「晴耕雨読」所載、想田和弘ツィートより転載。
先日死去したばかりのベアテ・シロタ・ゴードン女史と、彼女の日本国憲法との関わりについての記事である。安倍政権による憲法改定(「改正」ではない)への布石が次々に打たれている現在、日本国憲法の意義、特にこの憲法が日本の女性に与えた驚異的な恩恵のことを広く一般に知らしめる意味で、拡散すべき記事だと思う。
もちろん、この種の本は書店などに行けば、それこそ汗牛充棟であるが、それは「ほとんど誰も読まない」のである。したがって、今の日本の女性たちの大半は、自分たちの得ている女性としての権利(男女平等)が、GHQの「押し付け憲法」(笑)のお陰であること、そしてその蔭にベアテ・シロタ・ゴードン女史の偉大な働きがあったことなど何も知らない。(憲法の規定が形骸化しているのは現実行政、つまり政府自体の問題なので、ここでは扱わない。)
もちろん、日本国憲法の意義はそれだけではない。日本国民全員がその恩恵を受けているのである。中でも、右翼にもっとも評判の悪い第九条のお陰で、日本は軍事費に金を使う必要がなかった(その代償が安保条約と在日米軍基地の存在だが)ために、敗戦からの復興が急速に進んだのである。他に、朝鮮戦争での特需その他、いろいろあるが、これが最大の復興の原因だ。その証拠に、日本と同様に軍事費に金を使えなかった敗戦国の西独だけが、先進諸国の中で大発展したわけである。
安倍政権によって軍事費が膨れ上がっていくことが、日本にとって大きな経済的損失になることは自明だろう。儲かるのは一部の軍需産業だけであり、そんなものの「おこぼれ効果(トリクルダウン)」など国民全体にとっては微々たるものである。
税金から軍事費に使われる金は、他の部分での政府支出(特に福祉関係)の圧迫によって産み出される筋書きであるのは明らかだ。そして、中下層に対する歳出削減は日本の不況に拍車をかけるのも明らかだろう。円安や一時的な株高などが日本経済を回復させることはありえないと私は考えている。
話が長くなりそうなので、ここまでにする。
下記記事をよく読んで、日本国憲法こそ世界に誇るべき稀有な「世界遺産」であり、「人類の叡智と良心と理想の結晶」であることをもう一度考えるのがよいだろう。(言い方が偉そうになってしまったが、書き直すのも面倒だからそのままにする。)
ただし、下記記事は記述が長々しいので、読み手が熟知している部分などは適当に端折って読んでいいと思う。
(以下引用)一箇所、「つけらる」という部分を「つけられる」としたほか、誤記らしい二箇所に注をつけた。他はそのまま引用。
http://bit.ly/1373q4E
日本国憲法「女性の権利条項」起草者ベルテ・シロタ・ゴードン~28号(2009年1月1日)弓仲
HPニュース28弓仲.JPG「世界」(1993年6月号)に掲載されたインタビュー記事
「私はこうして女性の権利条項を起草した/ベアテ・シロタ・ゴードン」
(聞き手・横田啓子)を深い感銘とともに読む機会を得た
(「世界」憲法論文選/井上ひさし・樋口陽一編〔岩波書店〕収録)。
紹介し、思うところを述べたい。
1 日本国憲法の「女性の権利条項」を起草した女性ベアテ・シロタ・ゴードンは、1923年、ロシア人ピアニストを両親としてウィーンで誕生した。
1928年、父が東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授として招かれたことから、父母とともに来日し、5歳から15歳までの10年間、日本社会にどっぷりと溶け込んで生活した。
ベアテが見た日本社会における日本女性は、家庭では力を持っており、子供の教育や稽古事などの文化的活動については母親が決定するなど取り仕切っていたが、パーティーなどの公的な場には現れず、家庭に一生を捧げる生活をするのが常であった。
他方、日本女性には、政治的な権力もなく、選挙権も財産権などの権利もない状態に置かれていた。
ベアテは、15歳の時に渡米し、アメリカの大学を卒業、アメリカ国籍を得て、戦後、22歳の時、連合国軍総司令部民政局の女性文官として、1945年12月に再来日した。
2 民政局において、ベアテは、日本語が堪能で、日本社会の事情に精通していたことから、1946年2月、日本国憲法の草案起草に参画する。
彼女は、人権小委員会に配属され、「女性の権利条項」等の起草を担当した。
他の男性小委員会メンバーも日本女性の隷属的状況に同情的でフェミニズムの考えを持っていた。
ベアテは、自らの日本での経験から、日本女性に欠けている権利-財産権、相続権、選挙権等-のほか、女性は結婚相手を自分で選べないこと、女性は自分からは離婚できないのに男性はできること、養子が女性の意思とは無関係に男性の家系継承目的で行われていたことなど、彼女が心外に思っていたことを改善し、女性解放実現のために憲法にできる限り具体的条項を盛り込むべく努力したという。
