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徽宗皇帝のブログ

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孔徳秋水氏の「競争が経済を弱くする」論
「バカ国民帝国日本の滅亡」から、珍しい、「経済における『競争』の有害さ」を論じたもので、競争の非人間性、残酷性を論じる人は多い(孔子などもそうだったと思う。)が、競争の有害さを経済面から見た文章は初めて見た。まあ、経済理論としては粗雑な感じはあるが、「一部の利益が全体の不利益になる」という、「合成の誤謬」の観点、鳥瞰的観点からは正しいのではないか。
たとえば、グローバル企業の大儲けは、どの国の国民の利益になっているか。アメリカですらその利益は得ていないだろう。或る土地で得た収益は、基本的にその土地に所得税や法人税を納めるという大原則を作らないと、地球全体が新自由主義によって経済的に滅びる(は大袈裟だが、全ての国の国民の貧困化を来す)だろう。

昔から、田舎の人間は「流れ者は信用できない」という哲学を持っていたものだが、なぜかグローバル企業という「流れ者」にはどこの国もどの国民も好意的だ。
ちなみに、ロスチャイルド一族は国籍を持たず、従って税金もまったく納めていないという話もあるが、真実かどうかは不明である。


(以下引用)



2021-12-13 11:43:46
テーマ:

経済成長には、競争原理が必要である…みたいなことが経済学の常識のようになっている。


 


…が、これは、デマである


 


…というか…


 


「競争すれば、なんでもよい」というわけではない。


 


 


「競争原理」について正しく知り、それがなにゆえ「よいもの」となりえるのかということを


 


正確に、詳細に知り、正しく現状に応用しなくてはならない…


 


…ということである。


 


 


昨今の言論がそうであるように、


 


上っ面だけの知識で、極論、妄論に走って自己満足し、


 


さらには、それを「正義」としてふりかざしてしたがわせようとする…


 


そのことが、すべての「過ち」のもととなる。


 


 


とくに、欧米白人のご都合主義、短絡思考主義による経済運営により、


 


「世界の危機」は、ますます混迷を深めるばかりである。


 


 


IT企業が「環境によい」ことになっているが、


 


これこそデマの最たるものであろう。


 


 


いわゆる傲慢白人どもが「未開」と差別している人々の生活にケータイなどを売りつけて、


 


その生活や文化を「欧米化」させたことで、CO2排出量も増えたのである。


 


 


乱開発は、自然を破壊し、そこで生活している人々の生活も破壊し、「市場経済」に組み込まれていく。


 


傲慢白人式の「文明生活」は、モノもエネルギーも大量に消費しなくてはならない。


 


 


だから、「脱炭素」というのであれば、その前に…


 


経済のグローバル化を止めることであり、市場を縮小すべきであり、デジタル化も止めることである。


 


 


衛星からみて、人手が入って地表の姿が変わってしまっているところは、


 


ほぼすべて「市場」に組み込まれた地域なのだから。


 


 


もしも、続けながらというのであれば、経済学自体を刷新する必要があり、


 


欧米経済学はスクラップしてしまう必要があるだろう。


 


 


…で?その先に?…共産主義がやってくる?…


 


それも、なんだかな~


 


 



 


 


イオングループの岡田会長は、植樹、植林事業に関わり、中国の禿山を緑化したりしてきたが、


 


他の日本企業も、似たような環境保全事業に力を入れているところは、いくつもあるという。


 


 


「環境保全」というのであれば、このように生物環境を整える方向の事業こそやるべきで、


 


「脱炭素」などというのは、誤魔化しでしかないのである。


 


 


「山づくり」、「海作り」、「森づくり」、「土づくり」…そして、「町づくり」とならねばならない。


 


すると、農林水産省がもっとがんばるべきで、いじめているのは大間違いということになる。


 


 


環境省にいたっては、ここはいったい何の役に立っているのか、みたいなところである。


 


ゴミの分別で、却ってプラスチックを散乱させ、環境破壊に貢献してきたのではないのか?


