなった。
レポート代筆や出席票の代筆、それは大学生の”処世術”として、おそらく広く行われている。それを、黙認されていると捉える学生もいるだろう。バレたらまずいという意識がないから、堂々と同じ内容、同じ書体で書いて提出できたのだ。
そして、「それは悪いことだ」と初めて教えられたので、Aさんは「知らなかったことを教えて下さってありがとうございました!」と礼を述べた。何の衒いもなくハキハキと。
私が一瞬言葉を失ったのは、基本的な善悪の判断力がすっぽり欠けている(ように見える)にも関わらず、こういう妙な礼儀正しさだけはある点が、一種異様な感じに映ったからである。もしかして、「これはどうやら叱られているっぽい」と感じ、「教えてもらった」ということで礼を言えば、それで話が終わると思ったのだろうか。
「出席取り消し」に対する「悪いと知らなかったんだから罰を受ける謂れはない」という主張にも、虚を突かれた。
「今回だけは見逃して下さいよ」という感じではない。自分の主張はあくまで正しい、理に適っていると確信しての発言だった。「やったことが不正でも自分に悪意はなかった。その自分の内心のほうを尊重せよ。尊重するべき立場にあなたはいる」と、Aさんは私に訴えていたのだ。
この間、「高大接続システム改革」の影響をめぐってのトークセッションに登壇した時、改革の方向性を評価する一方、大学受験の「就活」化が懸念されるという話が出た。
表現力や主体性が重視されることによって、若者は、大学(社会)が求めるコミュ力の発揮や自己主張の仕方を学習し、型として演じるようになる。それが思考力や判断力の育成に繋がらないままに、肥大化する危険性もあると。
「教えて下さってありがとうございました!」や、「悪いということを知らなかったんだから(罰は行き過ぎ)」を、コミュ力や正当な自己主張と捉えていそうな学生が出てきたところを見ると、実際、もうそうなっている部分はあると思った。
「うまくやってる奴は一杯いる。自分だけ損することはない。いや、みすみす損をするのは悪だ」という価値観は、この社会に行き渡っている。その一方で、「積極的にコミュニケーションし、気持ちを人に伝えなさい。そして堂々と自己主張しなさい」という啓蒙も行き渡っている。
何かあると思わず「最近の若いもんは‥‥」という定型句を呟きたくなるが、若者は社会からのメッセージに忠実に従っているのだ。つまり大人である私たちのしてきたことが、巡り巡ってもたらした結果だと言うしかない。
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