(以下引用)
評価[編集]
- 経済重視の姿勢
池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「逆コース」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した[250][262][263][264]。一方で、内政面での政策はほぼ各省の立案に頼っており[265]、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった[266][267]。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は"岸亜流内閣"というのが世間一般の見方で[268]、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた[263]。
政権発足時に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが[269][263]、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった[263]。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した[263][270]。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた[141]。池田が額面通りに経済政策を推し進め、徹底した岸の裏返しに出てくるとは、誰も信じていなかったのである[268]。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった[141]。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた[271]。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる[272]。
しかし、当時国民を広く覆っていた経済観では、この難局を経済重視で乗り切れると想像することは難しかった[263]。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた[273]。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来などと論じられていた[273]。精密な軽工業製品・酪農・観光で生きる"東洋のスイス"という、敗戦直後に社会党首班の片山哲内閣が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた[273]。伊藤はこの経済観の転換について、「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」[15]、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている[141]。萩原延壽は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。明治維新以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於けるライトモティーフだと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の"進歩的伝統"を継承する正統な嫡子であった」と評している[274]。
また、池田の経済政策全体につけられたネーミング「所得倍増計画」も、目標がそのまま名づけられた、史上最も明快な経済政策と映った[275]。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最も分かりやすく、かつ説得力もあった[276][277]。この呼称について、「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した[270]。武田晴人は「"所得倍増計画"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している[278]。黒金泰美は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている[279]。橋本治は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている[280]。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義と社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが[281][263]、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した[263][282]。官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちが"成長マインド"に移行した[283]。
池田は国民の政治観をも転換させた。池田はそれ以前の首相と異なり戦前に政治活動歴がなく、敗戦後に政界に入った政治家としては最初の首相であるが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を国民に提示した[272][282]。藤井信幸は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』というルサンチマンもあったと思います」と述べている[284]。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている[274]。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした[266][285]。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった[263]。高度経済成長は、1950年代後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた[286]。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである[286]。池田内閣は、「政治の季節」から「経済の季節」にギアを切り替えた、戦後史の重大な局面転換であった[282][272][266][263]。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、日米安保条約に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ[283]。御厨貴は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子で後に首相となる池田勇人、佐藤栄作の二人によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」[287]、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている[288]。
60年安保で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した[264]。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた法政大学助教授・松下圭一は『朝日ジャーナル』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した[264]。日本中が左翼のようになり、インテリは早く共産主義革命が起きて欲しいと考えていたような時代に、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる[289]。池上彰は1960年の安保闘争最中でさえ、第29回衆議院議員総選挙で池田率いる自民党が圧勝したことからマスコミと当時珍しかった大学生、一部のインテリ・学生以外は今のように左派の主張に賛同していたわけではなかったと当時の多数派と左派との認識の乖離の存在を述べている[290]。高畠通敏は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら保守党の新しい路線として、戦前への逆コースの夢を捨てる。憲法改正をあきらめ、戦後の新しい現実に即してマイホームという形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動は春闘の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政治思想は現実主義でした」などと主張している[291]。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていたと主張している[267][263][292]。しかし、秘書の伊藤は池田が首相として諸外国での経験から今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではないと述べていて、再軍備自体に賛同する内心が池田にあったことを回顧している[293]。政治から経済成長への"チェンジオブペース"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだ[294]。
また、社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる[283]。内田健三は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"管理"の概念を導入した政権だった」と論じている[295]。
- 池田は若い池田番記者たちに「キミたちが定年を迎えるころ(1985年頃)には、日本の自動車はきっと欧米の市場で歓迎されるようになる。キミたちは日本を過小評価しているが、これだけ勤勉で、これだけ平均的な教育レベルが高く、100年も200年も前から多くの分野で競って高度なことをこなしてきた国民はいない。これだけ優れた日本人を、うまく目標を示して動かすことができれば、必ず日本は欧米に追いつく。それが実証できれば他のアジアの国も続く。アジアがいっせいに集団で欧米を追いかける。それをするのは日本の政治家、アジアの政治家の使命だ」と繰り返し語ったという[273]。記者たちは、こうして予算書を読んだり、経済統計に注目したりする、それまでにはいなかった政治記者のタイプを身につけていった。俵孝太郎は「池田の政治家として、一国の宰相としての予知能力と政策的構想力に、舌を巻く思いを禁じえないのである」と述べている[273]。
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