議会政治の裏側(二世議員のレベルの話なども含め)が分かって面白いので、紹介するわけだ。
議会での討論を「出来レース」だとしか思っておらず、議会政治など無意味だ、とする意見をネットでよく見るが、その議会での決定が実際に我々の現実生活を縛っているのだから、議会政治否定論や選挙否定論は、私は有害な議論だと思っている。
政治そのもの、政府の存在そのものを否定する、となれば、それはアナーキズム(無政府主義)であり、原始時代にでも戻らないと、そんな社会は成り立たないだろう。今の日本の政治の根本的否定としての「海外への脱出の勧め」も一般人にとっては現実的な提案ではない。それに、どこに行こうが、政治からは逃れることはできはしない。
その点で私は飯山翁や東海アマ氏とは意見を異にするのである。我々はどうあがいても政治から免れた生活をすることは不可能である。それは、物理法則を無視した運動は成り立たないのと似たようなものだ。ならば、その制限の中で可能な自由と幸福を求めるしかない。たとえば、憲法は、人民への束縛ではなく、人民の幸福の権利を保障するものだ。束縛や制限は、この場合は権力に向けられたものである。そういう「制限」もあるのだ。
政治(議会政治)に対する絶望を公言することは、社会をより悪い方向にしか向けない、というのが私の意見である。
議会政治は、確かに官僚に支配されている部分は大きいだろうが、完全に、ではないと思う。でなければ、最近の国会における安倍一味の醜態が国民の目にされされるということもなかっただろう。
というわけで、私は政治に期待することをやめないのである。人民は、先人の努力と犠牲によって、奴隷的境遇から、少しずつ生活水準を向上させ、今のような人間らしい生活水準にたどりつけたのである。それこそが「政治の力」、言葉を変えれば、政治の中に人道主義と良識を注入してきた「民主主義」の成果なのである。議会政治や選挙を否定することは先人たちの努力と犠牲を無にするものだ。
(以下引用)
2015-05-21 質問の緊張感
質問の緊張感
志位和夫の党首討論が話題になっているが、元官僚だった松井孝治(慶応大教授、元民主党議員)のフェイスブックの投稿が面白かった。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1630450053835851&id=100006126152789
興味深かったのは党首討論の内容もさることながら、質問通告をうけての議員と当局側の駆け引きの緊張感について松井の投稿が触れていることだ。
松井の投稿を読むと、党首討論は普通の質問と違って、かなり粗い質問通告が許されている。「クイズ質問」といわれないように、ポツダム宣言という、戦後認識の根幹にかかわり、しかも非常に短い重要文書への認識を問うという戦略をとった志位のやり方を、うまくやりやがったなあと評価しているのである。
このあたりは志位氏のうまいところで、戦後レジームからの脱却を唱える総理が、ポツダム宣言を読んでないとは言いにくいことを承知の上で、恐らく事前通告なしに、ポツダム宣言の連合国側の認識に重ねて総理の戦争観を訊ねたわけだ。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1630450053835851&id=100006126152789
松井の投稿が指摘するように、安倍首相は、志位の仕掛けてあるロジックの「トラップ」をおそれて慎重な答弁に徹する。
しかしそれが全体としてみると
結果として、安倍首相としては、かの戦争の「侵略性」については言及しないという規定〔既定?──引用者〕路線は堅持できたものの、「ポツダム宣言も読まずに戦後レジーム脱却を謳う首相」「そこまでしても戦争の誤謬を認めない修正主義者」とのレッテルを志位氏に貼られたことは、まさに志位氏の術数にはまり恰も王手飛車取りに遭った如き感がある。
となっちゃった。
「孔明の罠」を恐れて、煙があがっている方にいっちゃうパターンw*1
7分という短すぎる時間(しかも答弁あわせて!)の中で、国家政策にかかわる基本問題を浮かび上がらせ、なおかつ相手を追いこむロジックの檻をつくらねばならぬのであるから、常人にはできないことだ。
