私は自由貿易に対してかなり前から疑惑を持っていたのだが、あまり深く考えたことは無く、ただ、歴史的に見て自由貿易が進展するほど貧国がより一層貧しくなっている(上級国民は除く)、という事実から自由貿易のいかがわしさを感じていただけである。もちろん、保護関税が無いために貧国の産業がどんどん潰れ、富裕国(大国)の生産品が貧国の市場を独占する、ということくらいは想像がついたが、それ以上の理屈は思いつかなかった。
で、古本屋で気まぐれに買った「帝国意識の解剖学」(世界思想社)という本をのんびり読んでいると、その中に「自由貿易帝国主義」という言葉が出てきて、実は自由貿易は帝国主義と結びついている、という事実が1950年代からすでに指摘されていたことを初めて知ったわけだ。
こういうことは、大学で学んだ人で真面目に勉強していたらとっくの昔に知っていたのだろうな、と思うと、学生時代に真面目に勉強しなかったのが悔やまれるが、その一方で、このような議論が学問世界の外にまったく出てこないという事実に呆れてしまう。つまり、自由貿易は資本主義の生命線であり、資本主義は帝国主義の裏表として発展してきたのだから、このようないわば「自由貿易悪人論」はマスコミにはけっして乗らなかったのだろう。
なお、自由貿易が大国に有利である理由は、下の記事で言えば、
できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていた
ということであるようだ。今で言えば、TPPの条文がまさにそれ(不平等条約)である。
(以下ウィキペディアより引用)
自由貿易帝国主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由貿易帝国主義(じゆうぼうえきていこくしゅぎ、英:The Imperialism of Free Trade)は、19世紀中葉のイギリスがアジアなど非西欧地域に対して取ったとされる対外政策・通商政策であり、1960年代に概念化された。「自由貿易の帝国主義」とも。
概要[編集]
第二次世界大戦後初期に至るまで、1840年代〜60年代のヴィクトリア朝中期のイギリスの対外進出政策・植民地政策は、マンチェスター派流の自由貿易主義の影響を受けて小英国主義が強く、植民地獲得には消極的で「貿易すれども統治せず」というものであったと評価されてきた。しかし、現実には、当該期において中国でのアヘン戦争(1840年〜42年)やアロー戦争(1856年〜60年)による貿易の拡大、クリミア戦争(1853年〜56年)によるオスマン帝国への介入拡大、インド大反乱(シパーヒー(セポイ)の乱、1857年〜59年)鎮圧によるインド支配の強化など、イギリス帝国の拡大につながる重要な出来事が起こっているため、これらと自由貿易政策との関係をどう説明するのかが求められていた。
1960年代に入ってジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンは、小英国主義的な植民地放棄論がこの時期の主流であったとする従来の見解に異議を唱え、"The Economic History Review" 第2期6巻1号(1953年8月刊)に掲載された共著論文「自由貿易帝国主義」において、この時期の非西欧地域に対するイギリスの進出政策には2つの形式が存在していたと主張した。すなわち一つは「公式帝国」(Formal Empire)であり、植民地化あるいは直接の支配であり、もう一つは「非公式帝国」(Informal Empire)であり、植民地化まで至らない、主として経済進出の形で現れた影響力の拡大である。そして対外進出の経費を考慮し、できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていたとした。これにより、従来の「貿易すれども統治せず」のテーゼは「できる限り非公式なコントロールでの貿易、やむを得ない場合は支配をともなう貿易」と修正されたのである。
この学説によれば、1830年代〜50年代に3期にわたって外相を務め、その後60年代に至るまで2期にわたり首相を務めた自由党出身の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、典型的な自由貿易帝国主義の外交家・政治家であったと評価される。
参考文献[編集]
ジョージ・ネーデル、ペリー・カーティス(編) 『帝国主義と植民地主義』(川上肇ほか訳) 御茶の水書房、1983年(原書1964年)
第4章にギャラハー=ロビンソン論文の全訳(川上の訳)が収録されている。
小風秀雅「冊封体制と不平等条約体制」 貴志俊彦・荒野泰典・小風(編) 『「東アジア」の時代性』 渓水社、2005年 ISBN 4874408788
高橋進 『国際政治史の理論』 岩波現代文庫、2008年 ISBN 9784006001988