日本国憲法
第14条1項
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
同
第24条1項
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
同
第24条2項
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
これらの現行憲法の「平等」条項は、いずれも、ベアテが起草した草案の考えが基本的に維持されて、残されたものである。
3 ベアテは、「女性の権利条項」起草にあたり、日本の男性中心の官僚制度と社会の中では、憲法で規定しておかない限り、女性解放実現のための法的規制は困難であること、日本語の曖昧な表現可能性から、日本人男性官僚によってねじ曲げて解釈されないように明確である必要があることなどから、可能な限り、明確で具体的に書くよう努めた。
彼女は、草案起草段階では、妊婦の健康保護や出産休暇など細目まで書き込んだという。
国家は、妊婦及び育児にかかわる母親を、既婚、未婚を問わず保護し、必要な公的補助を与える義務を負う。
嫡出子(非嫡出子の誤記だろう:徽宗注)は法的差別を受けず、身体的、知的、社会的環境において嫡出子と同じ権利と機会を与えられる。
いかなる家庭への養子縁組も、夫と妻の双方が存命する限り、両者の明らかな合意なしには認められない。
養子に対する、他の家族員の利益を害する優遇措置はこれを認めない。
長子の特権は廃止する。
すべての子供は、出生状況のいかんに拘わらず、個人の成長のための平等な機会が与えられる。
本目的達成のために、8年間にわたる無料の普通義務教育が公立法学校において与えられる。
中等、高等教育はそれを希望するすべての適正(適性の誤記だろう:徽宗注)のある学生に無料で与えられる。
学習教材費は無料でなければならない。
……等々。
残念ながら、ベアテの起草になるこれらの草案は、「憲法の条文としては具体的すぎる」とか、「合衆国憲法にも女性の権利を保障する条文はなく、先進的にすぎる」などと批判され、総司令部の草案から削除されたので、日本国憲法の条項としては、陽の目を見ずに終わった。
しかし、現在、非嫡出子の差別問題、母性保護や未婚、既婚から派生する問題等が未解決のままであり、その解決が求められていることに鑑みれば、ベアテの先見性には驚かされるところ大である。
4 なお、文官とはいえ総司令部に属するベアテ起草の「女性の権利条項」の先見性に注目し、高く評価すればするほど、占領軍による「押しつけ憲法」論・改憲論に勢いを与えかねないとの懸念もあろうかと思われる。
しかし、以下に述べる日本国憲法の制定過程を振り返るならば、「押しつけ憲法」論の浅薄さは明らかであろう。
1945年8月のポツダム宣言の受諾と日本の敗戦による連合国軍の占領下で、日本国政府は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍の除去」と「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権尊重の確立」を義務づけられる(ポツダム宣言10項)とともに、「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し、且つ、責任ある政府の樹立」が占領軍の撤収の前提(ポツダム宣言12項)とされた。
戦前戦中の軍国主義的天皇制政府のもとで、抑圧され続けていた一般人民は、終戦をほっとして歓迎するとともに、民主主義、自由、人権の前進に大きな希望を抱いた。
しかし、日本国政府は、その期待に応えることなく、ポツダム宣言につき「国民主権原理の採用を必ずしも要求しておらず、国体は護持できる」と曲解して、大日本帝国憲法の改正にすら消極的態度をとり続けた。
総司令部から大日本帝国憲法を自由主義化することを求められた幣原喜重郎首相は、やむなく松本烝二国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会を発足させた(1945年10月)。
1946年2月8日に、松本委員会の憲法案が総司令部に提出されたが、それに先立つ同年2月1日、正式発表前に毎日新聞にスクープされた松本委員会の検討案は、「統治権の総覧者」としての天皇の地位を維持するなど、国民主権原理に背を向けた「国体護持」憲法案であった。
前述のベアテが参画した総司令部内での憲法草案起草は、松本委員会内部で検討されている案の保守的内容に驚いた総司令部内での対応の一環である。
5 1946年2月13日に前記ベアテ起草の「女性の権利条項」を含む総司令部の改正草案が日本国政府に示された。
