私が言う「本来の社会主義」とは、下の記事の結論部に書かれているようなものだ。「分裂勘違い君」筆者は資本家の一人だが、ここで言っていることは、ロバート・オーウェンの思想とそう隔たってはいない。私自身が望む社会も
●価値分配競争を抑制し、価値創造競争を促す。
●競争に敗れた場合でも、普通に豊かには暮らしていけるようにする。
●生産力過剰になったら、モノやカネより自由時間を享受することを奨励する文化風土にする*1
という方向へ誘導するように、法を整備し、国家運営する、ということです。
に近い。では、黙っていてそれが実現できるか、というと、資本主義(自由競争社会)では、それは難しいだろう、と思うから、社会主義を国家政策の土台として取り入れるべきだ、と言うのである。つまりは、法と道徳が国家には必要だ、というだけの話である。そして、社会の悲惨は、実は法と道徳が有名無実化していることから来る。であるならば、国民の人権と幸福を守らせるシステムが必要なのである。
(以下引用)
2007-02-09
■むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会。
人々が利己性の欲望に駆り立てられるまま、私利私欲に走ると、社会はどんどん悪化します。
しかし、欲望を抑圧する社会では、人々は幸せにはなれません。
本当に豊かな社会とは、人々が自分の欲望を素直に解放して生きることの出来る社会です。
つまり、利己性は、抑圧しても、解放しても、人々を不幸にするやっかいな欲望なのです。
そのため、人々の利己性をクリーンなエネルギーに変換する装置を、人類は発明しました。
そもそも、自由競争が正当化されるのは、「自由市場経済において、私欲を追求しようとすると、結局、よりよい商品を、より安く、より多くの人に提供するしかないので、結果として、最大多数の最大幸福が実現される」という理屈からだ。利己的な目的のために行動しても、結果として社会全体としては利他的な目的が達成されるという理屈からだ。自由市場経済とは、利己性の欲望という、「人類が持つもっとも巨大なエネルギー」を燃料にして、利他的結果を生産するという、人類が発明したもっとも優れたエンジンなわけだ。
このとてつもなく優れたエンジンに代わるものは、人類はいまだに手にしていない。このエンジンが本格稼働してから、たかだか200年ほどの間に生み出した富の総量は、それ以前に人類が生み出した富の総量を上回るという試算もあるほどだ。だから、このエンジンの使用自体をいくら批判したところで、いちどその果実を味わった人類が、その使用をやめられるかというと、それは少しも現実的ではないし、また、やめるべきでもない。このエンジンのおかげで、利己性の欲望は、もはや単に汚いものなのではなく、利他性を実現するための、よりクリーンなエネルギーとなり、人々は、これのおかげで、自分のなかの利己性の欲望を積極的に肯定し、自分を解放して生きることができるようになったのだから。この装置のすばらしさは、それが生み出す富よりもむしろ、「人々が、自分の中からあふれ出てくる気持ちを素直に肯定して生きられるようにした」ということにある。自分を肯定して生きられることほどすばらしいことはない。
しかし、この装置が上手く動かないことも多く、
むき出しの自由競争経済では、金持ちはともかく、多くの人々が競争に疲弊し、貧困に転落してしまいます。
なぜなら、資本主義という道具の使い方を誤ったときに傷つくのは、多くの場合一般人や貧乏人であって、金持ちではないからだ。
むき出しの自由競争社会の暴走で引き裂かれて血の海の中でのたうち回るのは、たいていが一般人か貧乏人なのだ。
むしろ、むき出しの自由競争社会は、金持ちにますます富を集中させる。
金持ちは、金持ちであるために、自由競争経済下で、金持ちで居続けるための知識と情報と人脈を持っている。
自分の子供を金持ちにするための教育投資を行える。
自由市場経済下でなら、自分の財産を賢く運用する方法など、かれらはいくらでも見つけてくる。
だから、金持ちたちは、自由競争を肯定したがる。
お金持ちの人には、「なんでも需要と供給と自由競争で決まるのだ。」「貧乏人はバカで怠け者だから貧乏なので、自業自得だ」「働かざる者食うべからず」という理屈が大好きな人も多いですが、そこにはそういう背景があると。
一方で、弱肉強食の資本主義を否定し、みんなで富を分け合うことを理想にかかげた共産主義国家が、ほぼ例外なく、醜悪な権力ゲームの舞台になってしまった苦い教訓があります。
つまり、競争をすると人々が疲弊し、貧困と格差が生まれるし、競争をしないと人々の欲望が抑圧され、しかも社会が腐敗するという矛盾があるわけです。
