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徽宗皇帝のブログ

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生成AIに見る、機械による労働と人間の労働の本質的違い
「生成AIが人間を失業させる」という問題は、そう遠からず「芸術産業」全体に襲い掛かる可能性があるが、クリエィター(芸術産業労働者)以外はまるで危機感は無いと思う。しかしたとえば、学校教師や塾教師の仕事、あるいは医者や法律家の仕事など、生成AIに置き換わってもおかしくはないのではないか。つまり、これまではロボット(機械)が肉体労働者の仕事を奪ってきた、あるいは良く言えば補助をし、仕事を楽にしてきたが、生成AIは「知的労働」の面で人間に置き換わっていくのである。そこで出て来るのは、「労働が楽になり、人間は遊ぶだけ」という天国ではなく、「仕事の無い人間は存在価値が無いので自然消滅(窮死する)に任せるか殺処分にする」世界である可能性のほうがはるかに高いのである。
下の引用は「紙屋研究所」記事だが、長いので前半は省略した。
なお、下の記事では触れていないが、芸術産業において生成AIで人間の仕事の代用をすると、その作品の質そのものが確実に下がると私は推測している。たとえば、役者の創造的な演技や個性ある演技はなくなり、アバターによる「どこかで見たような演技」だけで作られた映画になるわけだ。生成AIによる模倣はオリジナルを超えられないが、人間は模倣から始まっても創意工夫でオリジナルを超えることがある。それが人類の進歩の歴史の原動力である。

(以下引用)赤字部分は徽宗による強調だが、要するにエキストラはたった一日分の給与を貰って永遠に失業ということである。



 以下はGIGAZINEのネット記事である。


gigazine.net


 記事のリンクが貼ってある英文記事も(ぼくの拙い英語読解で)読んだけど、具体的な要求としては見当たらなかった。


 


 以下は記事にあるAMPTP(「映画テレビプロデューサー同盟」。記事からすると、組合の交渉相手である)のコメントの一部だ。


AMPTPとその加盟組合は、SAG-AFTRAと新たな互恵的契約を締結することを目標に交渉に臨みました。AMPTPは歴史的な賃上げと残業手当の増額、年金や健康保険料の上限引き上げ、シリーズ・オプション期間の短縮、SAG-AFTRA組合員のために俳優のデジタル肖像権を保護する画期的なAIについての提案などを提示する契約を提示しました。


 これが交渉相手側が示した「規制提案」である。


 しかし、組合側はこれに対して不満を突きつけたことはわかる。


今回WGAやSAG-AFTRAストライキを起こした理由は労働環境の改善だけではなく、「人間の脚本家や俳優がAIに働く機会を奪われないためにも、AIの使用を規制するべきだ」という主張も行っています。上記のAMPTPTが発表した声明にある「SAG-AFTRA組合員のために俳優のデジタル肖像権を保護する画期的なAIについての提案」について、SAG-AFTRAの交渉人だったダンカン・クラブツリー=アイルランド氏は「AMPTPが私たちに提示したAIについての提案とは、エキストラは顔や姿をスキャンされて1日分の給料を受け取り、その代わりに企業はそのスキャンした画像や肖像を同意や保証もなしに使用可能にするというものです。これを画期的な提案だというのであれば、もう一度考え直すべきです」と答えました。


 生成AIは明らかに技術の進歩であり、それ自体は歓迎すべきものである。しかし労働時間の短縮や賃金上昇ではなく、労働者犠牲のリストラに使うなどという資本主義的利用は許さない。…というのが模範的回答とはなろうが、現実はそう簡単ではない。


 ぼくが若い人たちとやっている『資本論』学習会で、第1部13章第5節「労働者と機械との闘争」の部分を数ヶ月前に読んだが、マルクスはまず、次のような模範的回答を用意していることを改めて学んだ。


一九世紀の最初の一五年間にイギリスの製造業地帯に生じた諸機械の大量の破壊——それは、とくに蒸気織機の利用が原因であるが——は、ラダイト運動の名で知られ、シドマス、カールスレイなどの反ジャコバン的政府〔「反動的なイギリス政府」という意味〕に、きわめて反動的な弾圧を行う口実を与えた。労働者が、機械をその資本主義的使用から区別し、したがって彼らの攻撃を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを学ぶまでには、時間と経験が必要であった。(マルクス資本論』3、新日本出版、p.752)


 しかし、同時に、“機械はゆっくりとその分野を征服していくだけだから、そのうちに新しいもうけ口もできて、転職の時間はあるよ”的な言い訳に対し、マルクスは反論のための生々しい現実批判を行う。


ある生産部面を機械が徐々にとらえていく場合、機械は、それと競争する労働者層のなかに慢性的窮乏を生み出す。その推移が急激な場合には、機械は大量的かつ急性的に作用する。イギリスの綿手織工たちの、緩慢で、数十年にもわたり、ついに一八三八年に決定的なものとなった破滅よりも恐ろしい光景は、世界史上に見られない。彼らの多くのものは餓死し、また多くのものは家族ともども長いあいだ一日二ペンス半でやっと糊口をしのいだ。それに反して、イギリスの綿機械は、東インドでは急性的に作用したのであり、そこの総督は、一八三四—三五年に次のように確言している——「この窮乏は、商業史上ほとんどその類例を見ない。綿織布工の骨は、インドの平原を真っ白にしている」と。(同前p.757)


 ぼくは若い人たちの学習会で一方的な「講師」をしているわけではない。いち参加者として、自分自身が学ばされる機会は多い。マルクスが、ラダイト運動を侮蔑しているわけではなく、その必然性に心を寄せ、それを大きく乗り越える展望は示しながらも、その過渡においては単純な理論では片付けられず、個々の労働者がどういう犠牲を払うかをきわめてリアルに告発していることを、ぼく自身が学ばされた。*1


 「AIの資本主義的利用を止め、社会に役立つようにする」というのは、根本的な社会改造と一体でなければ、一朝一夕にはできない。


 そうなれば、その過渡における要求は一体どうなるのかという問題は、実践的に絶えず現場で問われる。「現代のラダイト運動ですねww」と冷笑しているわけにはいかないのである。


 


*1:こうした全く私的なサークルであり資本論を学ぼうと思えばどんな市民でも参加できるこの学習会を、外部から弾圧によって破壊し、ぼくをそうした学習会から排除する動きがあって、あまりの卑劣さに、怒りに打ち震えている。




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