総司令部案は、日本国政府の思惑を遙かに超え、国民主権原理の採用など大日本帝国憲法の根本原理そのものの変更を含むドラスティックなものであったから、日本国政府は大きな衝撃を受け、再考を求めるなど様々な抵抗を試みたが受け入れられず、結局、総司令部案に沿った内容で内閣の「憲法改正草案要綱」を決定し、国民に公表するほかはなかった(3月6日)。
その後、同年4月17日に「憲法改正草案」が作成されるが、その公表に先立つ4月10日には、帝国議会最後の衆議院議員総選挙が、 20歳以上の成年男女を選挙権者とする完全普通選挙制による選挙(女性参政権の実現)として行われ、39名の女性議員が誕生した。
この選挙では、憲法改正も争点として取り上げられ、より進歩的な憲法を求めた共産党を除く諸政党が「要綱」に賛成したほか、民間の言論団体も「要綱」に賛意を表明するなど、内容的には大方の国民の支持が得られたのである。
この選挙の結果をふまえ、帝国議会において、日本国憲法制定(大日本帝国憲法改正案の形で)の議論が為された。
衆議院では、主権問題での曖昧性を除去し、「国民に主権が存すること」を明示したほか、表現上の若干の修正を施した上、圧倒的多数の賛成で可決された。
その後、貴族院でも若干の字句修正ののち、3分の2以上の多数で可決され、衆議院の同意、枢密院での審議等の所定の手続きを経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布され、翌1947年5月3日から施行され、今日に至っている。
6 「日本国憲法」制定の過程では、大日本帝国憲法の根幹を変えずに、「国体護持」を目指していた当時の日本国政府及びその指導者達にとっては、総司令部からの「国民主権」等の「押しつけ」と言えたとしても、日本国民一般にとっては「押しつけ」ではなかった。
「総司令部案」が掲げ、女性参政権の実現の下での完全普通選挙により選ばれた実質的な「憲法制定議会」が支持し、明確化したとも言い得る
「国民主権」
「個人の解放と基本的人権の保障」
「軍国主義を清算しての平和主義」
は、多くの国民の憲法意識に沿う歓迎すべきものであった。
また、最近の世論調査によっても、
憲法9条「改正」反対が多数を占める。
安部内閣の下での国民投票法の強行可決など、最近の憲法9条等の憲法「改正」を目指す動きを引き続き警戒しつつ、年初にあたり、ベアテ女史起草の「女性の権利条項」を含む「日本国憲法」の価値を広め、定着させるための営みに力を注ぎたいと強く思う。
先日死去したばかりのベアテ・シロタ・ゴードン女史と、彼女の日本国憲法との関わりについての記事である。安倍政権による憲法改定(「改正」ではない)への布石が次々に打たれている現在、日本国憲法の意義、特にこの憲法が日本の女性に与えた驚異的な恩恵のことを広く一般に知らしめる意味で、拡散すべき記事だと思う。
もちろん、この種の本は書店などに行けば、それこそ汗牛充棟であるが、それは「ほとんど誰も読まない」のである。したがって、今の日本の女性たちの大半は、自分たちの得ている女性としての権利(男女平等)が、GHQの「押し付け憲法」(笑)のお陰であること、そしてその蔭にベアテ・シロタ・ゴードン女史の偉大な働きがあったことなど何も知らない。(憲法の規定が形骸化しているのは現実行政、つまり政府自体の問題なので、ここでは扱わない。)
もちろん、日本国憲法の意義はそれだけではない。日本国民全員がその恩恵を受けているのである。中でも、右翼にもっとも評判の悪い第九条のお陰で、日本は軍事費に金を使う必要がなかった(その代償が安保条約と在日米軍基地の存在だが)ために、敗戦からの復興が急速に進んだのである。他に、朝鮮戦争での特需その他、いろいろあるが、これが最大の復興の原因だ。その証拠に、日本と同様に軍事費に金を使えなかった敗戦国の西独だけが、先進諸国の中で大発展したわけである。
安倍政権によって軍事費が膨れ上がっていくことが、日本にとって大きな経済的損失になることは自明だろう。儲かるのは一部の軍需産業だけであり、そんなものの「おこぼれ効果(トリクルダウン)」など国民全体にとっては微々たるものである。
税金から軍事費に使われる金は、他の部分での政府支出(特に福祉関係)の圧迫によって産み出される筋書きであるのは明らかだ。そして、中下層に対する歳出削減は日本の不況に拍車をかけるのも明らかだろう。円安や一時的な株高などが日本経済を回復させることはありえないと私は考えている。
話が長くなりそうなので、ここまでにする。
下記記事をよく読んで、日本国憲法こそ世界に誇るべき稀有な「世界遺産」であり、「人類の叡智と良心と理想の結晶」であることをもう一度考えるのがよいだろう。(言い方が偉そうになってしまったが、書き直すのも面倒だからそのままにする。)
ただし、下記記事は記述が長々しいので、読み手が熟知している部分などは適当に端折って読んでいいと思う。
(以下引用)一箇所、「つけらる」という部分を「つけられる」としたほか、誤記らしい二箇所に注をつけた。他はそのまま引用。
