東池袋で赤信号を無視して車を暴走させ、横断歩道を渡っていた母子を死亡させたほか、男女8人と助手席の妻に重軽傷を負わせた男(88)が過失運転致死傷罪の容疑で在宅のまま書類送検された。今後の見込みは――。
なぜ逮捕がなかった?
無免許や飲酒、ひき逃げが伴わない交通死亡事故が発生した場合、運転手が現場におり、負傷していないか、負傷していても重傷でなければ、警察は現行犯逮捕し、逃走などを防ぐ。それでも、持ち時間である48時間以内に釈放し、以後は在宅のまま捜査を続けることが多い。
また、運転手が重傷を負い、救急搬送や入院治療が優先される場合、逃走などのおそれがないので、警察は現行犯逮捕を見送る。回復を待ったうえで逮捕状を得て逮捕することも可能だが、その段階で証拠の確保を遂げており、逃走のおそれもなければ、逮捕状が出ないので、逮捕を見送る。
これは、捜査や裁判のルールを定めた規則に次のような規定があるからだ。
「逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない」(刑事訴訟規則143条の3)
現実問題としても、故意犯と違って過失犯の場合、過失の有無や程度に関する裏付け捜査に時間を要する。多重衝突事故や車両性能が問題となるような事故、運転手が何らかの弁解をしているような事故の場合にはなおさらだ。
運転手を勾留してしまうと、最大で20日間という勾留期限内に処分を決めなければならないが、間に合わなければ処分保留のまま釈放せざるを得なくなる。
そこで、はじめから腰を据えて徹底した捜査を遂げるため、たとえ現行犯逮捕してもすぐに釈放し、あるいは逮捕せず、勾留もせずに捜査を進め、在宅のまま送検に及ぶほうが、警察にとってもベターだということになる。
もし検察が勾留請求をしても、裁判所で行われる勾留質問の際に裁判官が被疑者の姿を直接目にする。あのヨロヨロとした歩みで88歳の男が部屋に入ってきただけで、裁判官も「これは勾留に耐えられない」と即断したはずだ。
「逮捕=刑罰」ではないが…
今回の事件もこのパターンだと思われるが、これは法曹関係者にとっては常識でも、一般の人からすると到底納得できない話だろう。
逮捕は刑罰ではないし、逮捕されなかったからといって起訴されないとか無罪放免になるというわけでもない。それでも、逮捕を一種の社会的制裁ととらえ、これだけの事故を起こした以上、逮捕という制裁を与えるのが当然だと考えている人が多いと思われるからだ。
また、高齢で同様の事故を起こしても、逮捕される者もいれば、逮捕されない者もおり、「ケースバイケース」の面も否定し難い。
本来は何でもかんでも逮捕するという警察の強権的なやり方や「人質司法」と揶揄(やゆ)される運用にこそ批判の目が向けられるべきだが、世の中にはマイナスドライバーを1本持っていただけで簡単に逮捕されるような例もあるわけで、なぜ警察の取扱いがそこまで異なるのか、理解し難いのではなかろうか。
「旧通産省工業技術院の元院長」「瑞宝重光章を受章」といった華やかなキャリアを踏まえ、一般の人が「上級国民」だから逮捕されなかったに違いないといった不信感を抱くのも当然と言える。
「逮捕とは何か」といった根本的な問題に対する法教育が求められるが、ここまで不信感を抱かせてしまった以上、その払拭のためには、警察も早い段階で逮捕に及ばなかった経緯を丁寧に説明すべきだった。
法は誰に対しても公平に適用されてこそ信頼を得るものだからだ。
なぜ送検まで時間を要した?
事故から送検まで7ヶ月を要しているのも、男が1ヶ月にわたって入院し、治療を受けていたことや、当初は「ブレーキを踏んだが効かなかった」と供述していたため、運転車両の性能に問題がなかったことを客観的に明らかにする必要があり、メーカーや専門家の鑑定を要したからだ。
複雑な多重衝突事故であり、それぞれの事故状況を確定するため、ドライブレコーダーや現場周辺の防犯カメラ映像の分析を行うほか、車両に搭載されていたイベントデータレコーダー(EDR)の分析により、各システムの作動状況、アクセルペダルとブレーキペダルの操作状況、車速などを明らかにする必要もあった。
また、被疑者の男のみならず、複数の被害者からも警察署や現場で詳細に事情を聴取しなければならなかった。男は事故前から足を悪くして通院していたうえ、認知機能の低下も見られ、真の事故原因はそれらにあったのか、あるいは単純にブレーキとアクセルの踏み間違いにあったのか、確定するのにも時間を要した。
こうした捜査の結果、男も「パニック状態になってブレーキとアクセルを踏み間違えた可能性がある」と供述するに至っている。
この点、今回の事故と同じ時期にJR三ノ宮駅前で神戸市営バスが歩行者の列に突っ込み、2人を死亡させ、4人に重軽傷を負わせた運転手の場合、1ヶ月後の5月には起訴され、10月30日には神戸地裁で禁錮3年6ヶ月の有罪判決が下されている。同じブレーキとアクセルの踏み間違いによる事故でも、事故状況が今回の事件に比べて遥かに単純だったからだ。
ただ、こうした点についても、警察が丁寧に説明していないため、一般の人に対して「上級国民」に忖度(そんたく)して送検を遅らせたといった不信感を抱かせる原因となっている。
刑事処分の見込みは?
