「社会保障」なんて概念が影も形もなくて、竹中平蔵や菅義偉が大好きな「自助」だけがあった江戸期以前の日本社会で、深沢七郎の描いた「楢山節考」の世界があったのか? と問うと、これは難しい問題だ。
昔、老人たちは集落の生存のため、自ら死を選ばねばならなかったのか?
私は、そうは思わない。それは、一方で士農工商の国家システムが、スパルタ国のように冷酷な実利社会であるとともに、他方では、底辺に生きるほとんどの人々が、不条理な苦難を経験し、辛い人生で、心の最後のよりどころとして「人情」を支えに生きてきたことが分かっているからだ。
日本の底辺社会は、「人情国家」だったといってもいい。
それは、戦後の苦難期である、1945~65年の20年間を生きた人なら、身にしみて分かっているはずだ。
あのころ、人々の人生観、社会観の基準=人々が一番大切にしたものは、間違いなく「人情」だった。楢山節考の冷酷な世界など、ありえなかったのだ。
今の、「善良日本人」を産み出したのは、当時の「人情互助社会」だった。
日本では、社会保障が存在しなかった代わりに、集落共同体や親族共同体の互助体制が高い密度で成立していた。
村八分というのは火事と葬式を除いた、すべての交際を懲罰的に断つことを意味しているが、村社会というのは、高度の共同体だった。
その互助システムが人々の命脈だったからこそ、村八分の制裁が恐れられた。
人情のあるところ、「互助」があった。だから、老いた父母を山に捨てるなんて、ありえないことだ……と思いたい。
一方で、「帰属する集団のために、自らを犠牲にする」ということが美徳であった時代は間違いなくあった。
私の祖母は隣村の黒川村の出身だが、日露戦争の頃生まれた祖母よりも少し後の世代は、東濃地区全体が、「満蒙開拓団」の供給地だった。それは山間部で耕作に適した平地が少ないため、生産力が乏しく貧しかったからだ。
東濃地方の家を継げる資格のある長男以外の人々は、山の急斜面を拓いて棚田を作っていたが、満蒙開拓団の募集があってからは、国の支援を受けて、満州の無限の平野を自らの農地にできると大きな希望を抱いて渡航した。
だが、恐ろしい敗戦が起きた。多くの人々が阿鼻叫喚の地獄を経験させられた。
わが黒川村の開拓団にも恐ろしい運命が待ち構えていた。祖母よりも20~30年ほど若い世代の女性たちが、侵攻ソ連兵の性欲の犠牲にされた。
というより、黒川開拓団全体の命を集団処刑から守るため生け贄に捧げられたのだ。 女性たちは、ソ連兵の性接待に供された。
この女性たちは生きて帰国したが、黒川村を守るために犠牲になったのに、「ソ連兵に性を売った」と罵られ、白い目を向けられて故郷で生きて行かねばならなかった。
これが、「山に捨てられた老人」と同じ意味で、「楢山節考の別バージョン」でなければ何なのだと私は思う。
この恐ろしい犠牲は、東濃地方だけでなく、満蒙開拓団を輩出した岐阜や長野の30万人といわれる人々の運命に共通するものだった。
内実は、あまりに凄惨すぎて、多くの人が思い出したくもなく、口を閉ざしたまま旅だっていった。
ときどき、黒川村や読書村(中津川山口)に、しっかりした記録と証言が残っているので、垣間見られる程度だ。
黒川村は、貧しく、そして苛酷な生活と倫理の社会だった。祖母は、若い頃からクリスチャンだったが、宗派はプロテスタント、福音派だった。
私は、死刑制度に強い疑問を持ち、キリスト教なら、そんな残酷な死刑に反対してくれると信じていたら、祖母は、「悪いやつは殺すしかない」と言い放った。
この厳しさは、岐阜や長野の内陸部山岳地帯に共通するもので、ここに楢山節考が存在しても不思議ではないような気さえした。
実際に「姥捨て伝説」があるのは、ほとんど長野県の山岳地帯だ。
これらの土地では、私の若い頃まで、アクが強くて食べられないドングリやクズを、信じられないほどの手間をかけて食用にしていた。
凶作になったときの備えは私の想像を超えるもので、どの家でも、壺の中に非常食を入れて封印して土に埋めていた。
今回は、現代ビジネスに、私の傾倒した宮本常一の研究者である畑中章宏氏が多く取り上げられているので紹介する。
「老人を山に捨てる」ことは「残酷」か… 「残酷という感情」から見えてくる「日本人の本当の姿」 2023.11.15
「残酷」という感情
1960年(昭和35)1月29日、『日本残酷物語』創刊を機に、美術家の岡本太郎、作家の深沢七郎、そして宮本常一の三人による座談会がおこなわれている。