http://bit.ly/1373q4E
日本国憲法「女性の権利条項」起草者ベルテ・シロタ・ゴードン~28号(2009年1月1日)弓仲
HPニュース28弓仲.JPG「世界」(1993年6月号)に掲載されたインタビュー記事
「私はこうして女性の権利条項を起草した/ベアテ・シロタ・ゴードン」
(聞き手・横田啓子)を深い感銘とともに読む機会を得た
(「世界」憲法論文選/井上ひさし・樋口陽一編〔岩波書店〕収録)。
紹介し、思うところを述べたい。
1 日本国憲法の「女性の権利条項」を起草した女性ベアテ・シロタ・ゴードンは、1923年、ロシア人ピアニストを両親としてウィーンで誕生した。
1928年、父が東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授として招かれたことから、父母とともに来日し、5歳から15歳までの10年間、日本社会にどっぷりと溶け込んで生活した。
ベアテが見た日本社会における日本女性は、家庭では力を持っており、子供の教育や稽古事などの文化的活動については母親が決定するなど取り仕切っていたが、パーティーなどの公的な場には現れず、家庭に一生を捧げる生活をするのが常であった。
他方、日本女性には、政治的な権力もなく、選挙権も財産権などの権利もない状態に置かれていた。
ベアテは、15歳の時に渡米し、アメリカの大学を卒業、アメリカ国籍を得て、戦後、22歳の時、連合国軍総司令部民政局の女性文官として、1945年12月に再来日した。
2 民政局において、ベアテは、日本語が堪能で、日本社会の事情に精通していたことから、1946年2月、日本国憲法の草案起草に参画する。
彼女は、人権小委員会に配属され、「女性の権利条項」等の起草を担当した。
他の男性小委員会メンバーも日本女性の隷属的状況に同情的でフェミニズムの考えを持っていた。
ベアテは、自らの日本での経験から、日本女性に欠けている権利-財産権、相続権、選挙権等-のほか、女性は結婚相手を自分で選べないこと、女性は自分からは離婚できないのに男性はできること、養子が女性の意思とは無関係に男性の家系継承目的で行われていたことなど、彼女が心外に思っていたことを改善し、女性解放実現のために憲法にできる限り具体的条項を盛り込むべく努力したという。
日本国憲法
第14条1項
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
同
第24条1項
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
同
第24条2項
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
これらの現行憲法の「平等」条項は、いずれも、ベアテが起草した草案の考えが基本的に維持されて、残されたものである。
3 ベアテは、「女性の権利条項」起草にあたり、日本の男性中心の官僚制度と社会の中では、憲法で規定しておかない限り、女性解放実現のための法的規制は困難であること、日本語の曖昧な表現可能性から、日本人男性官僚によってねじ曲げて解釈されないように明確である必要があることなどから、可能な限り、明確で具体的に書くよう努めた。
彼女は、草案起草段階では、妊婦の健康保護や出産休暇など細目まで書き込んだという。
国家は、妊婦及び育児にかかわる母親を、既婚、未婚を問わず保護し、必要な公的補助を与える義務を負う。
嫡出子(非嫡出子の誤記だろう:徽宗注)は法的差別を受けず、身体的、知的、社会的環境において嫡出子と同じ権利と機会を与えられる。
いかなる家庭への養子縁組も、夫と妻の双方が存命する限り、両者の明らかな合意なしには認められない。
養子に対する、他の家族員の利益を害する優遇措置はこれを認めない。
長子の特権は廃止する。
すべての子供は、出生状況のいかんに拘わらず、個人の成長のための平等な機会が与えられる。
本目的達成のために、8年間にわたる無料の普通義務教育が公立法学校において与えられる。
中等、高等教育はそれを希望するすべての適正(適性の誤記だろう:徽宗注)のある学生に無料で与えられる。
学習教材費は無料でなければならない。
……等々。
残念ながら、ベアテの起草になるこれらの草案は、「憲法の条文としては具体的すぎる」とか、「合衆国憲法にも女性の権利を保障する条文はなく、先進的にすぎる」などと批判され、総司令部の草案から削除されたので、日本国憲法の条項としては、陽の目を見ずに終わった。
しかし、現在、非嫡出子の差別問題、母性保護や未婚、既婚から派生する問題等が未解決のままであり、その解決が求められていることに鑑みれば、ベアテの先見性には驚かされるところ大である。