一般の事件の場合、書類送検であれば起訴猶予による不起訴や略式起訴による罰金で終わることも多いが、普段は何の問題もなく社会生活を送っている人が一瞬の不注意で起こす交通事故の場合、むしろ在宅のまま書類送検されているのが通常だ。書類送検だからといって、不起訴や罰金で済むという話にはならない。
現に数多くの交通事故、特に人を死亡させたり重傷を負わせたりした事故の運転手が在宅のまま正式起訴され、公開の法廷で裁判を受けている。今回、筆者はその可能性が高いと考えている。
というのも、検察には独自に作成している「求刑基準」がある。頻発している代表的な犯罪について、その態様や結果、同種前科の有無など様々な要素を評点化し、事案ごとにその評点を加減することで、起訴するか否かや求刑の上限下限が導き出されるというものだ。
例えば交通事故だと、過失の種類(居眠りや信号無視、脇見、前方不注視、速度超過など)、その内容(速度超過であれば超過部分の大きさ)、事故の現場や相手方(横断歩道上の歩行者か否かなど)、被害者の負傷程度、同種前科の有無、プロのドライバーか否かなどの事情に応じてプラス3点とか2点とか1点といった加点が定められ、逆に示談の成立や被害感情の緩和などの事情に応じてマイナス3点とか2点とか1点といった減点が定められている。
これらの評点を事案に当てはめ、プラス・マイナスの計算をすれば、一定の基準を導き出すことができる。各検察官の個性や感覚、経験年数、地域性などで処分結果や求刑に大きなバラつきが出ることで、不公平や不平等が生じるのを極力抑えようとしているわけだ。
今回の事件の場合、総合評点は相当高いものになると見込まれ、ブレーキとアクセルの踏み間違いという過失の内容に間違いがなければ、結果の重大性や処罰感情の厳しさなどを踏まえ、地裁に正式起訴し、公開の法廷で裁判を受けさせるという結論になるだろう。社会の注目を集めている事件であり、地検のみならず高検、最高検の指揮・判断をも仰ぐことになるはずだ。
もしそれでも不起訴にするという事態になれば、「我々が目指すのは、事案の真相に見合った、国民の良識にかなう、相応の処分、相応の科刑の実現である」「権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである」といった崇高な「検察の理念」が画餅に帰してしまう。
過失運転致死傷罪の最高刑は懲役7年だが、先ほど挙げた神戸市営バスの運転手に対する求刑が禁錮5年だったことからすると、今回の男に対する求刑も同程度のものとなるだろう。
示談の成立を待つということも考えられるが、早ければ年内、遅くとも来年3月までを一つの目処として検察も処分を決するのではなかろうか。
裁判はどうなる?
起訴された場合、弁護側の対応として考えられるのは、できるだけ裁判の引き延ばしをすることだ。
例えば、振り出しに戻って「ブレーキを踏んだが効かなかった」と主張し、車両の性能を正面から争点にすれば、公判前整理手続の実施に至る。証拠が膨大にあるから、その開示や検討だけで優に半年以上は稼げる。
独自に専門家に鑑定を依頼したり、複数の鑑定人の証人尋問を実施するとか、同じ車種で過去に発生した事故に関する調査報告書などを入手し、証拠として提出するといったことも考えられる。
事故前から足を悪くして通院していたことや、認知機能が低下していたことを大きく取り上げ、何が真の事故原因だったのか曖昧にさせるというのも一つのやり方だ。
男の厳罰を求める39万筆もの署名についても、もし検察側から証拠として請求されれば、実在する人物か否かや本意なのか否かを一人ずつ確認する時間が必要だとして引き延ばしに使えるし、最終的には証拠とすることに同意しないという意見を述べ、裁判官には見せないという取扱いにすることもできる。
検察側が証拠として使わず、遺族の証人尋問などの中で署名集めの点に触れたとしても、これを逆手に取り、「男はインターネット上などで徹底的に叩かれ、39万筆もの署名が行われるなど、すでに多大な社会的制裁を受けている」として情状酌量を求めることだろう。裁判所が「それも一理ある」と納得する可能性も高い。
というのも、過失や結果が重大であり、遺族の処罰感情も峻厳だから、示談が成立したとしても、通常であれば実刑判決が見込まれるからだ。
男は現在88歳だから、一審、控訴審、上告審までに要する時間を考慮すると、いずれかの段階で天寿を全うするかもしれない。そうなれば、公訴棄却によって裁判手続は打ち切りとなる。
では、実刑判決が下り、その確定まで手続が迅速に進んだとすると、男は実際に刑務所に収容され、服役することになるだろうか。
その可能性は低いのではないか。
死刑と異なり、懲役や禁錮の場合、70歳以上であるとか、末期ガンで余命わずかであるなど刑の執行によって生命を保てないおそれがある場合、検察官の指揮によって刑の執行を停止することができる決まりになっているからだ。
いずれにせよ、現在の刑事司法手続では、遺族や被害者にとって到底納得できない結果になることは間違いない。
もっとも、署名集めや39万筆の署名までもが全く無意味に帰するということにはならないだろう。社会的反響の大きさは明らかであり、高齢者に対する運転免許制度のあり方など、今後の法改正に繋がる動きが期待できるからだ。(了)
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