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徽宗皇帝のブログ

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明月飛鳥氏(反戦な家づくり)の「日本国憲法批判」への批判
「酔生夢人のブログ」で取り上げた明月飛鳥氏の「天皇論・日本国憲法論」だが、少し容量の大きいこちらで検討してみる。
氏の論文を細部に分けて、氏の文章に続けて私の考察(赤字にする)を書く形式にする。

(以下架空対論)「対論」とは言っても一方的にこちらの文章をくっつけるだけである。

「戦わない日本」は正しかったのか?

タイトルに反戦を掲げるブログが、いったい何を言ってるのか?と思われるかもしれない。
ついにあいつは極右になってしまったのか、とリベラル諸氏に唾棄されるかもしれないが、やはり言わずにいられない。

「戦わない日本」は正しかったのか?

オリンピック一色のマスコミは、閉幕と同時に今年もアリバイのように戦争関連の番組を流すのだろう。そして、8月限定の「非戦の誓い」を誰もが口にする。
それで1年分の免罪符を手に入れて、残りの11ヶ月を安穏と過ごす。
 
日本の侵略戦争が極悪であり、二度と繰り返してはいけない ということには、何の異論も無い。
日本が受けた原爆や空爆という無差別殺戮も、決して許してはいけない。
その反省が、日本国憲法に込められているというのも、ウソではないと思う。
 
しかしそこには、重大な誤魔化しがあるのだ。
戦わない日本は、戦えない日本になった。
戦わない日本は、戦争の責任をとらない日本になった。
戦わない日本は、戦争と戦わない日本になった。
この事実から、誰もが目をそらし、知らないふりをしている。

 (考察1)「戦わない日本」「戦えない日本」とは、憲法9条の「戦争放棄」を言うと思われる。とすれば、氏は9条を廃棄し、「日本が国軍を持ち、戦争のできる国にしたい」という意見だと解釈していいのだろうか。そして「戦わない日本」はなぜ「戦争の責任を取らない日本になった」と言えるのか。その論理が不明である。さらに「戦わない日本は、戦争と戦わない日本になった」は無理なレトリックであるが、好意的に解釈すれば「日本の平和運動は偽善である」ということだろうが、「この事実」がすぐ上の一文だけを指すなら、どういう「事実」から、日本が「戦争と戦わない日本になった」と言えるのか。


それとこれとは別問題だろう と言う方にはお聞きしたい。
憲法に1条と9条が共存しているわけを。
護憲派の皆さんは「1条はちょっとモゴモゴ」と口を濁しながら、「9条最高!」と声を上げるが、そのモゴモゴは何なのか、はっきりさせてもらいたい。


 
1条と9条が共存している憲法など、学生時代に障がい者の同級生を虐待し、それを面白おかしくメディアで語っていた外道が、「ボクちゃん反省したので平和の祭典やっちゃいます、テヘ!」と言ってるようなもんだ。
これまで護憲派の皆さんに忖度してあまり口にしなかったけれども、私は日本国憲法を見ると胸くそが悪くなる。
 
(考察2)1条「天皇を国民統合の象徴とする」という、象徴天皇制規定だが、それと9条がなぜ矛盾するのか。この規定によって、明治以降の「君主としての天皇」から、「象徴としての天皇」になり、国事行為以外の政治的関与が不可能になったわけで、それはまさしく9条と並行して「民主主義」と「平和主義」を成立させているのではないか。仮に、「象徴天皇制」に反対するとしても、それは9条と1条が矛盾する根拠にはならないだろう。1条は1条、9条は9条であり、たとえば刑法のある箇条と他の箇条が併存するのと同じである。

日本を平穏に武装解除したいマッカーサーと、天皇制を護持したい幣原喜重郎のあうんの呼吸でできたのが日本国憲法だということについては、細部はともかく大枠はほぼ定説になっている。
 
もちろん、その背景に侵略された国の怒りはもちろん、多くの日本人の反省もあったことは確かだ。
しかし一方で、マッカーサーをして
「天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起こすであろうし、その反響は計り知れないものがある。まず占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それは最小限10万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分ありうる」(上記記事より引用)
と言わしめるほどの、国体護持=戦争の反省などしていない世論があったということだ。
 