松井が官僚時代に志位の質問取りをしたことを回顧して、
実を言うと、約20年前に官僚として官邸に勤務していた時、首相の国会での質問取りも重要業務のひとつであった。その時に、圧倒的に「王手飛車取り」的な質問を繰り出した手練れが志位氏であった。僕のひそかな楽しみは、その志位氏の質問の狙いを、「質問取り」で焙り出せるかにあった。
と書いているくだりが実に興味深かった。
さらに、松井の「質問取り」能力に逆に志位が魅了されて、
何度か、志位氏の質問取りで、先生、質問2と質問3の間に実は別の質問があるのではないですかなどとと食い下がるようなやりとりをしているうちに、志位氏から、君はどこの役所から参事官室(内閣)に来てるのかとか、出身地はどこかと訊かれるようになった。そして、ある時、何と「選挙に出てみる気はないか」と訊ねられた。
というのはご愛嬌、というか、志位の質問を的確すぎるほどに読み込んだ松井を、共産党のシンパではないかと志位が勘違いしたのではとぼくは読んだ。冗談にしても「優秀な官僚」というだけではこういう冗談を言わないだろうから。それくらい松井の読み込みが非凡だったのだろう。
地方議会でも答弁の準備や「勉強会」と称して、職員が議員に「質問取り」をする。
ある共産党議員に聞いたのだが、議員になったばかりのころに、職員が「勉強会」と言って共産党の控室に複数でやってきた。一人の職員が「それで先生、質問原稿の方はいつもらえますか」と言ったので、その共産党議員は「は?」とびっくりしたという。同席していた同僚職員があわてて「バカ、ここの先生は違うんだよ」と小声で掣肘した。
与党議員では質問は完全に当局が把握し、答弁をすっかり完成させているというわけである。議場から傍聴していると、自席で質問している場合、赤い字がみえる。当局の答弁がそこに書いてあるのだ。
いや、ひどいのになると質問も当局がつくっている。
ぼくも議場でしばしば出会うが、自分がつくった「はず」の質問原稿の漢字が読めずに前に進まなくなっている、若い2世議員が本当にいっぱいるのだ。
共産党の兵庫県議(喜田結)のブログにはまったく同じことが生々しく書かれている。
先日、民主党のあるベテラン県議が、「僕は(議会の)質問を全部自分で作るんです」と誇らしげに話していました。
そのとき私は意味が分からず、「わざわざ言うほど、何か特別なことなのか(T_T)?」と思いました。
ところが、その謎が次第にわかってきました。
ある委員会でのことですが、自民党の県議の質問が、いかにも原稿の棒読みという感じで、さらに何回かでてくる用語(漢字)がどうしても読めず、そこでつまってしまうということがあったそうです。
同僚の杉本ちさと県議が「読む練習くらいしてこなあかんで…」とぼやいていました。〔強調は引用者〕
http://higashinadaku.jp/765/
そこで紹介されている朝日新聞の記事(2007年3月11日付)でも
一部の県議を除き、質問を原稿にまとめて事前に手渡す。財政課が並行して知事らの答弁書を作成。こうして質疑の「台本」は完成する。
とある。
これも共産党の地方議員に聞いた話だが、非常に優秀な職員になると、共産党側の質問展開まで全部見通してしまって、議員側が粗い流れしか言わないのに、「先生の質問はこういう流れなのではないですか。だとすると、この展開が抜けますよね」とまで言ってくる。共産党側はあくまで手の内を明かさないのだが、内心舌を巻く。
松井が、
何度か、志位氏の質問取りで、先生、質問2と質問3の間に実は別の質問があるのではないですかなどとと食い下がるようなやりとりをしているうちに
というのはまさにそれだ。
議会質問に対しては当然答える方は事前に準備が要る。なので議員側も事前にある程度は告げる。しかし、すっかり言ってしまえば、議会質問は単なるセレモニーになってしまうので、準備をさせる範囲までしか言わない。そこに二元代表制としてまっとうな緊張感が生まれる。*2
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