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徽宗皇帝のブログ

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社会の暴力的抑圧と個人的暴力革命
「犯罪者の自伝を読む」という、気が重くなりそうなタイトルの新書があって、今朝から読み始めているが、その中には興味深い言葉が多い。著者は小倉孝誠という人である。
下の引用は、その中にあるラスネールという有名な犯罪者の自伝の中の言葉であり、筆者も言うように、革命家の言葉となってもおかしくないが、筆者はこう書いている。(赤字は筆者による強調。私も、ロシア革命についてはそういう印象を持っている。しかし、中国革命やキューバ革命は、稚拙で不満足なものではあったが、「国民のための革命」だったと思う。)

1830年代はまさしく共和派が勢力を増し、自由・平等・博愛の実現をめざし、社会の根本的な変革を求めてリヨンやパリで蜂起した時代であった。それを知らないはずのなかったラスネールだが、しかしそのような運動に参加した形跡はまったくない。それどころか、革命は一部の策謀家たちだけを利する行為にすぎず「政治的自由という幻想」は、人々の幸福を実現するのに有効性をもたない装置であると考えていた。

以下に、ラスネール自身の言葉を引用する。上の引用と同じく赤字は徽宗による強調。富者による貧者の搾取は、社会的暴力だろう。法律自体が富者の武器の場合、テロに対するにはテロしかない、というのは当然である。

(引用1)

十人、二十人の血を流せばそれで十分だったとお思いだろうか? そうではない。私は社会の基盤そのものと、そこに生きる冷酷でエゴイストな金持ち連中を攻撃したかったのである。

(引用2)

私は恐怖の宗教を金持ち連中に説き聞かせるためにやってきたのだが、それというのも、愛の宗教は彼らの心にいかなる影響力も及ぼしえないからである

(引用3)

たしかに自由や平等という原理は美しい。しかし、自由や平等がかつて一日でも、文字どおり一日でもこの地上を支配したことがあると証明してほしい。そうすれば、あなたがたがそれを追求することを認めてやろう。私を極悪人という名で断罪しているひとたちよ、これほど長いあいだ追い求められ、しかしけっして実現したことのないこの幻想は、そのために流された血に値するほどのものなのだろうか。それなのに、あなたがたは、人間の生命を尊重しろと私にむかって命令する……。

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