このため、全ての競争を無批判に肯定してしまうのではなく、よい競争と悪い競争を区別する必要があります。
●政治ゲームの勝者の自己正当化のインチキ
弱肉強食の利害闘争が正当化される唯一の根拠は、それによって、全体の価値創造、すなわち全体の豊かさの総量が大きくなることです。
弱肉強食が人間本来の姿なのだ、などというのは、まったく理由にならないです。そんなくだらない理由で過酷な資本主義社会の犠牲者の痛みを正当化するなど、恥知らずどころか、罪悪ですらある。近年の進化人類学研究の成果が明らかにしたように、そんなものは、醜い政治ゲームの強者に都合の良いようにでっち上げられた神話にすぎない。
唯一の正しい競争とは、価値創造の競争でなければならない。
だから、コミュニケーション能力や政治能力を駆使して、価値創造ゲームではなく、価値分配ゲームばかりやろうとする人間は、醜く、下劣なんだと思う。
まして、自分自身はたいして価値を生み出さないくせに、そのコミュニケーション能力や政治力を駆使して、要領よく立ち回り、価値の分け前にあずかり、おいしい立ち位置を手に入れ、でかい顔をして、その醜い能力を誇り、恥ずかしげもなく「空気読め」など言う奴らは、人間のクズだと断じて良いでしょう。
ここで価値創造って言っているのは、そんな大げさなことじゃなく、単に「(1)人が欲しがるモノで、(2)しかもまだあまり供給されていないものを、(3)低コストで提供する」という程度のことです。
結局のところ、金持ちが独占によって貧乏人を搾取するのも、貧乏人が福祉の充実によって富の分配を要求するのも、どちらも本質的には同じ「価値の分配ゲーム」をやっているだけなんです。
ようは、どちらも「オレの取り分をもっと増やせ!」と言っているだけです。
そして、あまりに多くのエネルギーを価値の分配ゲームに使ってしまうと、分配すべき豊かさ自体が縮小してしまいます。
●政治能力を取り柄にする人間たちの繰り広げる愚行
極めつけは、たとえばビジネスとかで、「みんなで協力して新しいマーケットなりサービスなりを創造しよう」と言って集まるときに、マーケット自体、サービス自体を創造することよりも、創造されたマーケットにおいて、自社がおいしいポジションを獲得することばかりに力を入れる人たちの醜悪さ。やたらと根回しして、飲みニケーションして、こそこそ耳打ちして、目配せして、言外に微妙なニュアンスをにおわせて。。。。そんなことばかり。自分の分け前を少しでも大きくすることばかりにエネルギーを費やすものだから、肝心のパイがちっとも焼き上がらない。というか、パイの奪い合いばかりにエネルギーを使ってしまって、パイをおいしく、大きくすることに割り当てられるエネルギーがしょぼいもんだから、できあがったサービスは、かけた工数ほどにすばらしいものにはまずならない。
エネルギーを注ぐべきは、具体的な価値の創造であるべきです。具体的な価値とは、実際に多くの人が、具体的なメリットを感じることであり、実際に必要とすることであり、実際に喜んでお金を払って購入したいと思うほどの魅力的な商品やサービスを作り出すことです。
また、同じ記事の注釈で、価値の分配ゲームと日本経済の今後がどのようにかかわっているかについても触れております。
日本経済の将来は暗いの明るいの、財政政策がどーたら、中国やインドに追いつかれるだの、国際競争力がどーたらという議論がありますが、経済にとってもっとも重要なのは、貿易収支でもなければ国際競争力でもなければ、少子化や高齢化ですらありません。経済にとって最も重要なのは、つまるところ「生産性」です。すなわち、単位時間あたりの、価値生産の分量が最終的に経済を決定するのです。共産主義国家がのきなみ没落したのは、価値の創造ではなく、価値の分配ばかりやっていたからです。一時期、中南米の経済が悲惨な状態に陥ったのは、価値の創造をおろそかにして、分配ばかりに力を入れたからです。日本の将来も、結局は、いかにして、国民国家のエネルギーを、不毛な価値の分配ゲームで消耗させずに、みんなのエネルギーを価値創造に向かうような流れに持って行くかにかかっていると思うのです。
結局のところ、不毛な価値分配ゲームを減らし、健全な価値創造が行われるようにし、かつ、貧困を無くすように、国家が自由競争経済という装置をマネージメントする必要がある、というオチになるわけです。
市場原理は、任せっきりにしておけば、自動的に全ての人を幸せにしてくれるほど、インテリジェントな幸せ製造装置なんかではない。このモンスター級の出力を誇るエンジンは、うっかりすると、ほんもののモンスターになってしまうのだ。
