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徽宗皇帝のブログ

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要するに、右翼って金目でしょ
「hamachanブログ」から転載。
若者の中に右翼的心情の持ち主がけっこういる理由を考察するのに、下記記事はヒントになりそうだ。まだ考えが熟していないのだが、簡単に言えば、「左翼のせいで自分たちは損をしている」という単純な理由である。
赤木智弘氏で言えば、「左翼でいてもロクなことはない(メリットはない)から、自分は左翼をやめて右翼になる」ということになる。まあ、戦争待望論者イコール右翼ということになるわけでもないが、自分の利益や打算というものが彼の思考の根幹にあるのは確かだ。戦争待望論とは、「その戦争で死ぬ膨大な人間の命よりも、自分が得られる利益(社会的地位上昇など)が大事だ」ということであり、その心情がゲスそのものであるにも関わらず、若者の間で彼の論が一定の支持を得たのは、彼の「正直な」発言が多くの若者の心情を代弁していたからだろう。(もちろん、論じ方のうまさ、文章のうまさのせいもある。)
人権論についても同様だ。「他人が人権を擁護されることは、自分の利益を削減されることだ」と考える層が、この社会にはかなりの割合で存在するようである。特に右翼の中に多いようだ。
そもそも、他人が利益を得ること自体が不愉快だ、という人間は多い。私だって例外だとは言わない。ただし、「それが不当な利益である」場合だけだ。もっとも、正当な利益であっても、たとえば他の男が女にモテルのは自分には不愉快だ、というような嫉妬心は誰にでもあるから、それは別の話。(笑)
話が脱線した。そのように、「利益(これは現実的利益というより、心理的なものだ)」や「嫉妬」などの心理面から政治的現象を考察すると、案外問題の核心に迫れるのではないか、という話である。




(以下引用)

2014年8月15日 (金)

自分の人権、他人の人権


https://twitter.com/YuhkaUno/status/494839766626492419


人権教育というのは、まず「あなたにはこういう権利がある」ということを教えることだと思うんだけど、日本の人権教育は「弱者への思いやり」とかで語られるから、人権というのは「強者から弱者への施し」だと考えるようになるんだと思う。


もっというと、だから人権を目の敵にする若者たちがいっぱい出てくるわけです。


ということをだいぶ前から言い続けてきているわけですが・・・。


http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html


 残りの3分の1の時間で、想定される小玉先生の話に対するコメントをします。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になります。
 
数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです。
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。


http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-baa7.html(りべさよ人権論の根っこ)



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