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徽宗皇帝のブログ

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議論のできる社会、議論を楽しむ社会

「明日のために その6」で引用した(「させていただいた」と言うべきなのだろうが、こうした馬鹿丁寧さはかえって日本語での議論を困難にする要因なので、引用先への敬意や侮蔑は敬語の有無ではなく、内容で考えることを提案する。)岡山博氏のサイト(ブログ)のアドレスと、プロフィール中の挨拶の言葉を転載しておく。
私は専門家や学者をよく批判するが、岡山博氏のような真摯な態度の専門家や学者はもちろん尊敬している。現場の学者や専門家はむしろそういう人々が大多数だろう。そのような本物の専門家や学者がやってきた仕事の内容や仕事への努力は私のような怠け者が足元にも及ばないものであるのは勿論だ。
だが、同時に、これは岡山氏のことではなく一般論だが、専門家には専門家にとって宿命的な視野狭窄の傾向があることは確かだろう。したがって、私がその専門分野で彼らと議論をするのは不可能だが、たとえば政治的問題についてなら、相手が大会社の社長だろうが大科学者だろうが、議論は可能である。つまり、社会的地位や業績は政治議論においてはまったく関係がない、ということである。必要なのはただ論理的思考能力と議論での誠実さ、それに多少の「陰謀実在論」の知識だけである。
この最後のものが必要かと疑う人もいるかもしれないが、実はこれが無いと、議論は永遠に平行線を辿ることになるのである。表マスコミでのほとんどの政治的発言が無意味であるのは、陰謀、すなわち表に姿の出ない計画やその実行の存在を最初から考慮していないから、と言える。そして、専門家はそういう陰謀論(陰謀実在論)を嫌う傾向が強いように思う。そうなると、ネットで勉強した中卒程度の男女よりも、ある意味では無知だということになるわけである。
井口博士などのように、非実在が完全に証明されていないものは実在する可能性がある、とするのが真に科学的な態度だろう。もっとも、実在しないことを完全に証明することは、何事においても不可能なのだが。(私はよく冗談で「絶対が無いことだけは絶対に確かだ」と言っている。言わば、森鴎外的態度である。「完全に信じてはいないが、便利なのでとりあえず、当座はこの立場を取る」という「かのように」主義である。)
なお、岡山博氏は医学の専門家であるから、酵素や細菌が放射能除去に効果があるという考えを否定している。このことで飯山一郎老人、つむじ風氏、あるいは東海アマ氏あたりと対立する立場になるとは思うが、それはそれ、これはこれ、ということで、現今の日本の政治、日本社会の悪弊を改革していくために戦うという立場は同じだと考えるべきだろう。

政治論議においては、中学生も家庭の主婦も、労働者も無職隠居老人も、会社社長もその会社の掃除婦も、大学の先生も大学生も、そして評論家や政治家さえも平等に議論できるし、するべきなのである。

国民の誰もが穏やかに、余裕をもって、笑いもまじえて政治議論を楽しむ、そういう社会が来てほしいものだ。




(以下引用)


hirookay.blog.fc2.com/blog-entry-46.html …




物言えぬ日本社会のあり方が、原発事故や殆どの社会問題と、個人の多くの苦痛の底流にあり、解決を妨げている。
 人が大切にされる健全な社会とは、侮蔑・脅迫・恫喝・欺きを容認しない社会。
 人の誇りを尊重し踏みにじらせない健全な文化・社会・人格が存在するためには、優れた言葉の往復で発言・議論する自覚と能力と、相手に対する敬意、論理的議論を楽しむ知性と勇気と道義性が必要。

 優れた言葉とは、まっすぐ、真剣、丁寧、誠実、相手に敬意を持った穏やかで論理的な言葉です。
優れた言葉、文化、人格を育み、共有する関係を発展させたい。
 考え方・感じ方・選択する基準・行動様式の社会全体の傾向が文化で、個人のレベルでは人格です。
良い議論をしましょう。
共同で共通の認識や結論を作ろうという意思と、異なる意見の提示が特に大切です。








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