百姓をやりながら作家としても活動している老人北林あずみ氏のブログで、少し古い7月の記事だが、面白い(人によっては批判を産むだろう)内容なので紹介する。もちろん、ここに書かれた内容すべてに同意するわけではないが、面白いことは面白い。粘着性の執念深い思考力は、私のような大雑把な人間には驚異である。
記事前半の「野党共闘批判」部分も面白いが、より分かりやすい後半を転載する。
ウクライナ戦争を、キエフ政府の自称する「祖国防衛戦争」という宣伝に騙されて世界中(主に西側諸国の人民)が盲目化しているのは、「櫻井ジャーナル」などの読者にはよく分かるだろう。
ただ、「祖国愛」つまり「愛国心」というのは個々人のアイデンティティと強く結びついているので、「祖国愛」自体を否定するような下記文章筆者に反感を持つ人も多いと思う。要は「祖国愛(愛国心)」の方向であり、内容なのである。それが漠然とした「祖国愛(愛国心)」という言葉でひとくくりにされ、悪党どもに利用されるわけだ。
(以下引用)原文と段落分けが変わってしまったので、私が適宜段落分けする。
以上で、わたしにやってきた直感である「野党共闘が招いたのは、この国の政治の袋小路化と、体制翼賛政治化だ」の妥当性と、その論証は大方尽きた感がする。
が、これまで論じてきたことの妥当性をよりはっきりさせるために、最後に、れいわ新選組と山本太郎に対する懲罰動議について論じて終わりたい。
れいわ新選組への与野党議員によるバッシングともいえる懲罰動議については、わたしは連続ツイートしている。
長くなって恐縮するが、この際だから引用しておきたい。番号を付けた細切れのツイートを読みやすいように、番号を省いて結合したものに変える。
山本太郎に対する懲罰動議、というか与野党の国会議員による「れいわ新選組パージ」の伏線は、ゼレンスキーの国会演説に「たった一党だけ」反対し、ゼレンスキーの演説に感情移入して熱狂し、スタンディングオベーションをした光景を狂気として眺めていた「正気」にある。以下連続ツイートする。
れいわ新選組の「正気」が、本物であり、正しかったということは、何の偏見もなく、党派的色眼鏡でみることなく、虚心坦懐に、これまでのウクライナ戦争を観察すれば、真っ当な「理性」と眼力があれば認めざるを得ないはずだ。 何故にゼレンスキーの演説にスタンディングオベーションをしたことが「狂気」かといえば、戦争に「正義」と「悪」との区分けをしてしまったことであり、祖国防衛戦争を「正義」と決めつけてしまったことだ。戦争に「正義」と「悪」があり得るのだろうか? そもそもが祖国とは何なのか? 何をもって祖国と呼び、祖国という名で呼んで、何を守ろうというのか?
驚くべきは、「マルクスの思想」を掲げる日本共産党までが、祖国愛に燃えて、ゼレンスキーが国家総動員体制で徹底抗戦を唱えるウクライナ戦争を祖国防衛戦争と決めつけたことだ。日本共産党がナショナリズムに絡め取られてしまっていることを暴露してしまったといえる。
こうなると、日本共産党は「マルクスの思想」ではなく、一国社会主義というナショナリズムと不可分なマルクス・レーニン主義でしかないと分かる。
平和憲法の本質的精神は、いかなる戦争も絶対悪としてみるものだ。戦争には「正義」と「悪」との区分けなどなく、あらゆる戦争が絶対悪なのだ。
祖国という視点でみるから、ウクライナ戦争の本質がみえなくなるのであり、民衆の視点でみれば、ウクライナの民衆にとっても、ロシアの民衆にとっても、戦争で失うものは大きいはずだ。得るものなどない。
それなのに、戦争は継続され、火に油を注ぐかのように、欧米と日本がウクライナに戦争を「させるため」に、軍事費と武器と資金援助をしている。この狂気としか呼べない行為を、日本共産党までが、「狂気」だとみえなくなってしまっている。「祖国愛」とは恐ろしい洗脳装置だ。
欧米と日本は、ロシアがダムを爆破し、洪水を引き起こす非人道的行為をしたと批難しているが、事実は分かっていない。 それに、冷静になって考えれば、戦争がなかったら、そもそもがダムの爆破なと起こっていないはずだ。戦争の結果でしかない。
