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徽宗皇帝のブログ

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福沢諭吉の天皇論
田中久文『象徴天皇を哲学する』で紹介された福沢諭吉の天皇(皇室)論が、私の思想に近いので、紹介しておく。
以下の引用は、福沢の思想や文章の一部を田中氏がまとめたものの、そのまた一部である。断片的な引用になる。

(以下引用)

・福沢によれば、立憲国においては、政治というものは法律を公布し、それに従わないものは罰するといった、はなはだ「殺風景」なものである。政治は「形態」を整えるだけであって、人々の「精神」を掌握するものではない。日本では帝室こそが「日本人民の精神を収攬するの中心」となることができるものである。そのためには帝室は「政治社外」になければならない。

・国会は「道理」の府であって、「人情」を尽くすものではない。

・そもそも社会というものは一種の「緩和力」というものがあって、はじめて安寧を維持できる。(徽宗注:一般社会は「法律」だけではなく、「道徳・倫理・人情」という「緩和力」があってまともに、そして幸福に生活できる、などもその例だろう。)

・西洋でも王室をもつ国は多い。共和国の国民の中には、それを「人主が愚民を篭絡するの一詐術などとて笑う」者もいるが、そうした者は「畢竟政事の艱難に逢わずして民心軋轢の惨状を知らざる」者である。(徽宗注:資本主義の最先端国の米国の「民心軋轢の惨状」を見よ。)

・明治維新という「革命」がありながらも、それが穏やかに実現したのは帝室の力によるものである。

・また帝室は学問芸術を奨励する役割をもつ必要もある。日本では学問を尊ぶ気風がなく、注目を集めるために政談に奔走する学者も多い。帝室が後ろ盾になれば、「政治社外に純然たる学者社会を生じる」ことができ、「学問の独立」にもなる。また、目下の人事に不要な芸術を役人が奨励するとは思えない。その際依頼すべきは帝室である。(徽宗注:安倍政権下、そして官僚支配下の現代日本の学問・芸術の惨状を見よ。)

(以下は田中氏による解釈の部分)赤字部分は徽宗による強調。

・福沢の天皇論で重要なのは、皇室を単に「政治社外」に置いて、政争の緩衝剤(徽宗注:「材」か?)にするというだけでなく、政治の世界そのものを相対化し、それに対して非政治的観点から批判を加える権威としようとするねらいがみえる点である。

・福沢は、権力の価値の一元化を排除し、ヴァリュー・システムの多元化と流動化をもたらすことこそが文明化であると説いている。

・福沢によれば、中国の支配システムは「至尊の位」という個人の精神的な拠り所と、「至強の力」という政治を行う力とを皇帝が独占している。それに対して日本の場合、古代では天皇親政によって「至尊の位」と「至強の力」とが一致していたが、中世になって武士政権が生まれて以降、「至尊の位」は天皇に、「至強の力」は武家政権へと分かれた。そうした天皇制のあり方を福沢は中国の皇帝制に較べて評価している。

・しかし、その後の歴史の現実は、「至尊の位」と「至強の力」の双方を天皇が独占するという最悪のコースを辿ってしまったことはいうまでもない。














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