山本七平と小室直樹の「日本教の社会学」を読んでいて、まだ少し読み残している段階だが、ここまで読んだ限りでは、「日本社会は空気が支配する社会だ」とは言っているが、「では、空気はいかにして生まれるか」というメカニズムは論じていないようだ。そこで、私の今考えたことを書いておく。
それは、「空気の発生の際に日本人は論理ではなく感情で判断している。その感情とは、「きれいか汚いか」であり、判断の根拠は、当面問題となっている『問題の回答』が、きれいな心情によるもの、つまり『思い邪(よこしま)なし』かどうかだ」、ということだ。その回答の内容や提唱者によこしまな思いがないと感じられれば、その回答は価値があると日本人は感情で判断する。たとえ、それが間違った回答でもまったく問題はない。
だから、西南戦争での西郷隆盛は当時の天皇制への反逆者だったが、民衆の人気は高い。一方、明治政府を作り上げた大久保利通は、その心情が庶民には分からないので、まったく人気がない。と言うより、当時の明治政府への民衆の不満を(明治維新で民衆が得た「四民平等」「廃藩置県」などの利益は忘れて)政府の中心人物だった大久保が一手に引き受けさせられたのだろう。つまり、「政府の汚れ」が大久保に帰せられたわけだ。
要するに、当面の問題への判断の正否など、誰でも間違う可能性があるのだから、その判断を庶民(被支配者)が「頭で」考えても仕方がないのである。判断材料が真実か虚偽かも分かりはしない。
では、どうするか。「直感」で判断すればいいのである。その「直感」とは、言い換えれば「きれいか汚いか」だ。ある人物の行動が「きれいな行動」だと思えれば、庶民はそれを支持する。「忠臣蔵」のようなテロや226のようなテロも、「無私の精神」からの行為であり、「当事者たちの心がきれいだ」と思うから日本人には人気があったわけだ。日本人の多くが金持ちを嫌いなのは、そのカネはどうせ「汚い行動」で得たものだろうと思うからである。政治家も同じだ。田中角栄は総理大臣になった当時は大人気だったが、そのカネへの執着や行動は「汚い」と判断され、人気は急落した。「ロッキード事件」はアメリカの陰謀だったと思われるが、まさに日本人の性質をよく読んだ陰謀だったわけだ。
日本人が昔から清潔さを好む民族であったことは知られているが、神道など、何の教理も無いので宗教とも言えないくらいだが、神道では「汚れ」を忌むことだけは確かだ。そして、その性質は神道だけには留まらない。日本で新コロがあまり流行しなかったのは、日本人が清潔大好き民族だったというのが一番大きい理由ではないか。
しかし、精神における「きれい好き」ということはあまり誰も指摘していないようだ。そして、新自由主義が隆盛し、資本主義が腐乱するに伴って、日本人の精神の「きれい好き」も怪しくなりつつあるようだ。それが「今だけカネだけ自分だけ」という汚物のような精神だ。
それは、「空気の発生の際に日本人は論理ではなく感情で判断している。その感情とは、「きれいか汚いか」であり、判断の根拠は、当面問題となっている『問題の回答』が、きれいな心情によるもの、つまり『思い邪(よこしま)なし』かどうかだ」、ということだ。その回答の内容や提唱者によこしまな思いがないと感じられれば、その回答は価値があると日本人は感情で判断する。たとえ、それが間違った回答でもまったく問題はない。
だから、西南戦争での西郷隆盛は当時の天皇制への反逆者だったが、民衆の人気は高い。一方、明治政府を作り上げた大久保利通は、その心情が庶民には分からないので、まったく人気がない。と言うより、当時の明治政府への民衆の不満を(明治維新で民衆が得た「四民平等」「廃藩置県」などの利益は忘れて)政府の中心人物だった大久保が一手に引き受けさせられたのだろう。つまり、「政府の汚れ」が大久保に帰せられたわけだ。
要するに、当面の問題への判断の正否など、誰でも間違う可能性があるのだから、その判断を庶民(被支配者)が「頭で」考えても仕方がないのである。判断材料が真実か虚偽かも分かりはしない。
では、どうするか。「直感」で判断すればいいのである。その「直感」とは、言い換えれば「きれいか汚いか」だ。ある人物の行動が「きれいな行動」だと思えれば、庶民はそれを支持する。「忠臣蔵」のようなテロや226のようなテロも、「無私の精神」からの行為であり、「当事者たちの心がきれいだ」と思うから日本人には人気があったわけだ。日本人の多くが金持ちを嫌いなのは、そのカネはどうせ「汚い行動」で得たものだろうと思うからである。政治家も同じだ。田中角栄は総理大臣になった当時は大人気だったが、そのカネへの執着や行動は「汚い」と判断され、人気は急落した。「ロッキード事件」はアメリカの陰謀だったと思われるが、まさに日本人の性質をよく読んだ陰謀だったわけだ。
日本人が昔から清潔さを好む民族であったことは知られているが、神道など、何の教理も無いので宗教とも言えないくらいだが、神道では「汚れ」を忌むことだけは確かだ。そして、その性質は神道だけには留まらない。日本で新コロがあまり流行しなかったのは、日本人が清潔大好き民族だったというのが一番大きい理由ではないか。
しかし、精神における「きれい好き」ということはあまり誰も指摘していないようだ。そして、新自由主義が隆盛し、資本主義が腐乱するに伴って、日本人の精神の「きれい好き」も怪しくなりつつあるようだ。それが「今だけカネだけ自分だけ」という汚物のような精神だ。
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