この洪水で、ウクライナの農産物被害は甚大なものとなり、肥沃だった農地が使い物にならなくなる。
祖国愛は何をもたらしたのか? 祖国愛が何を護ってくれたのか? 護ったものは、「祖国愛」という訳の分からない抽象的な「言葉」でしかない。
祖国愛が奪い去ったものは何か? 日本人は、先の戦争で嫌という程分かったはずだ。分かったから平和憲法が生まれたのだし、平和憲法の本源的精神(戦争=絶対悪)を心に刻み付けたのだ。
それが、あろうことか、平和憲法護持と言っていたリベラルと日本共産党が、平和憲法の本源的精神を足蹴にしてしまったのだ。
ウクライナ戦争が日本にもたらしたものとは、保守・リベラル・日本共産党と「れいわ新選組」との間の深い溝ではないのか? この溝が、山本太郎と「れいわ新選組」へのパージの感情を生み出した要因だし、「れいわ新選組」以外の政党と国会議員、そしていわゆるリベラルと日本共産党をひとかたまりに「束ねて」しまった要因だと確信する。この塊こそが、大政翼賛政治に他ならない。
立憲民主党と日本共産党が、自民党の防衛費増強を批判しているのは、その「財源」の出所でしかない。祖国防衛戦争を「正義」としてしまったのだから、祖国防衛のための軍備増強は認めている立場だ。批判しているのは、軍備増強の程度と、財源の出所と、軍備増強の前に国民生活を安定させることを優先させることでしかない。
が、本質は変わらない。だからウクライナへの支援も徹底的に批判はできない。
作家の目でみると、どうみたってゼレンスキーの心は狂気に支配されてしまっている。ウクライナという国家も病んでいる。 だからといって、ロシアを擁護するつもりもない。 「戦争=絶対悪」という立場だ。即時停戦こそ最優先されるべきだ。
山本太郎と「れいわ新選組」へのパージは、軽んじてはならない。この国の正念場だ!
記事前半の「野党共闘批判」部分も面白いが、より分かりやすい後半を転載する。
ウクライナ戦争を、キエフ政府の自称する「祖国防衛戦争」という宣伝に騙されて世界中(主に西側諸国の人民)が盲目化しているのは、「櫻井ジャーナル」などの読者にはよく分かるだろう。
ただ、「祖国愛」つまり「愛国心」というのは個々人のアイデンティティと強く結びついているので、「祖国愛」自体を否定するような下記文章筆者に反感を持つ人も多いと思う。要は「祖国愛(愛国心)」の方向であり、内容なのである。それが漠然とした「祖国愛(愛国心)」という言葉でひとくくりにされ、悪党どもに利用されるわけだ。
(以下引用)原文と段落分けが変わってしまったので、私が適宜段落分けする。
以上で、わたしにやってきた直感である「野党共闘が招いたのは、この国の政治の袋小路化と、体制翼賛政治化だ」の妥当性と、その論証は大方尽きた感がする。
が、これまで論じてきたことの妥当性をよりはっきりさせるために、最後に、れいわ新選組と山本太郎に対する懲罰動議について論じて終わりたい。
れいわ新選組への与野党議員によるバッシングともいえる懲罰動議については、わたしは連続ツイートしている。
長くなって恐縮するが、この際だから引用しておきたい。番号を付けた細切れのツイートを読みやすいように、番号を省いて結合したものに変える。
山本太郎に対する懲罰動議、というか与野党の国会議員による「れいわ新選組パージ」の伏線は、ゼレンスキーの国会演説に「たった一党だけ」反対し、ゼレンスキーの演説に感情移入して熱狂し、スタンディングオベーションをした光景を狂気として眺めていた「正気」にある。以下連続ツイートする。
れいわ新選組の「正気」が、本物であり、正しかったということは、何の偏見もなく、党派的色眼鏡でみることなく、虚心坦懐に、これまでのウクライナ戦争を観察すれば、真っ当な「理性」と眼力があれば認めざるを得ないはずだ。 何故にゼレンスキーの演説にスタンディングオベーションをしたことが「狂気」かといえば、戦争に「正義」と「悪」との区分けをしてしまったことであり、祖国防衛戦争を「正義」と決めつけてしまったことだ。戦争に「正義」と「悪」があり得るのだろうか? そもそもが祖国とは何なのか? 何をもって祖国と呼び、祖国という名で呼んで、何を守ろうというのか?
