まことに御説ごもっともであり、今の選挙システムほど、民主主義、国民主権というものを形骸化し、国民を馬鹿にしたものはない。
まずは、ここから変えていかねばならないのだが、それを変えるには国会での決議が必要であり、この欠陥選挙で選ばれた欠陥議員たちが今の選挙制度を変える可能性はゼロに近いという、はなはだ情けない状況だ。それでも、これが変わる可能性があるとすれば、「三権」に並ぶ「第四の権力」マスコミが声を揃えて選挙システム改善を叫ぶしかないが、そのマスコミも企業(スポンサー)に支配され、政権に許認可権で脅されて発言できないという雁字搦めの状態が、今の日本だ。さてさて、こうした状況を変えるには、今の日本の状況を心から憂え、政治を変える力のある一部の政治家(私は山本太郎などがそれだと思っている。)を国民が支持し、彼らに力を与えるようにさまざまに行動していくしかないだろう。
微力ではあるが、私が自分のブログなどで政治的な発言をするのも、日本の子供たちにより幸福な日本を残したいという「貧者の一灯」のつもりなのである。
幸い、これまで自分が書いた内容について訂正したいと思ったことはほとんど無い。新自由主義という分かりやすい「敵」が最初から存在したから、ということもある。その新自由主義に対抗するのは、名称はどうであれ「社会主義(的政策)」しかない、というのが私がずっと主張してきたことである。自由主義とは「力がある人々がより自由に力をふるい、人々を支配する社会」を目指すことであり、小泉以降、民主党政権初期を除き、今の安倍政権に至るまで自民党の作ってきた社会がそれであることは言うまでもない。
話が逸れたが、選挙がコンピュータで操作された不正選挙でないかぎり、その自民党政権を選んだのは国民だ。そして自民党政権下で格差と貧困が拡大の一途をたどり、フクシマは収束の気配もなく、政府は増税と福祉カットを恣にし、社会中層から下層にかけての国民は生活苦に苦しんでいる。それでも彼らが自民党(自公政権)を選ぶという気持ちが私には理解できない。自分自身の豊かな生活を守りたいという、社会上層部の人々の気持ちも分かるが、ではそういう人々は、自分や自分の家族さえ幸福なら、不幸な人々のことはすべて「自己責任」だ、と考えることができるのだろうか。彼らには「惻隠の情」というのは無いのだろうか。
かつて社会主義に賛同した人々の中には、上流階級の人々もたくさんいた。彼らは「自分たちさえ幸福ならいい」とは考えなかったのである。
この社会の不平等や不合理によって苦しむ人がいてはならない。それが社会主義というものの本質であり、自由競争、すなわち「弱肉強食」が資本主義の本質だ。自由競争ですべてを決めるなら、弱肉強食以外にはなりえないのである。もちろん、「努力したから強者になったのだ。敗者(弱者)は努力をしなかったのだから、何も与えなくて当然だ」と勝者は言うだろう。はたしてそうか。社会的競争は、本当に公正に行われているか。(私は「優勝劣敗」つまり、「優れたものが勝ち、劣ったものが負ける」というのは一面的でしかないと思う。スポーツやギャンブルでも勝ち負けは偶然の要素が大きいし、社会的競争は資本金や家柄、情実などで勝ち負けが左右される。)先天的条件は何一つ考慮せず、同じ条件で競争させればいいのか。
そうではない、社会的競争の不平等を緩和し、勝者と敗者の「得るもの」の差を小さくしよう、というのが社会主義である。よほどのエゴイストでもないかぎり、この思想に不満を持つ者はいないだろう。(いくら金を得ても一度の食事に十人前も食うわけでもないだろうに。)
「福祉政策など不要だ。弱者や貧困者は死ね」という思想が「新自由主義」の極限である。そういう社会を望む人間を私は人間だとは見做さない。人間であるとすれば、サイコパスである。
(以下引用)
統一地方選、こんなのが選挙と言えるのか?
今こそ公職選挙法の抜本的な見直しを
2015.4.14(火) 筆坂 秀世
統一地方選挙の前半戦が終了した。41の道府県議選の投票率は、平均で45.06%となっている。半分以上の人が投票に行っていないということだ。41道府県中、38道府県では戦後最低の投票率になっている。なかでも千葉、埼玉は37%台、愛知は38%台の投票率である。3人に1人強しか投票に行っていないということだ。
公職選挙法(公選法)では、最低投票率というような規定はないので、いくら投票率が低くても、選挙そのものはもちろん有効に成立しているということになる。
だが問題は、なぜ半分以上、あるいは3分の2もの人々が投票に行かないのかということである。
公選法第1条は、「この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発展を期することを目的とする」としている。だが現状は、とても選挙人が自由な意思を表明しているとは言えまい。となれば「民主政治の健全な発展」も実現し難いということになる。
これでは関心の持ちようがない
とはいえ、私自身が一人の選挙人として考えた場合、この低投票率は大いに納得がいくのである。
私は埼玉県川越市在住だが、4年前に当選した県会議員がこの間、どういう活動を行ってきたのか、まったく知らない。同じ政党のメンバーや熱い後援者などを除けば、これが平均的な有権者の実態ではないだろうか。「県議会だより」が発行され、県議会のライブ中継なども行われているが、一体どれだけの人がこれを読み、あるいは見ているのだろうか。
例えば、「埼玉県議会だより」は新聞折り込みになっている。私のように新聞折り込みチラシをほとんど見る習慣がない者にとっては、目に触れることはまれである。もともと県政・県議会は、ある意味、中途半端な存在である。国政のようにテレビ、新聞で大きな話題になることもない。市政ほど身近でもない。そのうえ何をしているのか、議員自身の報告もなければ、議会だよりも目にとまらないのでは、ますます関心は薄れてしまう。