つまり日本国憲法は、戦争をしない非戦の誓いだけから生まれたのではなく、戦争を反省しない非省の意思も込められているのである。
そのことから目を背け、「憲法バンザイ 大好き!」と言っている時点で、すでに戦争との戦いを放棄しているのだ。
 
(考察3)いろいろと論駁すべきことがあって面倒だが、まず、飛鳥氏はマッカーサーの言葉に基づいて書いている。その言葉が事実あったとしよう。とすれば、問題は、「天皇をその実権を奪いながら、象徴として存続させることで、日本を平和裏に治めようとした」その戦略は正しかったのか、日本人に不利益を与えたのか、ということが問題になるだろう。私は、それは日本人にとって大きなメリットで、日本の戦後復興はそれによって平和の中で(つまり、「革命運動による騒乱と流血」無しに)急速に進んだと思っている。もちろん、天皇免責によって日本人の道徳的退廃も生じただろうが、それは天皇処刑による道徳的退廃とどちらが大きかったか、分からない。戦争協力者を全員処刑することなど不可能だったのである。少なくとも、「国体護持論者」とは、「君主としての天皇」の存続を求めたのであり、それは憲法第1条で否定されたわけだ。「日本国憲法は、戦争を反省しない非省の意思がこめられている」は詭弁だろう。国民すべてがすべての条項に同意する憲法など、どの世界にも存在しないはずだ。


自らの手で、自らの戦争犯罪を裁くことが出来ず、憲法をその身代わりにした日本は、戦争と戦うことを放棄したばかりか、主権そのものを放棄してしまった。
数人のA級戦犯に責任をおしつけ、昭和天皇を筆頭に膨大な戦争犯罪、戦争責任を不問にしてもらうことと引き替えに、自らのことを自ら決める主権を放棄したのだ。
その象徴が在日米軍である。
敗戦直後にマッカーサーが「天皇を起訴すれば10万の軍隊を無期限に駐屯」することになると言っていたが、何のことはない天皇が存続し76年経った今でも、4万の軍隊が事実上無制限の権限をもって無期限に駐留している。そして、そのことにごく少数の人以外は違和感すら感じていない。
 
(考察4)「自らの手で、自らの戦争犯罪を裁くことができず」は、当たり前である。ほとんどの日本国民が戦争遂行に同意していたのだから、「自分の手で自分の首を絞めろ」と言うようなものだ。他の敗戦国でも、一部の人間に戦争責任を押し付けるだけだったはずだ。「憲法をその身代わりにした」は意味不明。無理に解釈するなら、「身代わり」とは、戦争責任を天皇に取らせる代わり、「象徴天皇」としたことだろうか。ならば、それはマッカーサーとしては賢明であり、日本国民は、一部の軍人や一部の政治家以外のすべての国民が戦争責任から赦免されたのである。これは喜ぶべきことだろう。たとえば、ユダヤ人虐殺の責任をナチスだけに押し付けたようなものだ。本当はあらゆるドイツ国民が有罪だったのである。なお、在日米軍の問題は「日米安保条約」の問題であり、「国防のためには軍隊は必須である」、と飛鳥氏が思うなら、9条廃棄を主張してもいいが、在日米軍に国防を任せようが国軍を持とうがさほど違いはない。どちらも、誰かに巧妙に私物化されるだけのことだ。9条のために国防費が抑制されてきたことが、戦後日本の高度経済成長の要因だったのである。で、9条廃棄こそが安倍一派、日本会議一派の主張の最大のポイントであり、この点ではまさに飛鳥氏は安倍一派の仲間だと認めるべきなのである。そのどこが「反戦主義者」なのか。


安倍晋三が悪行の限りを尽くしても、菅義偉がいかに無能無策を続けても、利権にまみれたオリンピックのためにコロナ激増で医療崩壊を招いても、温和しくお行儀良く言うことを聞く「戦わない日本」の姿は、戦争犯罪を自ら裁くことをせず、その代わりに憲法というまやかしをもらって喜んできたことの帰結だ。
原発が目の前で爆発しても、ほんの数ヶ月で忘れてしまう「戦わない日本」は、原爆を落とされた被害者が「過ちは繰り返しませぬ」と言ってしまう日本の延長線にある。
(考察5)まあ、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな日本国憲法が悪いのよ、という感じで、論じるに値しない。


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