5章「帝国主義」(初出「帝国主義の政治理論」1992年)参照。
毛利健三 『自由貿易帝国主義』 東京大学出版会、1978年
で、古本屋で気まぐれに買った「帝国意識の解剖学」(世界思想社)という本をのんびり読んでいると、その中に「自由貿易帝国主義」という言葉が出てきて、実は自由貿易は帝国主義と結びついている、という事実が1950年代からすでに指摘されていたことを初めて知ったわけだ。
こういうことは、大学で学んだ人で真面目に勉強していたらとっくの昔に知っていたのだろうな、と思うと、学生時代に真面目に勉強しなかったのが悔やまれるが、その一方で、このような議論が学問世界の外にまったく出てこないという事実に呆れてしまう。つまり、自由貿易は資本主義の生命線であり、資本主義は帝国主義の裏表として発展してきたのだから、このようないわば「自由貿易悪人論」はマスコミにはけっして乗らなかったのだろう。
なお、自由貿易が大国に有利である理由は、下の記事で言えば、
できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていた
ということであるようだ。今で言えば、TPPの条文がまさにそれ(不平等条約)である。
(以下ウィキペディアより引用)
自由貿易帝国主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由貿易帝国主義(じゆうぼうえきていこくしゅぎ、英:The Imperialism of Free Trade)は、19世紀中葉のイギリスがアジアなど非西欧地域に対して取ったとされる対外政策・通商政策であり、1960年代に概念化された。「自由貿易の帝国主義」とも。
概要[編集]
第二次世界大戦後初期に至るまで、1840年代〜60年代のヴィクトリア朝中期のイギリスの対外進出政策・植民地政策は、マンチェスター派流の自由貿易主義の影響を受けて小英国主義が強く、植民地獲得には消極的で「貿易すれども統治せず」というものであったと評価されてきた。しかし、現実には、当該期において中国でのアヘン戦争(1840年〜42年)やアロー戦争(1856年〜60年)による貿易の拡大、クリミア戦争(1853年〜56年)によるオスマン帝国への介入拡大、インド大反乱(シパーヒー(セポイ)の乱、1857年〜59年)鎮圧によるインド支配の強化など、イギリス帝国の拡大につながる重要な出来事が起こっているため、これらと自由貿易政策との関係をどう説明するのかが求められていた。
1960年代に入ってジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンは、小英国主義的な植民地放棄論がこの時期の主流であったとする従来の見解に異議を唱え、"The Economic History Review" 第2期6巻1号(1953年8月刊)に掲載された共著論文「自由貿易帝国主義」において、この時期の非西欧地域に対するイギリスの進出政策には2つの形式が存在していたと主張した。すなわち一つは「公式帝国」(Formal Empire)であり、植民地化あるいは直接の支配であり、もう一つは「非公式帝国」(Informal Empire)であり、植民地化まで至らない、主として経済進出の形で現れた影響力の拡大である。そして対外進出の経費を考慮し、できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていたとした。これにより、従来の「貿易すれども統治せず」のテーゼは「できる限り非公式なコントロールでの貿易、やむを得ない場合は支配をともなう貿易」と修正されたのである。
この学説によれば、1830年代〜50年代に3期にわたって外相を務め、その後60年代に至るまで2期にわたり首相を務めた自由党出身の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、典型的な自由貿易帝国主義の外交家・政治家であったと評価される。
参考文献[編集]
ジョージ・ネーデル、ペリー・カーティス(編) 『帝国主義と植民地主義』(川上肇ほか訳) 御茶の水書房、1983年(原書1964年)
第4章にギャラハー=ロビンソン論文の全訳(川上の訳)が収録されている。
小風秀雅「冊封体制と不平等条約体制」 貴志俊彦・荒野泰典・小風(編) 『「東アジア」の時代性』 渓水社、2005年 ISBN 4874408788
高橋進 『国際政治史の理論』 岩波現代文庫、2008年 ISBN 9784006001988
5章「帝国主義」(初出「帝国主義の政治理論」1992年)参照。
毛利健三 『自由貿易帝国主義』 東京大学出版会、1978年
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