私は政治用語や社会学用語などの言葉のイメージが非常に気になるのだが、その中でも一番嫌いなのが「暴力革命」という言葉である。実にイメージの悪い言葉で、この言葉を使う人間は、それだけで死刑にされてもいい気がするwww まあ、そういう覚悟の表明として敢えて使うというアホ(その言葉を使うこと自体が革命に悪印象を与え、革命を遠ざけるのだから、「アホ」と言っている。)がいてもいいが、客観性を重んじる学者の世界ですら「暴力革命」という言葉は普通に出てくるのではないか。
そこで、暴力とは何なのか、少し考えてみたい。
1)「暴力」とは何か
辞書的な定義は「無法な力」「力づくの行為」(「デイリーコンサイス英和・国語辞典」による。)と書かれている。とすると、法律を背景にして行動する警察や軍隊を「暴力装置」と呼ぶのは不適切だ、となりそうであるが、それらの機関が「力」を背景とする国家装置であるのは自明である。とすれば、「法律を背景にした力」は暴力ではない、と一応は認められるだろうか。
では、「暴力革命」とは、「無法な力、力づくの行為によって達成される革命」という理解で、特に問題は無い、となりそうである。つまり、「暴力革命とは不法行為なのだから当然悪である」と思われそうだが、はたしてそうだろうか。少し、保留しておく。
さて、戦争は暴力か、ということを考えてみよう。普通の人間の感覚では、戦争こそは最大の暴力である、と思われるのではないか。しかし、戦争で人を殺しても殺人罪に問われることは無いのだから、戦争は「法的に殺人を許容するもの」であるわけだが、その対象が「敵国の兵士や人民」に限定されるというのが通常の殺人との違いである。(兵士以外の一般人を殺してはならないというのが建前だが、大量破壊兵器は兵士と一般人を器用に区別したりはしない。)戦争とは「法的に(殺人などの)悪が許容されている」ものだ、ということをここでは指摘しておく。
広い意味で「暴力」と「力」を区別するのは、その力が「何かに制御されているかどうか」だろうと思われる。そして、その制御主体は普通は「法律」であるわけだ。しかし、法律は抽象概念であり、その法律を実行する「暴力装置」が存在しないと機能しない。ここでは敢えて「暴力装置」と書いたが、それ以外に適切な言葉が無いからそう書いただけだ。
そして、警察や軍隊が機能しなくなった状態、つまり国家体制が崩壊した状況では、「生(ナマ)の暴力」が社会の表面に浮かび上ってくる。これが帝政ロシア崩壊期のロシア社会であったわけだ。そこでは、肉体的な力や武器を持つ存在が、その者がいる「小社会」を支配する。つまり、「暴力支配の社会」である。
この状態では議会そのものが無力な存在なのだから、背後に暴力を持つ者だけが国家支配の有力者になっていくわけだ。ヒトラーが権力を握ったのも、背後に暴力を持っていたからだし、ロシア革命も中国の革命も同じだろう。
基本的に、革命は暴力以外の方法では不可能だ、と見るのが正しいかな、と思われるのだが、イギリスの「名誉革命」もあるではないか、と言われるかもしれない。それが本当に暴力を背景としていないかどうかは疑問だが、あまり調べていないので何とも言えない。まあ、革命と暴力は車の両輪かな、というのが私の印象だ。
と言うのは、「現在の状態から利益を得ている人々がその国の体制の中枢にいる」わけだから、それを自分から進んで返上し、不利益を受け入れるというのは人間性から言って不可能な話だろう、と思うからである。それ(権力の穏健な移譲)が可能なのは、「法の支配」が健全に機能している場合だけだろうし、その法の支配者とは実は国家体制から利益を得ている連中なのだから、「法の支配」つまり「本当に客観的に正しい法律運用」はまず存在しない、と私は見ている。まして、権力を手放したら、次の権力者によって、前の権力者が死刑にされるのでは、権力を手放すはずがない。
最初に戻って、「暴力革命という用語は適切か」という問題を考えると、まあ、その時に存在した法律(形骸化はしていても)に反する行為によって政治権力を奪取するのだから、言葉としては間違ってはいないが、「時の政権の行う力づくの行為は暴力ではないのか」という疑問も残る、としておこう。つまり、「不法な」という言葉には法の絶対視が背後に存在し、それは法を執行する連中の不正義を隠蔽していることも多いということである。
極端な言い方をすれば、「法律もまた暴力装置である」とすら言えるかもしれない。その好例は「治安維持法」であるが、有害性の無い(ように見える)法律も「強制力を持つ」点では暴力装置だ、と見做すことも可能だろう、と極論を言ってみる。我々が、食い物にも事欠くような状態でも税金を払うのは、法律という暴力装置が我々を威嚇しているからであるのは誰でも認めるだろう。そうでなければ税金を払う奴などいやしないwww
で、法律とは社会体制の維持を目的として定めるのだから、その体制を破壊する行為は当然「暴力」行為であることになるが、その法律そのものが「現在の社会悪を容認するもの(たとえば、最初の方に書いた、戦争の容認)」であるならば、どこまでも法律に従うならば、その不正義は永遠に変革が不可能だ、となるわけだ。
