私自身、この「日本死ね」について「国会で野党が政府を追及するネタにしたらいいのではないか」と書いたが、それも実現したようなので、少々驚いている。
まあ、私の発言とのシンクロは偶然だろうが、この「日本死ね」という言葉の強烈な印象のせいでここまでこの発言が多くの人を動かしたのだろう、と、下の文章の筆者も同じ分析をしている。ただし、この筆者はそれを「レトリック」と表現しているが、レトリックという言い方は「意識的な文章操作」を感じさせる言い方に聞こえるのではないか。まあ、無意識的レトリックというものもあるかもしれないが、少なくとも私にはレトリックとは「文章技術」とか「文飾」という言葉を想像させ、この「日本死ね」という「呪詛の言葉」はそういう意識的なものではなく、もう少し本能的な、発作的なものだと思う。だからこそ、その怒りが多くの人の心にザラッとした何かを与え、「これはただごとではない」という印象を残し、ネット世界で広がり、テレビでとりあげられ、果ては国会にまで届いたのではないか。
これが言葉の力であり、今のように言葉が軽く使われ、国会議員が簡単に公約を破り、マスコミもそれを問題にもしない情けない時代(言葉は国の根幹だ、と私は思っている。その言葉を混乱させ無力化させることでゴイムをユダヤの家畜化するというのがユダヤ議定書の指令の一つだ。)に、言葉がこれほど意味を持って論じられたこと自体に、一つの変化を感じる、というのは先走りした結論だろうか。
なお、この「日本死ね」問題の拡散と盛り上がりを、「次期総理を自民党女性代議士にするための布石ではないか」と見た明月飛鳥氏の推理も頭の隅に置いておくべきだと思う。ではどうする、と言えば、もちろん、そうした流れになりそうになったときに反対するためである。安部を総理にしたのと同じ背後勢力が担ぎ上げる次期総理がロクな人間であるはずがないではないか。まあ、安部より悪い総理がいるとは思えない、と思う善良な人も多いかと思うが、小泉以来、そう思い続けて、次々と「最悪の自民党総理」の出現を見てきたではないか。
追記しておくが、(引用1)の筆者は、保育園新設に反対するのは老人だ、と決めつけているが、これは本当なのだろうか。新設予定保育園の近隣に住む人間の中で老人だけが新設に反対するわけはない、と思うのだが。おそらく、説明会などに参加するほど暇のあるのが老人だけだから、老人ばかりが反対している、という印象になるのではないか。
私自身、子供は好きでも、家の隣に保育園ができるとなれば、歓迎したいとは思わない。むしろ、墓場を作る計画に賛成するだろう。丸一日、日中の時間がすべて大勢の幼児の甲高い騒ぎ声と泣き声と保育士の金切り声で満たされるのを歓迎する人はいない。やはり子供は各家庭で、あるいは(私の提案する「個人保育業」に)「分散して」保育するのが一番ではないか。保育園というものを必要とする家庭が多いことは分かるが、だからといって保育園という存在のすべてを認めていい、という議論にはならないだろう。保育園は「日中の時間は周囲の家に人がいない」という前提の場所で作られるべきものだ。要するに、周囲の迷惑が最初から分かっているような事業は間違いなのである。これは公害企業だろうが保育所だろうが基地だろうが同じことである。
(引用1)
「保育園落ちた日本死ね」ネットとテレビで響きあい国会に届いた"絶望"
「保育園落ちた日本死ね」2月15日に登場し二週間で国会へ
日ごろネットで話題を拾っている人なら知らない人はいないだろう。はてな匿名ブログに「保育園落ちた日本死ね」と題した文章がアップされ、またたく間に話題になった。ブログの日付は2月15日となっている。それがあちこちのメディアで取りあげられた末、2月29日の国会で議論の題材になり安倍首相がコメントした。これがさらに話題になったので記事を読んだ人も多いだろう。
「保育園落ちた日本死ね」ブログで激論 安倍首相「匿名である以上確かめようがない」(2月29日産経ニュース)
私はこれを読んだとき、不謹慎な言い方だが”面白い文章だな”と思った。単純に攻撃的と言うより、自虐的な文章でどこかコミカルでさえある。「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。」とはもちろん、現政権が掲げる”一億総活躍社会”から来ていて、もともと奇妙な言葉である”一億総活躍”を茶化しながら、自分の惨めさを自分で嘲笑っているようなところがある。深刻なぼやき漫才のような不思議な魅力を持っている。そしてそこに”せめてこの文章を拡散させたい、自分の悔しさを伝えたい”という策略めいたものも感じた。けっこう広がるだろうなと思っていたら、けっこうどころか驚くほど広がってついに国会にまで到達したというわけだ。”拡散させたい”との思いで書いたのなら、本人の予想をはるかに超えた効果があっただろう。
拡散するプロセスで、ネットで広まった話題がテレビでも取りあげられた。私がはっきり覚えているのは、その週の土曜日、21日の夜TBSの「新・情報7daysニュースキャスター」で3分間程度この話題が出てきたことだ。一週間の出来事をおさらいするこの番組に登場したのは、大きな話題になったということだと受けとめた。
翌週もいくつかの朝のワイドショーが取りあげていた。そして翌々週には国会で議論されているのだが、その話題の連なりはどうなっていたのだろう。テレビでどの番組が取りあげたのか、知りたくなったので、調べてもらった。エムデータという、テレビ番組を記録する会社があるので、「保育園落ちた日本死ね」が登場した番組をリスト化してもらったのだ。その結果をみてもらおう。
TBSが火つけ役、日テレとテレ朝がこってり紹介
2月15日のブログが翌日、翌々日とNHK「NEWS WEB」で取り上げられた。この番組には「つぶやきビッグデータ」というコーナーがあり、その日にtwitterで多くつぶやかれたワードをいくつか紹介している。その中のひとつとして”画面に出てきた”程度のようだ。
