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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

言葉が用を為してしない現在の政治状況
為末大のブログから転載。
正論である。橋下徹あたりが世論に便乗して新国立競技場建設に反対しているが、あんなのはどうせ人気取りのためでしかないだろう。為末の場合は、反対することで受ける個人的な不利益を覚悟しての発言であるだけに、偉い。おそらく、安倍政権や官僚やマスコミからのバッシングをこれから受けることになるだろう。アスリートのくせに、アスリートの利益になる新国立競技場建設に反対するのか、という非難だ。その非難が的外れであることは、下の記事で明確に言われているとおりであるが。


「スポーツの現場から見ても不思議なのは、一体誰が競技場を作りたがっているのかがよくわからない点です。もし誰かないしは組織が仮にいくらかかってもこれはやるべき事業なんだと強く主張してもらえればまだ競技場を建てる意味を考えることができるものの、いくら話を聞いてもどこに中心点があるのかがわかりません。」



まったく、誰が、何のためにこれほど巨額の予算で新国立競技場を建てたいのか、森元総理や安藤某などの発言を聞いても、さっぱり理解できない。まあ、「戦争法案」に関する安倍総理や防衛大臣の説明を聞いてもさっぱり理解できない、というか、あまりに不合理すぎて説明になっていないのと同様である。
最近の政治現象の諸悪の根源は、こうした「言葉への不誠実さ」が安易に許容されていることではないか。橋下話法や安倍話法とは、論理の無視と露骨な誤魔化しなのである。それが国会論議を不毛なものにしている。




(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。

新国立競技場

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いろんな意見を聞いて考えてきた私の結論を言いますと、私は三つの立場から新国立競技場建設の今の案に反対です。


一つ目は陸上選手として反対です。新しい国立競技場はサブトラック(ウォーミングアップのためのグランド)がありません。五輪本番は仮設のもので行うようですが、その後は撤去される予定で、そうなると陸上競技の世界大会をルール上(サブトラックが必要)ひらくことができません。陸上選手としては国立競技場は陸上競技場でもあってほしいので、サブトラックがない案に反対です。


二つ目はスポーツ選手として反対です。国立競技場の建設に関するところに関わったと言われるアスリートは少なくとも私の周りにはいませんが、それでももし本当に建設されてしまったらスポーツ界もしくはアスリートが日本に負担をかけたと言われることが予想されます。スポーツは社会の役にはたっても、お荷物だと思われるのは(仮にそれにアスリートが関わっていなくても)いやなので、反対です。


三つ目は日本人として反対です。新国立競技場は2500億の建設費、年間40億とも言われる維持費、さらに屋根などを今後建設することを考えるともっと予算が積み上がる可能性があると言われています。一つ目と矛盾するようですがスポーツの国際イベントなんて一年に一回あったらいい方で、それ以外のスポーツイベントでも8万人の競技場を満たすことなんてできません。標準規模の建設費で作り、スポーツは頑張って小さめの赤字、音楽などのイベントで黒字化し、せめて日々の維持費はまかなうというのがよいように思います。どう考えても経済的に負担が大きすぎる競技場を作ることは今の日本の状況から見ても反対です。


スポーツの現場から見ても不思議なのは、一体誰が競技場を作りたがっているのかがよくわからない点です。もし誰かないしは組織が仮にいくらかかってもこれはやるべき事業なんだと強く主張してもらえればまだ競技場を建てる意味を考えることができるものの、いくら話を聞いてもどこに中心点があるのかがわかりません。


日本が迎える高齢化社会において、重要なのは一つのどでかい競技場ではなく、小学校や高校大学のスポーツ施設を解放することや、予約しにくく使いにくい日本のスポーツ施設を解放することだと思います。そうすればスポーツが身近になり、社会保障費が抑制され、健康寿命が実寿命に近づき、スポーツが日本が抱える課題解決に貢献できるのではないでしょうか。スポーツも感動など数値化できないことだけではなく具体的に数値化できるものに貢献する意識を持つべきだと私は考えます。スポーツの未来よりも日本の未来の方が重要です。


最後にアスリートが使う競技場なのだからアスリートから声をと言われますが、現役アスリートは競技に集中しなければならない立場にいますし、引退後のアスリートもそれぞれ考えがあったり、組織に属していて組織側の立場もあります。発言すべき時は発言すると思うので、社会の側からアスリートに踏み絵を迫るようなことはしない方がいいと思います。私のようなアウトサイダーは頼まれなくてもいくらでもぺらぺらしゃべりますが。


1964年、東京五輪を終えて最初の都議会で東都知事が発した言葉は、


”何かいい目標はないかね”


でした。2020年に日本が終わるわけではなく、むしろそれからの日本の為に2020の五輪があるべきではないでしょうか。お祭りは士気を高める上でもプレゼンスを高める上でも大事ですが、お祭りなりの予算というものがあって、それを逸脱すべきではないと私は考えます。


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