ここに至って、「暴力革命にも三分の理はある」という結論が出てきそうだが、まあ、まだ「暴力革命の持つ悪」の考察はしていないので、もう少し結論は保留しておこう。
そこで、暴力とは何なのか、少し考えてみたい。
1)「暴力」とは何か
辞書的な定義は「無法な力」「力づくの行為」(「デイリーコンサイス英和・国語辞典」による。)と書かれている。とすると、法律を背景にして行動する警察や軍隊を「暴力装置」と呼ぶのは不適切だ、となりそうであるが、それらの機関が「力」を背景とする国家装置であるのは自明である。とすれば、「法律を背景にした力」は暴力ではない、と一応は認められるだろうか。
では、「暴力革命」とは、「無法な力、力づくの行為によって達成される革命」という理解で、特に問題は無い、となりそうである。つまり、「暴力革命とは不法行為なのだから当然悪である」と思われそうだが、はたしてそうだろうか。少し、保留しておく。
さて、戦争は暴力か、ということを考えてみよう。普通の人間の感覚では、戦争こそは最大の暴力である、と思われるのではないか。しかし、戦争で人を殺しても殺人罪に問われることは無いのだから、戦争は「法的に殺人を許容するもの」であるわけだが、その対象が「敵国の兵士や人民」に限定されるというのが通常の殺人との違いである。(兵士以外の一般人を殺してはならないというのが建前だが、大量破壊兵器は兵士と一般人を器用に区別したりはしない。)戦争とは「法的に(殺人などの)悪が許容されている」ものだ、ということをここでは指摘しておく。
広い意味で「暴力」と「力」を区別するのは、その力が「何かに制御されているかどうか」だろうと思われる。そして、その制御主体は普通は「法律」であるわけだ。しかし、法律は抽象概念であり、その法律を実行する「暴力装置」が存在しないと機能しない。ここでは敢えて「暴力装置」と書いたが、それ以外に適切な言葉が無いからそう書いただけだ。
そして、警察や軍隊が機能しなくなった状態、つまり国家体制が崩壊した状況では、「生(ナマ)の暴力」が社会の表面に浮かび上ってくる。これが帝政ロシア崩壊期のロシア社会であったわけだ。そこでは、肉体的な力や武器を持つ存在が、その者がいる「小社会」を支配する。つまり、「暴力支配の社会」である。
この状態では議会そのものが無力な存在なのだから、背後に暴力を持つ者だけが国家支配の有力者になっていくわけだ。ヒトラーが権力を握ったのも、背後に暴力を持っていたからだし、ロシア革命も中国の革命も同じだろう。
基本的に、革命は暴力以外の方法では不可能だ、と見るのが正しいかな、と思われるのだが、イギリスの「名誉革命」もあるではないか、と言われるかもしれない。それが本当に暴力を背景としていないかどうかは疑問だが、あまり調べていないので何とも言えない。まあ、革命と暴力は車の両輪かな、というのが私の印象だ。
と言うのは、「現在の状態から利益を得ている人々がその国の体制の中枢にいる」わけだから、それを自分から進んで返上し、不利益を受け入れるというのは人間性から言って不可能な話だろう、と思うからである。それ(権力の穏健な移譲)が可能なのは、「法の支配」が健全に機能している場合だけだろうし、その法の支配者とは実は国家体制から利益を得ている連中なのだから、「法の支配」つまり「本当に客観的に正しい法律運用」はまず存在しない、と私は見ている。まして、権力を手放したら、次の権力者によって、前の権力者が死刑にされるのでは、権力を手放すはずがない。
最初に戻って、「暴力革命という用語は適切か」という問題を考えると、まあ、その時に存在した法律(形骸化はしていても)に反する行為によって政治権力を奪取するのだから、言葉としては間違ってはいないが、「時の政権の行う力づくの行為は暴力ではないのか」という疑問も残る、としておこう。つまり、「不法な」という言葉には法の絶対視が背後に存在し、それは法を執行する連中の不正義を隠蔽していることも多いということである。
極端な言い方をすれば、「法律もまた暴力装置である」とすら言えるかもしれない。その好例は「治安維持法」であるが、有害性の無い(ように見える)法律も「強制力を持つ」点では暴力装置だ、と見做すことも可能だろう、と極論を言ってみる。我々が、食い物にも事欠くような状態でも税金を払うのは、法律という暴力装置が我々を威嚇しているからであるのは誰でも認めるだろう。そうでなければ税金を払う奴などいやしないwww
で、法律とは社会体制の維持を目的として定めるのだから、その体制を破壊する行為は当然「暴力」行為であることになるが、その法律そのものが「現在の社会悪を容認するもの(たとえば、最初の方に書いた、戦争の容認)」であるならば、どこまでも法律に従うならば、その不正義は永遠に変革が不可能だ、となるわけだ。
ここに至って、「暴力革命にも三分の理はある」という結論が出てきそうだが、まあ、まだ「暴力革命の持つ悪」の考察はしていないので、もう少し結論は保留しておこう。
PR
コメント