2月17日の夜には、「NEWS WEB」とともにTBS「NEWS23」が取りあげた。これは5分40秒とかなり長く、フローレンスの駒崎弘樹氏への取材映像などもあるので、前日から準備したのだろう。ここが最初の”発火点”だとわかった。
その後もTBSは様々の番組で取りあげ、先述の「情報7days」や日曜日の「サンジャポ」「アッコにおまかせ」のような軽めの番組にも話題として登場している。この話題に火をつけた前半の功労者はTBSだと見てよさそうだ。
翌週は朝のワイドショーで一斉に取りあげられた。中でも23日の日テレ「スッキリ!!」26日のテレ朝「モーニングショー」はそれぞれ20分、15分とかなりこってり扱っている。ここでも駒崎氏に取材したり、スタジオで識者が議論したりと、相当のエネルギーを注ぎ時間をかけて番組にした。この2つの番組を通じて、このブログが訴えかけている事柄を知った人も多いだろう。
さらに極め付けは、26日夜の「報道ステーション」で国勢調査で初めて人口が減少したことと併せて10分間扱ったことだ。国会へのルートでいうと、この番組も大きかったにちがいない。
twitterデータと併せて見えてくるテレビとネットの呼応関係
さて今度は、ネット側の盛り上がりがどう推移したのかも気になってくる。そこでTweet数の推移を知ろうと、データセクション社に頼み込んでデータをもらった。「日本死ね」を含むTweet数(10%抽出)を一日ごとに集計したデータから、折れ線グラフを作ってみた。せっかくなので、先ほどの番組リストを局別に色分けして円で描き加えた。円の大きさは厳密ではなく取りあげた分数を大ざっぱに表現している。
Tweet数のグラフで興味深いのは、最初の二日間が異様に高い点だ。ピークの2月17日で"2324"だ。これは10%抽出データなので10倍すればほぼ実数と見ていい。つまり2万3千tweetsということになる。かなりの数だ。かなりの数だが、正直もっと多いかと思っていた。”ネットで沸騰”してもっと高いTweet数になった話題は他にたくさんある。
そしてその後、急速に下降したところを、またいくつか小さな山ができている。それらとテレビ番組で取りあげたことには相関性がありそうだ。とくに翌週、小さいながらもまた二つほど山ができているのは、ワイドショーで長時間取りあげられたことが大きく作用しているにちがいない。ネットで話題になったことを引き継ぎ、鮮度を落とさないようにテレビが保ち続けていたかのようだ。
最後にグラフがまたくいっと上を向いているのは、29日に国会で議論になり、それが翌日ニュースになったことによるものだろう。最後にゴールが決まった、といったところか。
話題を起こした原動力は絶望のチカラ
こうしてプロセスを見ていってもなお、この一件はとてもユニークで不思議さを感じてしまう。名もない母親の書いた文章がこれほど人びとの間で話題になり、多くのテレビ番組で取りあげられ、国会に到達して首相がコメントしたのだ。保育園が政治課題だからではあるが、ちょっとした奇跡のようにも思える。ひとりの女性のやるせない気持ちが言葉になった時、常識を超えた伝わり方をしていったのだ。そんなことが起こるとは。
彼女のやるせなさがそれほど強かったわけだが、独特の言語表現との相乗効果だとも思う。「日本死ね」このレトリックはシンプルだが巧妙だ。第一印象はひどくざらざらして不快でもある。実際、Facebookでこのタイトルを示したら何人かに「保育の話題で”死ね”は使うべきではない」と指摘する人もいた。まっとうな意見だがこの場合、もっと深く見つめてほしいと私は感じた。それに「日本死ね」は実は誰も傷つかないはずだ。人間じゃないのだから。誰かを責めているのではない。攻撃的に見えて攻撃の対象は自分が住む”国”だ。自分自身にも死ねといっているとも受け取れる。つまり表現されているのは”絶望”なのだ。自分もろとも所属する集団すべてが消えてなくなればいい。こんな国は存在する価値があるのか。強烈な絶望を無意識に感じるからこそ引き起こされた”奇跡”ではないか。
私の専門領域はメディア論で、保育の専門家ではまったくない。だが2年前に「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題したブログを書いたことがきっかけで、よく知りもしない保育の取材も続けている。去年からは保育園開設への反対運動を取材している。
それらの記事はそれなりに拡散してけっこうな数の人びとに読まれてきた。反響もあって保育世代の母親や父親からメールをもらったりもする。それは励みになるが、そういう記事がネットでいくら読まれても、保育園に反対している人びとにはまったく届いていないようだ。反対する人びとの多くはお年寄りだからだ。ここは誤解してほしくないが、お年寄りがみんな反対するわけではなく、保育園に賛成したり開設に手を貸すお年寄りも大勢いる。
だが反対する人はほとんどお年寄りで、彼らにネットで書いた記事は届かない。こんなに頑張って取材して頑張って記事を書いて反響もあるのに、いちばん読んでほしい反対派の人びとには届かないのだ。何を書いても何も変わらないように思えて、絶望しそうになる。
「日本死ね」現象から学んだのは、絶望には大きなチカラがあることだった。ネットで生まれた言葉がネットを飛び出して、国会にまで到達したのだ。だったら私はまだ絶望が足りないのかもしれない。そんな風に考えたくなるくらい、あのブログは不思議な現象を引き起こしてくれた。だからこそ、もう少し追ってみたい。もう少し、展開がありそうな気もするし。
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