思考素というか、今後の思考のためのヒントとして、「現実性のある観念」あるいは「観念の現実度」という奇妙な概念を考えたので、書いておく。「観念」と「現実性」は対立概念として見られることが多いが、実際には人間の思考は観念操作(概念操作)で行われるので、その観念に現実性が濃厚か希薄か、あるいは「自分の人生に関わりがあると感じられるかどうか」は大きな問題ではないだろうか。
そして、観念は「言葉」でできているのだから、その言葉が真剣に扱われているか、それとも軽く無責任に操作されているかどうかもまた大きな問題になる。
そう考えたのは、「フランス革命」と庶民の間の言葉や観念の関係、「明治維新」とフランス革命やナポレオン戦争、欧米帝国主義・植民地支配の関係、庶民と支配階級の観念の相違などを考えてみる必要があると思うからだ。言うまでもなく、「フランス革命」にも「明治維新」にもマルクスやエンゲルスの思想はまったく無関係である。それは、当時の庶民階級の知識の中には存在していない。フランス革命はそもそも時代的にマルクス・エンゲルス以前である。
とすれば、フランス革命当時のフランスの庶民や、明治維新当時の日本の庶民に「階級闘争」の観念があったら、どちらの様相も大きく変わったのではないか。
こんなのは歴史の「イフ」にすぎない話だが、では、現在のような「残酷な資本主義」「1%対99%の格差社会」の中でマルキシズムが庶民の間で力を持たないのはなぜか。
そこには「観念や言葉が血肉化していない」という問題があるように思う。
だが、小林多喜二のように拷問死する事態に直面しないと観念が血肉化しないというのでは、現実は何一つ変わらないのではないか。
つまり、ほとんどの庶民は「朦朧とした、ふやけた観念の湯舟」の中で思考が眠り込んでいるのではないか、ということである。それがまた支配階級、上級国民の意図し、成功している世界の現実状態ではないか。
観念の現実性、という言い方は奇妙に聞こえるが、観念の中でも実態的に我々を支配しているのが、「国家」という制度であり、「政府」というシステムだ、というのは明らかだろう。そういうような「実体性と強制力のある観念」と、「実体性や強制力のない観念」を区別して考えることがまず必要かもしれない、という、これは思いつきである。
PR
コメント