「世に倦む日々」から転載。
私はこの筆者の「俺、知識人、お前らみなB層」という感じの論じ方が嫌いなのだが、非常に学識があり、頭脳明晰で分析能力や批判能力の高い人物だと尊敬もしている。
そして、下の記事で彼が言う「民主主義の本質的矛盾こそがむしろその長所なのだ」、みたいな見方は、非常に面白い。つまり、「永久運動(永久革命)としての民主主義」である。民主主義の根底には「治められる存在である民衆が、『治める権利』である主権を持つという矛盾」があり、その矛盾を、制度を絶えず検証し改善することで実現する意志があるわけだ。だからこそ彼の心の師である丸山真男は「権利の上に眠る者」、つまり人民の政治的怠惰を厳しく戒めたのである。
(以下引用)編集画面の動作がおかしいので、心ならずも前半(内田樹発言部分)をカット。
内田樹の短絡 – 民主主義とは何なのか、中国はなぜ対策に成功したのか
(前略)
その中で、米中の力関係が崩れて中国が台頭する未来への警戒感が強調されている。マスコミ報道の中で特に目立つのは、左派ないしリベラルに属すると見られる論者たちからの、ほとんど常軌を逸した、ヒステリックな中国憎悪の主張の連打と乱発である。具体的には、4月19日のサンデーモーニングでの寺島実朗の発言、4月26日の同番組での姜尚中の発言、4月25日のTBS報道特集での日下部正樹の発言などが挙げられる。中国を独裁国家と決めつけ、独裁国家である中国のコロナ封じ込めの成功を忌み嫌い、その意義をムキになって否定し、中国の全体主義への悪罵と呪詛を刷り込むという言論である。ネットの中でも、しばき隊左翼を中心にして、同類の反中プロパガンダが執拗かつ獰猛にシャワーされている。第三次世界大戦の破局が危惧される中、この危険で無責任な言論状況は到底黙過できない。
内田樹の民主主義論の問題点を指摘したい。政治学を学んだ者にとって、民主主義に二つの側面があること、すなわち、①制度としての民主主義と ②運動としての民主主義 の二つがあることは自明の理だ。初歩の学問的認識である。この理論は丸山真男によって提供されたもので、戦後民主主義の範疇における基本的で常識の命題と言ってよい。われわれ護憲派の信念でもある。民主主義は、デモスの支配、すなわち支配される者が支配するという逆説を本質的に内包した思想であり、その理念の実現は常に「永久革命」の裡にある。民主化の不断の運動の中で理念を実現するものであり、制度が十全に成立しているからといって決してそこに民主主義が存在するわけではないのだ。丸山真男は、「民主主義は現実には民主化のプロセスとしてのみ存在し、いかなる制度にも完全に吸収されず、逆にこれを制御する運動としてギリシャの古から発展してきたのである」と言っている(『現代政治の思想と行動』旧版 P.574)。
内田樹だけでなく、寺島実郎や姜尚中や日下部正樹だけでなく、中国を独裁国家と規定し、日本を民主主義国家と規定し、そうした平板でステレオタイプな対立概念を無前提に置いて両国を比較する論者は圧倒的に多い。だが、丸山真男のセオリーに立ち返ったとき、それがいかに素朴で杜撰な思考であり、身贔屓な傲慢と無知に基づく固定観念かを思い知ることになるだろう。例えば、言論の自由について見ると、報道の自由度ランキングの指標において日本は66位であり、先進国の中で異常に低い位置にある。この報道の自由度ランキングについては、それを屡々取り上げて日本の劣等を言い上げるのは、内田樹などもっぱら左派の論客である。欧米を前にしたときは、欧米諸国の優位を言い、日本の未熟と後進を言う。それを政権批判の材料にする。だが、中国を前にしたときは、一転して日本は優等で別格だと言い張り、その優越意識を微動だにさせることがない。だが、丸山真男の「運動としての民主主義」の論に即いたとき、真実と実相はどうだろうか。
中国には言論の自由はない。共産党独裁の統制国家である。だが、中国の市民は監視の目をかいぐって微博を駆使し、裏技を精力的に動員してネット空間に言論の自由の隙間を作っている。努力と工夫をする。ITの統制に対してITで対抗する。捕縛され収監される危険を冒して、果敢に当局の不正と腐敗を告発し、権力に対抗する意見発信を試みようとする。プロテストする。その全てを共産党は圧殺することはできない。また、人権侵害に遭った市民を救援しようと挺身する弁護士の不屈の活動もあり、弾圧の中で自由と民主主義の一歩前進を求め、体制と折り合いをつけながら粘り強く闘っている者たちがいる。そこに、中国社会の次の理想と目標が息づいている。経済的豊かさを手中にした彼らが、次に進んで達すべき段階と地平が見えている。緊張感がある。デモも多い。抗議行動が多いから監視カメラが必要で、武力警察の予算が膨らむのだろう。しばき隊学者の定義では「デモ=民主主義」だから、デモの多い中国はデモの少ない日本より民主主義的な国となる理屈になるはずだ。
いずれにせよ、運動としての民主主義という視角から採点したとき、日本と中国の民主主義の内実の評価は、内田樹が粗雑に描くほど単純なものではあるまい。どれほど民主的な法制度が完備・制定されていても、民主主義を担う者の主体性が弱ければ、実質的に独裁政治が機能してしまうのである。そのことは、眼前の安倍政治(安倍一強・官邸独裁)の実態が後世の教科書の記述となり、教訓として語られるに違いない。国会と政党は機能していない。官僚もマスコミも、安倍晋三に奉仕し忖度するロボットと化し、安倍晋三の方を向いてのみ業務している。安倍晋三と米国のために予算を使い、安倍晋三と米国を喜ばせるために職業し、そうすることで、上級国民としての出世と収入を得て満足している。それで国家が完結し、どこからも抵抗らしい抵抗が起きない。事態改善の芽がない。大衆世論は政権を支持している。緊張感がない。3か月経っても、マスコミ(朝日新聞・TBS)はPCR検査がなぜ増えないのかジャーナリズムできない。能力がない。コロナを発症しても下級国民は検査してもらえない。
(後略)
コメント
1. 無題