1993年9月13日、米ホワイトハウスでクリントン大統領の仲介でラビン(イスラエル首相)とアラファト(パレスチナ暫定自治政府議長)の間でオスロ合意の調印式が行われた。イスラエルを国家として又パレスチナ自治政府を国家として相互承認することにより、イスラエルは占領した地域から暫定的に撤退し、5年間にわたってパレスチナ自治政府による自治を認める内容であった。
世界は長年続いたイスラエルとパレスチナとの戦争に終止符が打たれたと思い歓迎し、ラビン首相とアラファト議長は翌1994年ノーベル平和賞を授与された。
写真を見ると一人ラビンだけ深刻な顔をしている。
実はラビンはオスロ合意調印式の出席を嫌がり、ペレス外相を送るつもりでしたが、クリントンの強い要請でやむなく出席した。
ラビンは、オスロ合意は双方が交渉の席に着く為のお膳立てでしかなく、あくまで暫定合意であり、イスラエルが5年後までに占領地から撤退するのは今後の交渉次第だから「合意、合意」と騒がれたくなかったのである。
つまりラビンは世界に「イスラエルは5年以内に占領地から撤退しなくてはならない」と認識してもらっては困ると考えていたのである。
しかしラビンはノーベル平和賞をもらったことなどから平和主義者と誤解され暗殺された。
ラビンが心配していた通り、和平交渉は暗礁に乗り上げ、イスラエル人パレスチナ人の民間人同士の小競合いから暴力の応酬となり、かつての通りの戦闘が今日まで続いている。
「1998年9月13日(合意後5年)にはイスラエルが占領地から撤退する」と世界に認識されていた。
約1か月前の1998年8月7日ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が同時に爆破された。クリントンは、犯人はパレスチナ過激派とアルカイダと断定して9人の容疑者を逮捕、そこ後ニューヨーク地裁での裁判は2001年9月12日に決まった。
ところが容疑者の弁護士や証人、証拠物件などを点検し、早朝から翌日(12日)の裁判の準備のための打ち合わせをしていたWTC(世界貿易センタービル)が爆破された。そして犯人はまたもやパレスチナ過激派、アルカイダと断定された。
世界はイスラエルのパレスチナやガザ占領地からの撤退を求めなくなった。
ネタニヤフは極右翼であり、イスラエルの国是はパレスチナの地からパレスチナ人を追い出すことにあると固く信じている。
10月7日のハマスのガザからの対イスラエル大規模攻撃はイスラエルの対ガザ大規模報復を正当化した。
バイデンはブリンケン国務長官やサリバン大統領補佐官をイスラエルに送りネタニヤフにガザ無差別攻撃を止めパレスチナとの和平交渉を求めているがネタニヤフはその気は微塵もない。
イスラエルの国是(パレスチナからパレスチナ人を追い出す)を全うするのみ。
バイデンはクリントンと同様にイスラエル・パレスチナ二国間和平交渉の立場だからネタニヤフとは水と油。
従ってネタニヤフはバイデンの主張に対して聞く耳を持たない。
イスラエル・ハマス戦争を終わらせ悲劇を無くすにはネタニヤフを肉体的又は政治的に消すしかない。
しかしバイデンはネタニヤフに消されるが、ネタニヤフがバイデンに消されることは太陽が西から昇るようなもの。
忘れてはならないことはアメリカが日本の宗主国であるように、イスラエル(ユダヤ資本)はアメリカの宗主国であるという事実。
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