たしかに、それは、使い方によっては、強力な幸せ製造装置として、十分に機能しうるが、その装置の運営には、注意深いマネージメントを必要とするというのは、ブラジルの例からも明らかだろう。
金持ちが自由競争や市場原理を擁護するような理屈をこねるとき、この部分でインチキをしていないかどうかを十分に注意しながら聞いた方がいいだろう。
具体的には「生産性を向上させて、より多くの富と自由時間を生み出し、富と自由時間を人々に分配する」というビジョンで国家マネージメントを行います。
このように、労働人口の過半数が、極めて生産性の高い社会では、
人々が必要とする以上の付加価値が生産されてしまうかのように見えるが、実際はそうはならない。
なぜなら、これら、過半数の高能率労働者が生産しているものは、実は、モノでもサービスでもなく、自由時間であり、自由時間こそ、まさに現代の消費者が求めているものだからだ。
高能率労働者たちは、仕事の自動化によって、より多くのモノやサービスを生み出したのではなく、「時間」を生み出したのだ。
人々が、モノやサービスをそれ以上必要としていない社会でさらに生産性を上げようとすると、必然的に、生産性向上によって生み出される余剰価値は、時間の創出に振り向けられる。
かつて、物を長く大切に使う文化だった日本は、
戦後、「消費は美徳」という価値観を作り出すことで、
物やサービスの需要を拡大させ、
高度成長時代を作り上げた。
同様に、これからは、「長時間労働は悪徳」という文化を作り出すことで、
労働供給を縮小させ、単位時間あたりの労働者の給料を上昇させ、
高度余暇時代を作り上げていくわけだ。
もちろん、ここで言うマネージメントとは、計画経済のことではありません。
あくまで、人々が自分の人生を自由に生きる自由市場経済です。
そこでは、競争もあり、弱肉強食もあります。
しかし、
●価値分配競争を抑制し、価値創造競争を促す。
●競争に敗れた場合でも、普通に豊かには暮らしていけるようにする。
●生産力過剰になったら、モノやカネより自由時間を享受することを奨励する文化風土にする*1
という方向へ誘導するように、法を整備し、国家運営する、ということです。
具体的に、誰が、どのような価値を、どちらの方向で創造するか、というようなことは、国は口を出しません。それをやってしまったら、共産主義の計画経済になってしまいますから。
あと、今の日本ですぐにこれが出来る、という話ではなく、そちらの方向へ、少しずつ社会を変えていってみるというのはどうか、という話です。
まとめると、
まずは、国家マネージメントで十分に制御されているが、自由に欲望を解放できる価値創造競争によって、富と自由時間を生み出す。
そして、その富によって、人々が将来も不安なく暮らしていけるような社会保障を充実させる。
もちろん、まったく社会に貢献しない人が増えると、社会に貢献している人との不公平感が生まれ、しかも社会全体の価値創造も落ちてしましますから、そういう弊害が酷くならない程度には、「価値創造せざる者食うべからず」の原理で社会を運営する。
また、より多く価値創造した者に、より多くの富と自由時間を分配するような社会システムにする。
こんな落としどころはどうですか?
*1:誤解が多いので補足しておきますが、たとえば次の記事で、「週休4日制云々」とか「長く働いたら負けの文化を作るべきだ」のくだりがありますよね。http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061231/1167563326 また、以下の記事では、全世界的な労働者連合の圧力団体が生み出されて労働条件が良くなるという部分があります。http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061229/1167383226 http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070210/1171115221これらは、要するに、何を言っているかというと、「生産性の向上は、自由時間を生み出すための必要条件」であって「生産性の向上は、自由時間を生み出すための十分条件」ではないので、生産性が向上したら、その生産性向上の成果を自由時間創出に転換するための、社会制度的、文化的、世界組織的な工夫が必要である、ということなんですよ。つまり、生産性が向上すれば、それだけで、自動的に自由時間が生み出されるわけじゃないので、社会制度と文化システムと世界構造にこんな感じの工夫が必要になってくるんだよ、ってことです。
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