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徽宗皇帝のブログ

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長州の攘夷論から開国(売国)への、英国の走狗としての長州ファイブ
幕末の日本で、下関戦争など攘夷派が優勢であった長州の藩論を開国に転向させ、維新後の明治政府で要職に就き、その後の日本の欧化政策(欧米への見えない属国化・精神的属国化。夏目漱石は「三四郎」の中で作中人物の口を借りて、日本の近代化の将来について「滅びるね」と言わせている。)の道筋を作ったのが長州ファイブだと言える。
私は明治維新肯定派だが、維新の最大の功労者は江戸幕府そのもの、つまり徳川慶喜の大政奉還だ、という考えだ。それによって歴史上稀な無血革命(国体変革)が成立し、日本の幕藩体制と封建体制の悪血と膿が出されて庶民は奴隷階級から「(一応は)四民平等」の近代社会の住人になれたのである。(ただし、江戸幕府の政治体制は「幕藩体制」であり、江戸幕府そのものは革命に抵抗できる武力を持っていなかったと私は見ている。つまり、「大政奉還」は実に合理的な判断であったのだ。)そもそも、大政奉還後もまだ維新組が「倒幕」を叫び、各藩が維新への抵抗をしていたのがおかしいのだ。
幕末の剣豪斎藤弥九郎が彰義隊への参加を要請されての返答が、次のようなもの(大意)だ。これが「大政奉還」の意義なのである。

「あなたたちはひたすら幕府への忠節を考えているといっても、そのために朝廷に弓を引くことができましょうか。大将軍が(治国の)大権をお返しなさったのに、あえて皇軍に反抗するのは天下の許さない乱臣乱賊であり、国家を壊乱させるものです」

しかし、大久保利通暗殺後の長州一極支配の明治政府が長州中心の陸軍の政治への過度の関与となって日本を戦争国家にし、第二次大戦での国難を招いたと私は考えている。いわゆる田布施システムは英米の日本支配の「見えない」部分だろう。

(以下引用)


長州五傑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

長州五傑(ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助山尾庸三伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。

概要[ソースを編集]

駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン (企業家)マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。


この5名はロンドン大学において長州ファイブChoshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。

渡航[ソースを編集]

ヨーロッパへの道のり[ソースを編集]

準備[ソースを編集]

文久3年4月18日1863年6月4日)、井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。4月28日(6月14日)には洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日(6月21日)に江戸に到着した。


5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ね洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーからは船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされる。江戸到着後さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。

 

イギリス留学[ソースを編集]

伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助井上聞多(馨) がイギリスに留学したときには、アレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄留していたという。長州五傑の留学生はウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部へ聴講生の資格で入学した。

 

下関戦争[ソースを編集]

  • 6月18日(7月21日)、イギリス艦に乗り、豊後姫島まで送られる。
  • 6月24日(7月27日)、山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定しているとのことであった。
  • 6月25日(7月28日)、井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴える。伊藤は、攘夷論者を警戒して春山花輔と変名する。
  • 6月26日(7月29日)、藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言する。しかし、藩の趨勢から方針転換は困難という。
  • 6月27日(7月30日)、井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の前で西洋事情を話しても理解されず、西洋文明を説明しても「ホラを吹くにもほどがある」と嘲笑される。攘夷論者からは命を狙われるほどの意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の思いであった。
  • 6月29日(7月31日)、藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に伝えられる。これに対して井上は、「藩政府員が『防長2州が焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは、その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるか?」を藩主に伝えるよう要請した。
  • 7月2日(8月3日)、井上は、藩主よりイギリス軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられる。
  • 7月5日(8月6日)、井上は伊藤と共に姫島のイギリス艦に行き、攻撃猶予を談判するも成らず。
  • 7月21日(8月22日)、井上は、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問する。
  • 8月4日(9月4日)、井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日9月5日)に前田孫右衛門とで小船に乗り、艦隊に向かう。途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃する。8月7日9月7日)には艦隊の兵士2千名が上陸した。
  • 8月8日(9月8日)、井上は講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い、伊藤と共に講和使節としてイギリス艦に行くが、失敗する。藩では征長の軍に対しても応戦しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を指示したものである。
  • 8月9日9月9日)、井上は外国兵による大砲の分補に立ち会う。
  • 8月10日9月10日)、井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが、談判ならず。
  • 8月14日9月14日)、井上は講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、講和条約を締結する。

イギリス海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求したが、「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものではない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁することが出来た。これは高杉の機転によるものであった。一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条実美四条隆謌東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、藩政府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやったことで」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われるのは当然という時期であった。

残った3名のその後[ソースを編集]

遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生(薩摩藩遣英使節団)たちの存在を知り、交遊している。遠藤は慶応2年(1866年)、野村と山尾は明治元年11月19日1869年1月1日)に帰国した[4]


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