私はロシア革命自体は「民主主義革命(帝政人民抑圧体制への人民の反抗)」だったが、それをレーニンらのマルキストたちが乗っ取って社会主義(共産主義)革命と名乗り、それ以降の社会主義や民主主義の歴史を大きくゆがめたと思っている。社会主義は民主主義のひとつなのである。(ただし、現実世界で民主主義が本当に実効性を持っている国は存在しない。それは社会主義と同じである。現実世界は詐欺と暴力が支配している。)
言うまでもなく、私は下の記事の中のオウエン主義者に属する社会主義者である。つまり、反マルクス主義者だ。
(以下引用)赤字は徽宗による強調。
マルクス・レーニン主義においての共産主義は、「能力に応じて働き、労働に応じて受けとる第一段階」である社会主義より段階の高い「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる段階」を目指し、職業革命家からなる労働者階級の前衛政党による暴力革命とプロレタリア独裁を肯定し、国有化や経済の中央集権的計画化を行うものとされた。ソ連崩壊まではこの思想が国際的な「共産主義」の定説であり[6]、マルクス・レーニン主義の意味での共産主義に反発する社会主義者から社会民主主義、議会制民主主義と反共を唱える民主社会主義が生まれた[17][18]。
また「共産主義」と「社会主義」の区別は、宗教に対する文化的態度など地域によっても異なる。キリスト教ヨーロッパでは「共産主義」は無神論と信じられた。プロテスタントのイングランドでは「共産主義」はローマカトリック教会の聖体拝領(英語: communion rite)に言葉が近すぎたため、多くの無神論者は社会主義者を自称した[19]。1848年に出版された「共産主義宣言」でフリードリヒ・エンゲルスは「社会主義は大陸で尊敬されたが共産主義は違った」と述べた。イギリスのオウエン主義者やフランスのフーリエ主義者らは労働者階級の「全体的な社会変革の必要性の提唱者」として尊敬できる社会主義者と考えられたが、共産主義者とは自称しなかった。社会主義の中の共産主義の系統より、フランスのÉtienne Cabetやドイツのヴィルヘルム・ヴァイトリングなどが共産主義的活動を生み出した[20]。そして1848年革命を、民主主義者は自由、平等、友愛を掲げた民主革命とみなし、マルクス主義者はブルジョワ階級によるプロレタリア階級への裏切りとみなした[21]。
なお日本語訳の「共産主義」の「共産」は、「公共が産業を行う」ことから作られた言葉である[22]。
「社会主義」と「共産主義」は、とりわけマルクス主義に関し、同一視される場合と使い分けられる場合がある。それは以下の歴史的経緯による。
- (1) マルクス主義=共産主義
- カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847年には、社会主義と共産主義の違いは明瞭なものだった。エンゲルスは1890年に出版された『共産党宣言』ドイツ語版の序文で「1847年には、社会主義はブルジョア(中産階級)の運動を意味し、共産主義はプロレタリア(無産階級)の運動を意味した」[23]と説明している。マルクスもエンゲルスも共産主義者と自認していた。
- (2) マルクス主義=科学的社会主義
- 1875年にマルクス派とラッサール派の合同によってドイツ社会主義労働者党が創設された際、マルクスはラッサール派によって書かれた綱領草案を厳しく批判する手紙を関係者宛に送った。『ゴータ綱領批判』として知られるものである。その中でマルクスは共産主義の低い段階と高い段階を区別し、低い段階では労働者は労働に応じて受け取り、高い段階では欲求に応じて受け取る、とした[24]。批判対象の綱領草案には共産主義という単語は含まれていなかったにもかかわらず、マルクス自身は手紙の中で共産主義について語った。とはいえ、新しい党は社会主義政党であり、そこに参加したマルクス主義者は社会主義者ということになる。
- 1880年に出版された『空想から科学へ』において、エンゲルスは、「唯物史観と剰余価値説によって社会主義は『科学』となった」、という見解を示した。マルクスもこの小冊子を「科学的社会主義の入門」として推薦する序文を書いた。これによりマルクス主義は科学的社会主義とも呼ばれるようになった。
- (3) 社会民主主義と共産主義の対立
- ドイツ社会主義労働者党は1890年にドイツ社会民主党と改称され、マルクス主義者は社会民主主義者とも称するようになった。ドイツ社会民主党は順調に党勢を拡大し、国際的な社会主義運動(第二インターナショナル)の中でもリーダー的存在だった。
- しかし第一次世界大戦の勃発に際し、それまでの政策を捨てて自国政府を支持したため、反戦を貫いた社会民主主義者から激しく批判された。レーニンはボリシェヴィキに対して「その公式の指導者たちが、全世界で社会主義を裏切り、ブルジョアジーの側に寝がえってしまった『社会民主党』(『祖国防衛派』と動揺的な『カウツキー派』)という名称のかわりに、われわれは共産党と名のるべきである」と提案した[25]。ボリシェヴィキは1919年に党名を共産党と改称した。以後、社会民主主義と共産主義は明瞭に区別されるようになった。社会民主主義は議会制民主主義の尊重や漸進的改革の主張を意味し、共産主義は革命によるプロレタリアート独裁の主張を意味した。
- レーニンは1917年に出版された『国家と革命』でマルクスの『ゴータ綱領批判』を詳しく解説し、理論面でもマルクスの共産主義論を復権させた。以後、革命後の体制はプロレタリアート独裁期を経て社会主義へと移行し、さらに共産主義へと発展する、という考え方が定着した。マルクスの言う共産主義の低い段階は社会主義と位置づけられた。
- (4) 共産党の社会民主主義化
- 一時は圧倒的だったソ連の権威は、1956年のスターリン批判、ハンガリー動乱、1968年のプラハの春などの事件によって次第に低下した。西欧諸国の共産党はソ連共産党との違いを強調するようになった。自由や民主主義を強調するユーロコミュニズムがその一例である。共産党の政策は社会民主主義政党の政策と大差ないものになり、社会民主主義と共産主義の違いも再び曖昧になった。
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