忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

鳩山辞任演説を再考する
前の記事に関連して、鳩山辞任演説についての私の過去ログを引用しておく。

≪以下過去記事の引用≫

6.8記載分

「済州島」の意味するもの
「済州島四三事件」について、ウィキペディアから引用。
もしも鳩山総理がこの事件のことを頭に置いて「済州島」という名前を出したのなら、鳩山氏はたんに愚直なだけの人間ではない。特に、引用の最初の部分「自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して」に注意。
済州島は日本そのもの、沖縄そのものの比喩なのである。そしてその結果が「アメリカ陸軍司令部の命令による」白色テロであったことを考えれば、鳩山氏が現在の情勢を「国難」だと言った意図も分かる気がする。


(以下引用)

1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[1]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や右翼青年団を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[1]。
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、米軍の介入と北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。蜂起は朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、および西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出し、数週間に渡って輪姦した後に殺害した[2]。


06/07 (Mon) | 経済・政治・社会 | Trackback(0) | Comment(0)
メモ日記トゥディ「鳩山総理の謎の言葉」10.6.7
鳩山総理の最後の挨拶をもう一度読み返してみると、奇妙な事が二つある。その一つは、ここになぜ「済州島」が出て来たのか。もう一つは、彼がなぜ「この国難ともいえる時」と言ったのかである。
民主党にとってなら、確かにマスコミ総動員の攻撃を受けている受難の時ではあるが、まさかそれだけで「国難」とは言うまい。つまり、ここには本当の国難が背後にあるということだ。それは、おそらくオバマによる脅迫ではないかと思うが、他の可能性も探る必要があるだろう。
もう一つの「済州島」はもっと謎めいている。「済州島」という、韓国領土の名前がなぜここに出てくるのか。
済州島とは、政府と住民が対立した時に韓国政府の白色テロによって住民虐殺が行われた島である。鳩山総理の脳裏では、沖縄と済州島が重ね合わされていたのではないだろうか。そう思って読み返すと、鳩山氏の表立っては口に出せない万感の思いが、この言葉にはこめられているように思われる。


(以下引用)

 一羽のヒヨドリが済州島のホテルに飛んできた。そのヒヨドリは我が家から飛んできたヒヨドリかなと、姿形が同じだからそのように勝手に解釈をして、そうかこの鳥も早く、もうそろそろ自宅に戻ってこいよ、そのことを招いているようにも感じたところだ。雨の日には雨の中を、風の日は風の中を自然に歩けるような、苦しいときには雨天の友、お互いにそのことを理解し合いながら、しかし、その先に国民の皆さんの未来というものをしっかり見つめ合いながら、手を携えてこの国難ともいえる時にぜひ、皆さん耐えながら、そして国民との対話の中で新しい時代をつかみとっていこうではありませんか。

拍手

PR

コメント

コメントを書く