この座談会のようすは、同年3月刊の雑誌『民話』第18号に、「残酷ということ——『日本残酷物語』を中心に」と題して掲載される。この座談会で口火を切ったのは、デビュー作『楢山節考』で時代の寵児となっていた深沢七郎だった。
小説『楢山節考』は1956年に第1回中央公論新人賞を受賞し、翌年2月には同名の作品集が刊行された。戦後の日本人が近代以前の因習として目を背けてきた棄老の風習、ある年齢に達した老人を山に捨てにいくという習俗を文学化して大きな話題を巻きおこしたのである。
「残酷、残酷というけれど、このごろのはやりことばのようにぼくは感じますね。何かいままでぼくは、ウバ捨てを残酷だとは思わなかったですけれど、あれが小説に出てから、残酷といわれて、『そうかなあ、残酷かなあ』と思いましたね。——残酷だったんだなあと——あとで自分でみとめますけれどね」
宮本は、深沢が『日本残酷物語』を読んで、「残酷とは感じなかった」といったことに対してつぎのように応じている。
「東北の方へまいりますと、人が死んだりなんかしましょう、その時のアイサツに、『残酷でござんした』とか、『残酷でございました』とかいうように、いい、つかっているんです。
例えば、『おきのどくでございました』というようなのと同じような意味ですね。(中略)それがどういう意味で使われているかというと、自分の意志ではないのにそうなっていったというような場合に使っているんです。そしてわたしはそのことばには非常に愛着を持っているんです」
座談会で岡本太郎は、「美しい」という形容をくりかえし用いているのだが、その芸術家らしい美意識と楽観性に対して、宮本は異議を唱える。
調査にやってきた民俗学者にたいして、「お前はそういっておるけれども、どうだかね」とはぐらかし視線をそらす、「暗い顔」をした人びとが、東北地方にはいたというのだ。
宮本は、『日本残酷物語』には、こういった民衆を数多く登場させていると言おうとしている。ここにもまさに「深い心のかげり」が影を落としているのだ。
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多くの人がじつは知らない、日本の村落が「貧しいかどうか」を見分ける方法
旅に学ぶ——父の10ヵ条
宮本は1965年(昭和40)1月に「常民文化研究のオルガナイザー・渋沢敬三」「旅行のうちに」(『民俗学のすすめ』)その他で民俗学の方法的側面、フィールドワークの手法について紹介・解説しているが、その原点にあるのは、父・善十郎から託された「10ヵ条」だった。
それは郷土を離れて世間を歩く際の心構えとして父が子に授けたものであり、また民俗学者として調査地を歩く際にも応用できるものだった。そのうち主要な箇条を要約して紹介してみよう。
(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか。駅に着いたら人の乗り降りに注意し、どういう服装をしているかに気をつけ、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかがわかる。
(2)村でも町でも、新しく訪ねていったところでは、必ず高いところへ上ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものを見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。山の上で目を引いたものがあったら、そこへは必ず行ってみることだ。また高いところでよく見ておけば、道に迷うことはほとんどない。
(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの程度がわかる。
(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。
俯瞰からはじまり生活のディテール、生業・産業の一端までをも捉える方法が示され、汎用性があるとともに、宮本の歩き方にも明確に表われている。
「日本民俗学の目的と方法」によると民俗学は、かつて文字をもたなかった社会(無字社会)のなかでおこなわれた文化伝承の方法であった言葉と行為のくりかえし=慣習的生活の記録化であり、これをもとにした文化の原型への遡源と、文化の類型、機能を研究しようとするものである。
しかし、無字社会は日本ではすでに消滅してしまっているため、無字社会の伝統をもつ社会のなかから慣習によって保持されてきた文化を研究する学問だということになる。
無字社会の文化は記録化されずにきたために、原始社会の時代から現在まで、どのように変化発展してきたかを見きわめることは難しく、その方法論さえ確立されているとはいえない。