驚くべきは、「マルクスの思想」を掲げる日本共産党までが、祖国愛に燃えて、ゼレンスキーが国家総動員体制で徹底抗戦を唱えるウクライナ戦争を祖国防衛戦争と決めつけたことだ。日本共産党がナショナリズムに絡め取られてしまっていることを暴露してしまったといえる。
こうなると、日本共産党は「マルクスの思想」ではなく、一国社会主義というナショナリズムと不可分なマルクス・レーニン主義でしかないと分かる。
平和憲法の本質的精神は、いかなる戦争も絶対悪としてみるものだ。戦争には「正義」と「悪」との区分けなどなく、あらゆる戦争が絶対悪なのだ。
祖国という視点でみるから、ウクライナ戦争の本質がみえなくなるのであり、民衆の視点でみれば、ウクライナの民衆にとっても、ロシアの民衆にとっても、戦争で失うものは大きいはずだ。得るものなどない。
それなのに、戦争は継続され、火に油を注ぐかのように、欧米と日本がウクライナに戦争を「させるため」に、軍事費と武器と資金援助をしている。この狂気としか呼べない行為を、日本共産党までが、「狂気」だとみえなくなってしまっている。「祖国愛」とは恐ろしい洗脳装置だ。
欧米と日本は、ロシアがダムを爆破し、洪水を引き起こす非人道的行為をしたと批難しているが、事実は分かっていない。 それに、冷静になって考えれば、戦争がなかったら、そもそもがダムの爆破なと起こっていないはずだ。戦争の結果でしかない。
この洪水で、ウクライナの農産物被害は甚大なものとなり、肥沃だった農地が使い物にならなくなる。
祖国愛は何をもたらしたのか? 祖国愛が何を護ってくれたのか? 護ったものは、「祖国愛」という訳の分からない抽象的な「言葉」でしかない。
祖国愛が奪い去ったものは何か? 日本人は、先の戦争で嫌という程分かったはずだ。分かったから平和憲法が生まれたのだし、平和憲法の本源的精神(戦争=絶対悪)を心に刻み付けたのだ。
それが、あろうことか、平和憲法護持と言っていたリベラルと日本共産党が、平和憲法の本源的精神を足蹴にしてしまったのだ。
ウクライナ戦争が日本にもたらしたものとは、保守・リベラル・日本共産党と「れいわ新選組」との間の深い溝ではないのか? この溝が、山本太郎と「れいわ新選組」へのパージの感情を生み出した要因だし、「れいわ新選組」以外の政党と国会議員、そしていわゆるリベラルと日本共産党をひとかたまりに「束ねて」しまった要因だと確信する。この塊こそが、大政翼賛政治に他ならない。
立憲民主党と日本共産党が、自民党の防衛費増強を批判しているのは、その「財源」の出所でしかない。祖国防衛戦争を「正義」としてしまったのだから、祖国防衛のための軍備増強は認めている立場だ。批判しているのは、軍備増強の程度と、財源の出所と、軍備増強の前に国民生活を安定させることを優先させることでしかない。
が、本質は変わらない。だからウクライナへの支援も徹底的に批判はできない。
作家の目でみると、どうみたってゼレンスキーの心は狂気に支配されてしまっている。ウクライナという国家も病んでいる。 だからといって、ロシアを擁護するつもりもない。 「戦争=絶対悪」という立場だ。即時停戦こそ最優先されるべきだ。
山本太郎と「れいわ新選組」へのパージは、軽んじてはならない。この国の正念場だ!
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