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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

産業社会でのロボットを作るのが学校と病院
「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った「齟齬」というブログの記事だが、非常に面白い。「ロボット的社会」に適応できない人間は「人格障害」という「精神病」である、とされ始めたのはそう遠いことではないが、今では素人まですべてそう信じ込んでいる。つまり、昔なら「個性」だったのが「キチガイ」で「治療が必要」とされているわけだ。まあ、私も他人の目には「人格障害」であるらしい。
コメントにも興味深いものがあるので、容量が許せば載せる。

(以下引用)





いったいどのクソ野郎が自分のことを嫌って言うことを聞かない人々をパーソナリティ障害だと決めたのか?


反精神医学的な内容がおもしろかったので紹介します。


原文はV. Q. の「Fucked Off Not Fucked Up」。初出は Return Fire誌のvol.1(2013年)。


Woman – Balcomb Greene

Fucked Off Not Fucked Up

(強調は引用元より)


ドイツに住んでいたとき、友人が私に聞いた。なぜイギリスでは子どもとの戦争があるんだ、と。これには驚いた、それに不同意だからではなく、外国人が知っていることを私が知らなかったからだ。彼がいろんなニュースから受けた印象とはこうだ。ストリートでは子どもたちが一緒に集まっていい人数が制限されており、公共エリアでは特定の年齢以下だと不快に感じる高周波音の音波兵器が使われている。若者が着てはいけない服(パーカーのような)がある。黒人(男性)の若者だけではなく、警官による一般的で容赦のないハラスメント。膨大な数の子どもたちが毎年閉じこめられ、クソ野郎や民間警備員から虐待を受けている。


彼が気づいていなかったのは、どれほど多くの大人たちが、子どもたちと同じく病気とみなされているかだ――彼らのパーソナリティは「間違っている」(ADD, ADHD, ODDなど)とされる――そして結果として、企業を儲けさせる精神治療薬が山のように投与され、あらゆる種類の規則遵守的な行動療法を強制される。なぜなら彼らはおぞましい社会規範を遵守しようせず、権威に従うことを拒絶し、「対立的」だからである。


馬を慣らすためにはどうするか。若い(脆弱な)馬を、その状況を受容する(あきらめる)まで柵でかこみ縛りつける。そして同じ行動と経験をなんども繰りかえす(洗脳/催眠)。実力行使と愛を混ぜ合わせて使う必要がある(混乱)。そして、担い手(家族、産業経済、文明)の人々に依存しなければ必要を満たすことはできないような環境に住まわせる必要がある。馬を慣らすことと人間を慣らすことは同じだ。人間を手懐けるのはもう少し時間がかかるが、幸運なことに、彼らが私たちに投げつけるもの――それはまったくたくさんあるが――にもかかわらず、つねにうまくいくとはかぎらない。野生の人間にとって、もっとも恐れられ、もっとも戦われたのは精神科医とその施設である。悲しいことだが、数世紀にわたって彼らは仕事をうまくやってきた。そのため資本主義や国家、社会レジームに批判的な人々においてでさえ、アンコントローラブルで自律的なパーソナリティの人間を「狂ってる」と表現したり、狂人は反逆と個人性のなかに楽しみを見出すほど十分に強くないとか、十分な支援が足りていないとかラベルづけするのだ。個人の内的世界と「ノーマル」な社会構造のプロパガンダとのあいだの緊張はときに耐えがたくなる。この緊張が個人にとって耐えがたいものになればなるほど、彼らは最新の精神医学の「診断」を受け入れ、適応できないことの苦痛や刑事訴追を逃れようとする。パーソナリティ障害は、うつ病、双極性障害、スキゾフレニアの診断と同じように一般的に受容されている。しかし、いったいどうしてパーソナリティが「間違ってる」というんだ! これがどんなにバカバカしいことかだれもわからないのか? 悲惨でつくられた世界で幸福を追求するくらいバカげてる。それでところで、だれがシュリンクス(訳注:精神科医の蔑称)のパーソナリティをチェックするっていうんだ?


もちろん、パーソナリティ障害の診断を受容する代わりに行うことは反撃することである。それは人間個人のラベリングを可能にする全システムを破壊することを意味する。


もしあなたがメンタルヘルス問題、とくに「パーソナリティ障害」として診断されたことがあるならひとつはっきりさせておこう。「本質的に君には一切問題がない」。対処しなければいけない問題がなにもないということではないが、シュリンクスによってどんな診断がされようと、君が自分のマインドや感情にどれほど苦労しようとも、根本的に、君にはなにも問題がない。変わるべきは社会の方だ。