そして方法論的に無字社会の調査は成り立たないと説く学者もいるが、かつて無字社会の存在していたことは事実であり、その社会のもつ文化の実態を明らかにしていくことは民族全体の文化を明らかにするきわめて重要なことである。
しかし現状は、無字社会が有字社会化したことによって、古い伝承形式が次第にすたれて文字以外の伝承は急速に消えつつあり、残っている民俗伝承でもその多くは形骸化し、古い実感がともなわなくなっているものが少なくない。それだけに調査は困難になりつつある。
村の風物は、それぞれの歴史と理由をもち、私たちの「生活意識」の表現でないものはない。私たちは村里の風物に接することによって、そのなかに含まれた意味を汲みとらなければならない。
村を調査する際に、私たちはどこまでも謙虚でなければならない。そのことにより思いもかけないような贈り物がある。予定しないもの、予想しないものを見つけだし、さらに新たな真理追究の欲望をそそられることがある。民家の人たちと言葉を交わすことによって、表現される物象の底に潜む生活意識を、また文化を知ることができる。
伝承は言葉や行為のうえにだけ見られるのではなく、日々の暮らしを営んでいる生活の場にも見られる。そのような事実を頭に入れて聞き取りをはじめると、ときには相手の記憶違いもわかってくる。また聞き取りはせずに、ただ村を見て過ぎるだけでも、村のようすでそこがどういう村であるかをほぼ知ることができると宮本はいうのだ。
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引用以上 まだいくつか掲載されているが、興味があれば現代ビジネスへ。
私は、若い頃から宮本常一に惹かれ、図書館に通って片っ端から読みあさった。一時は、民俗学者になろうと志向したこともある。
自分の足で全国を回り、社会の究極の本質を知ろうとした。日本百名山を踏破することを目標に、同時に全国の農山村を自分の目で見てきた。
だから、上に書かれた民俗学の基礎的な心得は、身にしみて理解できる。
ただ、私は「なんとかのアイロニー」とか、人々の生活実感から離れた虚構を題材にするのは好まない。民俗学は、学問として評価されようとして肩肘を張りすぎていると思った。
私も、若い頃、ダムに沈む徳山村を取材したり、山奥の集落の家の作り方や思想的伝統に関心を向けていた。
そこで、社会を産み出す根元の法則について考え続けた。
たくさんの体験を総括して、国家というものは、支配階級の利権に寄り添って政策を実現するものであり、これは奈良時代から現代に至るまで変わらないと考える。
個人の人権や、個人の幸福に寄与したいという発想は絶対に存在しない。そこにあるのは特権階級の利権だけだ。
民衆は、基本的に自助であるとともに、人間関係における互助の上に成立している。
社会保障なんてものは欺瞞にすぎない。竹中平蔵や自民党が中抜きするために産み出した制度と思ったほうがいい。
人は老いて、結局、自分で責任を取らされる。
ある意味、今や、日本社会のすべてが「姥捨て山」ではないかと私は思い始めている。
あるときは老人ホームであったり、あるときは病院のベッドであったりしても、それが姥捨て山であることには変わりがない。
人は、他人に奉仕すること=利他主義によって人生の満足を得ることができる。
自分が利他主義に生きてきたという自己満足があれば、どんな最期でも満足することができる。
しかし、利己主義しかない人生は、どんな豪奢なホームの個室であっても、そこには孤独しかない。人生の満足など、何一つないのだ。そこは楢山にすぎない。
私も、山に捨てられる年齢になってしまった。私には、高級な老人施設に入る金はない。いわばガンのような死病に罹患していて、もう先が見えない状態なので、いったい、自分の死の始末をどうつけるのか、毎日頭を悩ませている。
もうすぐ、私には呼吸ができなくなる日がやってくる。
結局、最期は、おりんのように雪空に、この世と別れを告げるしかないのかと思い、まあ、庭にテントでも張って七輪で木炭でも炊くかと思っている。
だが、本当をいえば、私は数十名の共同体のなかで、生まれてくる命や若者たちに、自分が得てきた、あらゆる知識、体験を教えて、感謝されながら去ってゆきたかった。
利他主義に生きたかった。だが、そんな人間関係は作れなかった。私は自分で楢山に歩いてゆくしかないのだ。
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