今回の選挙公報も同じだ。おそらく新聞折り込みで入っていたのだろうが、ついに目にすることはなかった。結局、今度の県議選で目にしたのは掲示板のポスターだけである。関心の持ちようがないのである。
同じ議会だよりでも、川越市議会の場合は、市が発行している「広報川越」に挟まれて、各戸の郵便受けに配布される。この場合は、ほとんど見落としなく目にとまり、読むことができる。ところが、この川越市も市議選の選挙公報は新聞折り込みである。
候補者の名前も政見も知らせないようにしている公選法
いまの公選法は、基本的に“べからず集”である。前述したように、公選法第1条には、「自由に表明せる意思によって」とあるが、不自由きわまりないのが公選法の仕組みになっている。
日本では、選挙活動の期間が決められている。最長が参院選と知事選の17日間、衆院選は12日間、都道府県議選は9日間、政令指定都市以外の市議選は7日間、町村議選は5日間となっている。本来なら、この期間こそもっとも旺盛に政治活動が展開されなければならない。
ところが日本の場合には、選挙が始まった途端に、さまざまな政治活動、選挙活動が禁止され、規制されるのである。
まず戸別訪問の禁止である。買収や利益誘導の温床となるというのが、その理由である。世界でも、日本と韓国ぐらいで、あまり例がないようである。選挙になると、候補者名を連呼する宣伝カーが走り回り、街頭がうるさくなるのはこのためである。市議選などになると候補者が多いので、正直、その喧騒に腹が立つこともあるが、戸別訪問が禁止されているので、候補者としてはこうするよりほかないのである。
国政選挙では、選挙に入ると、候補者名を掲載したビラや候補者名を類推することができるビラを配布することはできない。県議選や市議選では、そもそも個人ビラを作成、配布することもできない。まったく馬鹿げたことに、選挙に入れば候補者名を隠さなければならないのである。不合理きわまりない。
ずいぶん有権者を馬鹿にした制度である。有権者が知ることができるのは、掲示板のポスターと候補者名を連呼する宣伝カーの喧騒だけなのである。
前半戦の県議選でも候補者カーに何度か出くわしたが、多少の形容句はつけているが、どの候補者も名前の連呼だけである。あれを見て、「この人に投票したい」とは、絶対に思わないだろう。少なくとも私はそうだった。
選挙公報は、川越市でも新聞折り込みである。川越市を例にとれば、4年前の選挙で定数36人に対して、45人が立候補している。わずか1週間の間に、この材料だけで45人を見きわめ、1人を選べというのである。どう考えても不可能である。
昔なら立会演説会というのがあった。各候補が一堂に会して、持ち時間内で訴えを行うのである。現在のように、街頭や屋内で一方的に言いたいこと勝手にしゃべくりまくるのではなく、他候補と演説で主張を戦わせるものである。ところが各陣営が動員をかけて対立候補をやじり倒すなどするため、廃止になってしまった。残念なことだ。有権者にとっては、各党の政権を知り、各候補の力量を知り、比較する場であり、政治を身近にする場でもあった。また政治家にとっても、有権者の面前で他候補と競うわけだから、大いに自らを鍛える場となっていたからである。
その結果、有権者は、ほとんど判断材料を提供されることなく、投票しなければならなくなったのである。だから特定の政党の熱心な支持者、特定の候補者の後援会員などは選挙に行くが、そういうつながりのない人は、判断しようがないから投票を棄権するのである。
イギリス、ドイツ、アメリカには公示日はない
イギリスやドイツ、アメリカには、“これから選挙が始まりますよ”という公示日はない(原則として国政選挙は公示、地方選挙は告示)。決められるのは投票日だけである。つまり政治活動と選挙活動の区別はないわけである。これこそまっとうなあり方だ。
政治活動がもっとも激烈な形で現れるのが選挙活動であり、そこに断絶はない。連続してこそ意味がある。わずか1週間前後の活動だけで選べという方が無理筋なのである。
本来、政治活動というものは365日行われている。投票日が決まれば、そこに向けて、候補者名を大いに宣伝し、それこそ基本的には自由にそれぞれの陣営が政見を発表し、有権者の中に入っていく。これこそが政治活動であり、選挙活動である。戸別訪問ももちろん解禁すべきである。ここでの有権者との対話が、政党を、候補者を鍛えていくことにもつながる。買収や利益誘導には、厳罰をもって対応すれば抑止は十分に可能である。イギリスでは、戸別訪問こそが選挙活動の中心に据えられている。だからうるさい宣伝カーはない。この方がよほどまっとうである。
私は、日本共産党で40年近く活動してきた。そのうち20年近くは秘書として、参議院議員として、国政に直接関わってきた。その時には、普通の人々がどれほど政治との間に距離があるのか分からなかった。その後、離党して、国政とも地方政治とも縁遠くなって、はじめてその距離間を知った。
“自分たちは一生懸命やっているから、国民にも伝わっているはず”というのは、とんでもない錯誤なのである。宣伝カーの上から大きな拡声器を使って演説しても、ビラを配布しても、それが届いているのはごくごく一部に過ぎない。ほとんどの人には、声もビラも届いてはいない。肉声が届いている人など、取るに足らない数だ。
戸別訪問の解禁、立会演説会の復活(形式は工夫する)、選挙規制の大幅な緩和等々に真剣に取り組まなければ、選挙そのものの意義が根本から問われることになりかねない。その時こそ、本当の民主政治の危機である。そうならないため、各党が公選法改正に取り組むことを強く求めたい。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43523
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