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徽宗皇帝のブログ

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法と倫理
別ブログに書いたものだが、社会学的考察なので、こちらに載せるのが適切だろうと思って自己引用しておく。

(以下自己引用)

「釣り銭泥棒」に考える法と倫理


自販機の釣り銭の取り忘れは、やった本人もほとんど覚えていないだろうし、自分の釣り銭を取ろうとしたら前の人の釣り銭もあったという場合、それをどうしたらいいのか。まあ、真面目な人は自分の分だけ取って、それ以外はそこに残すのかもしれないが、その次の人、その次の人、みんなそうしなければならないとしたら、かなり迷惑だろう。
つまり、こういうのは「泥棒」ではなく、「落とし物の拾得」であり、それを交番に届けてもお巡りさんの仕事の邪魔で、落とした本人に戻る可能性はゼロに近い。そういうのが面倒でそれを自分のものにしても、泥棒と思う人もいるのだろうか。
たとえば、今日の食べ物にも困る人間がそのような「釣り銭泥棒」をしても、私はそれを犯罪だとはまったく思わない。法律的には犯罪でも、そのような類のものは大目に見るのが「社会的寛容」だと思うし、むしろその方が「倫理的」だと思う。強いて言えば、落とした人(釣り銭を取り忘れた人)のほうが他の人に無用な気遣いをさせたという点で咎められていい。些細であってもこれがカネだから所有権が問題になるが、犬の散歩で犬が落としてそのままほったらかしにされたウンコを他の人が清掃したら、清掃した人は犯罪者になるか。
もちろん、これは屁理屈だが、妙に硬直した正義感というのは、案外倫理には反しているものだ。つまり、倫理の基本はヒューマニズムであり、その目的はお互いに生きやすい社会を作ることだということだ。理想とは異なり、権力者や為政者、貴族や大資本家など特定階級や特定集団の利益のために作られることがしばしばある法とはそこが違う。また、まともな法があっても、安倍政権や菅政権のように、それを運用する政府次第で、どのような法も骨抜きになる。
さらに言えば、法の背後には罰則があり、その罰則を実効的にする警察や軍隊などの暴力装置があるが、倫理にはそれがなく、ひたすら個人個人の意思次第である。だが、それこそが実は人間社会をまともに維持する真の力だ、というのが私の考えである。
アメリカ社会の崩壊の原因は、アメリカが「古き良きハリウッド映画」的な理想主義や倫理を失ったことにある、と私は思っている。経済的にはそれが「新自由主義」である。つまり、カネ(これは富者の前に貧者をひれ伏させる一種の暴力である。)こそがすべてという野獣的世界だ。

(以下引用)


Calci
@Calcijp
自販機の前でコーヒー飲んでたら自転車でやってきた爺さんが自販機に釣り銭が残ってないか探り始めた。いわゆる釣り銭泥棒だが白昼堂々人の見てる前でよくやる。最近ついぞ見なかったが貧困化が原因かなあ。
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