4 なお、文官とはいえ総司令部に属するベアテ起草の「女性の権利条項」の先見性に注目し、高く評価すればするほど、占領軍による「押しつけ憲法」論・改憲論に勢いを与えかねないとの懸念もあろうかと思われる。
しかし、以下に述べる日本国憲法の制定過程を振り返るならば、「押しつけ憲法」論の浅薄さは明らかであろう。
1945年8月のポツダム宣言の受諾と日本の敗戦による連合国軍の占領下で、日本国政府は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍の除去」と「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権尊重の確立」を義務づけられる(ポツダム宣言10項)とともに、「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し、且つ、責任ある政府の樹立」が占領軍の撤収の前提(ポツダム宣言12項)とされた。
戦前戦中の軍国主義的天皇制政府のもとで、抑圧され続けていた一般人民は、終戦をほっとして歓迎するとともに、民主主義、自由、人権の前進に大きな希望を抱いた。
しかし、日本国政府は、その期待に応えることなく、ポツダム宣言につき「国民主権原理の採用を必ずしも要求しておらず、国体は護持できる」と曲解して、大日本帝国憲法の改正にすら消極的態度をとり続けた。
総司令部から大日本帝国憲法を自由主義化することを求められた幣原喜重郎首相は、やむなく松本烝二国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会を発足させた(1945年10月)。
1946年2月8日に、松本委員会の憲法案が総司令部に提出されたが、それに先立つ同年2月1日、正式発表前に毎日新聞にスクープされた松本委員会の検討案は、「統治権の総覧者」としての天皇の地位を維持するなど、国民主権原理に背を向けた「国体護持」憲法案であった。
前述のベアテが参画した総司令部内での憲法草案起草は、松本委員会内部で検討されている案の保守的内容に驚いた総司令部内での対応の一環である。
5 1946年2月13日に前記ベアテ起草の「女性の権利条項」を含む総司令部の改正草案が日本国政府に示された。
総司令部案は、日本国政府の思惑を遙かに超え、国民主権原理の採用など大日本帝国憲法の根本原理そのものの変更を含むドラスティックなものであったから、日本国政府は大きな衝撃を受け、再考を求めるなど様々な抵抗を試みたが受け入れられず、結局、総司令部案に沿った内容で内閣の「憲法改正草案要綱」を決定し、国民に公表するほかはなかった(3月6日)。
その後、同年4月17日に「憲法改正草案」が作成されるが、その公表に先立つ4月10日には、帝国議会最後の衆議院議員総選挙が、 20歳以上の成年男女を選挙権者とする完全普通選挙制による選挙(女性参政権の実現)として行われ、39名の女性議員が誕生した。
この選挙では、憲法改正も争点として取り上げられ、より進歩的な憲法を求めた共産党を除く諸政党が「要綱」に賛成したほか、民間の言論団体も「要綱」に賛意を表明するなど、内容的には大方の国民の支持が得られたのである。
この選挙の結果をふまえ、帝国議会において、日本国憲法制定(大日本帝国憲法改正案の形で)の議論が為された。
衆議院では、主権問題での曖昧性を除去し、「国民に主権が存すること」を明示したほか、表現上の若干の修正を施した上、圧倒的多数の賛成で可決された。
その後、貴族院でも若干の字句修正ののち、3分の2以上の多数で可決され、衆議院の同意、枢密院での審議等の所定の手続きを経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布され、翌1947年5月3日から施行され、今日に至っている。
6 「日本国憲法」制定の過程では、大日本帝国憲法の根幹を変えずに、「国体護持」を目指していた当時の日本国政府及びその指導者達にとっては、総司令部からの「国民主権」等の「押しつけ」と言えたとしても、日本国民一般にとっては「押しつけ」ではなかった。
「総司令部案」が掲げ、女性参政権の実現の下での完全普通選挙により選ばれた実質的な「憲法制定議会」が支持し、明確化したとも言い得る
「国民主権」
「個人の解放と基本的人権の保障」
「軍国主義を清算しての平和主義」
は、多くの国民の憲法意識に沿う歓迎すべきものであった。
また、最近の世論調査によっても、
憲法9条「改正」反対が多数を占める。
安部内閣の下での国民投票法の強行可決など、最近の憲法9条等の憲法「改正」を目指す動きを引き続き警戒しつつ、年初にあたり、ベアテ女史起草の「女性の権利条項」を含む「日本国憲法」の価値を広め、定着させるための営みに力を注ぎたいと強く思う。
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