精神医学とそれに付随する収容所は、ほかの監獄と同じ時期に生まれた。刑務所、学校、工場、ワークハウス、病院、つまり18世紀末の産業化とともに。産業は家内工業とは対照的に、個人としての自己による欲望からではなく、自己の外の社会とボスから命じられる反復的労働によって定義づけされたロボット的な労働力を必要とした。エンクロージャー(土地囲い込み)法により、1700年代に権力者たちは大部分の共有地の一帯を盗奪することが可能となった。ふつうの人々はもう小規模な農業、狩猟、採集によって自分の基本的欲求を満たすことができなくなって、その代わりに「賃金」を得るべく工場経営者のために働くことを要求された。時間は個人にとって、自己や家族、小規模共同体の望むように戯れるものではなく、「自分の時間」と「彼らの時間」を分断する時計となった。人々は巨大機械のなかの非人格的歯車となった。自由な男、自由な女、自由な子どもは消えた。しかし自由の夢と記憶は私たちを揺り動かす。私たちのなかには他の者よりこの鼓動を自覚していることがある。私たちは彼らにとって、口のなかに薬を押し込んで黙らせようとする者であり、特定の気質や人格やパーソナリティを薬やECT(訳注:電気けいれん療法)、行動療法によって治さなければいけない生物学的病と再定義することで、自分自身を疑わせようとする者である。その唯一の目的は私たちの個人的な権威の感覚を破壊し、権力への服従を向上させることにある。彼らはすべての全体主義国家と同じことをしている。


学校は子どもたちを連れ去りその精神を飼いならし、力と、服従と、抵抗が無益であることを教える(抵抗することは決して無駄ではない――そうしなければ千に切り刻まれる死が待っている)。工場(オフィス、賃金労働)は大人たちを連れ去り、生活の賃金を得るべくボスに隷従することで、エリートの利潤のためにその人生と才能を無駄にしてしまう。(かつての)ワーク・ハウスと福祉は今では、経済的な網を通り抜けた人々を捕らえ、社会的嫌悪、退屈、そして剥きだしの生存闘争によって彼らを粉砕する。収容所と刑務所は、システムの狂気に積極的に反抗する人々、あるいは生きることを強制されている狂気crazinessのなかでほんとうに「狂気mad」に駆られた人々を連れ去る。病院は産業、戦争、都市生活の犠牲者を連れ去るが、それは破壊された賢女と生薬(魔女)に置き換わった、都市生活、工業化、専門医薬品、製薬企業である。そして専門化の文化では、だれもわずかしか知らないために、みな機械に依存している。


学校はだれもが同じことを学習すること、オーソリティが彼らに学ばせたくないことを学ばせないこと、そして子どもたちが見知らぬ権威者――教師――への服従方法を身につけることを確実にする。かつてそれは体罰によってなされていたが、いまでは監視インフラの恐るべき配備により、「カウンセラー」やソーシャルワーカーが若き反逆者を[病人]に仕立てあげ、彼は病んでいる、あるいは犯罪的であり、「治療されるべき」だと思い込ませることで混乱させるようデザインされている。


他人の機械の歯車になりたいとはだれもが思うわけではない、自分よりも重要人物だと思い込んでるクソ野郎からの命令を受けることにだれもが向いているわけじゃない。だから工場と一緒に、適応しない、あるいは適応したがらない人間を閉じ込める建物をつくる権力者たちは必要があった。昔(1750年代)は、なんらかの精神を見せたものはすべて首刑に処した。つぎにはオーストラリアのような場所に追放した、彼らが植民地支配者たちの奴隷になるように――そして「精神医学」が発明された。これはもっとも狡猾な監獄である――頭の中につくられるのである――それはユニークな人間精神と気質を「正気」と「狂気」、「ノーマル」と「アブノーマル」、「遵守」と「非遵守」、「内部」と「外部」に分断し、「社会的規範」として知られる架空の鞭打ち柱へと輝かしき個人を縛りつける。この発明の被害者たちは、思考を変容させる医薬品を飲むこと、ECT(脳への損傷)のような非人間的な治療を受けることを強制される。そしてもし凡庸さと法令遵守を必要なだけ達成できると当局と社会に確信づけることができない場合、無期限の投獄の恐怖とともに生きなければならない。


近年、パーソナリティ障害の進展は驚異的である(それで大金を稼いでいる人間がいることは確信してよい)。友人はかつて、結婚をせず子どもを持たないことを選んだためにパーソナリティ障害があると言われた。また、「片親疎外症候群」は、数年前までは単に10代のよくある経験ではなかっただろうか? DSMは精神障害の「公式」本であり、最新版――2013年に米国から出版されたものによる――では、膨大な種類の人格特性と気質を「疾病」に変えることが意図されている。資本主義への抵抗や蜂起、反逆がより頻繁に暴力的になるにつれて、パニックとなったエリートは精神医学に鞭を与えた。そして、この鞭がもっとも過酷なのは子どもたちである。子どもたちは未来である、ゆえに早くこういったものをなくすことが一番である。


ファックに感謝しよう、心理学コミュニティはだれもがこの最新の診断攻撃に賛成しているわけではなく、その発表に反対している。しかしそれでも、「Oppositional Defiant Disorder(反抗挑戦性障害)」とGoogleで検索すれば、英国の組織や医師の多くが何年もこのクソを適用しており、数千人の子どもたちの精神と生活をすでに破壊している。


精神医学診断は実のところすべて同じだ:君は人生をわずかな報酬で社会のために経済的奉仕をするだろうか? つまり、労働するか、否か? 君は現状の社会的状態を維持する意志があるか? つまりあまりに多くの質問をしすぎないか、否か? 君はすべてのブルシットと不正義を無視して、提供されたエンターテイメントで幸せになる意志があるか? つまりフットボールチームに熱狂したり、毎週末には酒を飲んで自分を麻痺させ、それに人生がかかっているかのように最新のガジェットを買うだろうか? つまり良い消費者であるかどうか? 君は「社会」と既存の秩序に憤激することなく、別の方法を探して(他の人間が決めた)自分の「ロット」を受けいれるだろうか? つまり、君は「善良な市民」か、否か? 君は自分の個人性をかえりみず、隣人やデイリー・メイル(イギリスのタブロイド紙)、同僚たち、なんであれうまく適応できるだろうか? もし君のほとんどの回答が「いいえ」であるなら、君はおそらくメンタルヘルス上の問題を抱えているだろう…… 君が受け入れない限りは


権威を憎悪し既存秩序に反逆することは今では「病」(このクソを買うな――君はアウトロー、反逆者、自由の闘士、犯罪者であり、すばらしい歴史的系譜があるのだ!)であるとされる。愛する者の死への悲しみが6ヶ月以上続けば疾病となる(君が愛する者の死を乗りこえようとすることは、単に経済的生産性を妨げるというだけのことなのか?)。シャイであることも疾病になる! 労働に戻れ、もし仕事がなくても、もし仕事がクソで、退屈で、精神鈍麻させるようなものでも、低賃金や無賃金であっても。もし君がそうすることができないなら、薬を飲め、そして君が何をしようとも、目立ってはいけない、君の輝きをあまり明るくしてはならない……。


いったいどのクソ野郎が自分のことを嫌って言うことを聞かない人々をパーソナリティ障害と決めたのか? 警察、政治家、精神科医(これは最初のふたつが合わさったものだ)、両親や教師。君が尊敬しない人々、あるいは知りもしない人々からの命令に従おうとしないという理由で、君は病人とか犯罪者、反社会的であるとされる。階級のほんとうにダークなことは、専門化(かつては、だれもがすべてのことをある程度知っていた)と巨大都市化(小規模コミュニティでは、互いによく知っていたし、抽象的な診断なんてだれも興味をもたなかった)によって、同意するしないに関わらず、君となんら特段の会話をしたことのない人々、さらには診療時間が終わったときには自分にも個人的問題があるような人々が、君を病人であるとラベルし、君の友人、教師、親たちに君は病気であると確信させ、大量の薬とナンセンスを君に与えて、実際の君の正気(自分がだれであるか、世界との個人的つながり、それに対する見解、自分の自律性に対する確信と知識)と、君の肉体的および認知的自由(強制的薬物療法と精神病院の強制隔離による)を奪うのである。


君は困難に苦しんでいるかもしれない。君は完全な無気力者となっているかもしれない。しかし問題解決することは君と君に親しい人のためになる、チェックボックスを埋めて君を精神医学的監獄に閉じ込める、数回しか会うことのない見知らぬ人々のためではなく。おそらく君は畜群よりも優れているために決して適応しようとしない、適応したくない人のひとりだ。間違いなく、君は正当な理由によって社会と権威を憎悪し、より良い違った世界を夢見ている。おそらく君は、社会秩序によってあたえられたものを越えて、自分自身と君の友人たちのための願望と希望を持つ人のひとりだ。


つまり君は私たちが最高に愛する者のひとりだ。


決して屈してはならない、あきらめてはならない。

訳者あとがき

「ワークハウス」や「オーストラリア追放」などイギリス近代史を知っていると楽しめる内容が多かった。


精神医学は一見「科学的」ですが、実態はシステムに都合のいい道具になっています。精神病院を監獄や学校、工場の同類と考えるところはフーコーのようですね。


私自身は「診断」されたことはありませんが、若い頃から神経症的な苦しみが多かったので、精神医学については研究した経緯があります。


そしてV. Q.と同じ結論にいたりました。精神医学が「治療」しているのは、ようは、働けない者、あまりに考えすぎる者、消費社会を楽しめない者、規範意識の低い者、ふつうの人々に馴染めない者、そして社会に不満を抱き反逆する者だと。


私はかつて自分を神経症者だと考えていましたが、よくよく考えてみると、私の神経症は学校に無理やり押し込まれたことが原因でした。そして学校が国家のイデオロギー装置であると認識したとき、自分は完全に健康であり、病んでいるのは社会の方だと認識した。つまり私が狂っているのではなく、狂った社会に対する健全な主体の健全な反応があっただけなのです。


「根本的に、君にはなにも問題がない。変わるべきは社会の方だ」


V. Q. がこう言うとき、私は完全に同意します。


「パーソナリティ障害」を「治療する」というバカバカしさについては、「狩猟採集脳としてのADHD」もおすすめです(こちらは比較的マイルドな内容)。






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