 


 


ともあれ、このように時代の転換点を迎えたときというのは、いつもよりも、さらに…


 


これまでの常識を疑うということをやらねばならない。


 


 


思い込みと決めつけで、わーわーバカ騒ぎして、


 


「世の中が変わる」などと夢想しているような態度は、最もいけない。


 


 


10年前は、マスゴミがわーわーバカ騒ぎしていたのを、ネットが疑っていた。


 


「消費税は税の公平化」「国債は国民の借金」「関税撤廃でパイが増える」…


 


こうしたデマの多くが粉砕されてきた。


 


 


しかし、ここ数年、ネットまでマスゴミ化して、デマと扇動にうつつを抜かしている。


 


 


ネットの使命は、デマの一つ一つを潰すところにあり、自分でデマを撒いてちゃダメである。


 


別に、仮説はいくら述べてもいいが、「疑うこと」をやめてはいけない。


 


「思い込みと決めつけ」、これに単純短絡思考が加わって、その言論は「死」を迎える。


 


 


いやいや、令和に変わる3年前に、日本はすでに死んでいると当ブログは宣告済みだったけどね。


 


 


それでも、丹念にやっていこう。


 


当ブログの初期より、経済における問題として…


 


① 供給の過剰、② 競争の過剰、③ 真に必要なものの絶対的不足


 


…について指摘してきた。


 


 


供給が過剰になれば商品の単価は下がる。ゆえに、労働生産性も下がる。


 


たとえば、農業では輸入が多く、国内産の価格が下落し、農業の労働生産性が下がる。


 


結局、農家は潰れて、外国産に供給を頼るようになる。


 


有り余った米国の農産品を輸入するため、日本のコメなどの価格は下がり、需要も減った。


 


中国から安い農産物を輸入する際にも、同じメカニズムがはたらく。


 


 


結局、グローバル展開企業は利益を上げ、過剰競争に追い込まれた生産者が損をする。


 


つまり、労働者の賃金も減るわけである。


 


 


先進国の中産階級は、こうして没落していった。


 


 


たとえば、農業がわかりやすいから追加で説明するが、


 


農産業の生産効率が2倍になったとしよう。


 


しかし、外交交渉で輸入量が倍になれば、労働生産性は上がらない。


 


いくら現場が頑張ったところで、政府が外圧に負ければ、すべてがパーなのだ。


 


 


供給の過剰は、競争の過剰を招き、現場を疲弊させる。


 


「自由競争」も、「やればよい」というものではない。


 


 


「自由競争」というのは、柔道で言う「無差別級」である。


 


通常、公平な競争というのは、体重別にするなど、ランク分けをするものである。


 


 


日本の農業のランクは、米国の農業と比べてどうなのか?


 


同じランクで戦ってよい相手ではないのではないのか?


 


 


 


そもそも「競争」においては、「勝者」と「敗者」が生まれるものである。


 


そのときに、「勝者」が総取りになって、「敗者」は、タダ働きになってしまう。


 


すると、相互に競争している業界全体では、労働生産性が向上しない


 


 


ノーベル賞だのなんだのといって、特許権などを求めて研究開発も「競争」であるが…


 


そのせいで、


 


「自分でなくてもいずれだれかがやり遂げる」ような研究に頭脳が浪費される。


 


 


こういうことをやりすぎれば、学術研究に幅がなくなり、偏向してしまう。


 


競争には「敗者」がつきものだから、タダ働きになる研究開発も増えてしまう。


 


 


こうしてみると、


 


何を、どのように、どこまで「競争」するか、させるべきかが大事だとわかるだろう。


 


しかしながら、マスゴミもゴミブロガーも、「競争、競争」と連呼して踊っているだけである。


 


 


いつのまにか「競争原理」も宗教と化し、時代のスローガンと化している。


 


また、そういうものを「わたしは神様を信じない」などと言ってる連中が熱心に信仰するのだ。


 


 


実に、バカげている。


 


 


どこの「競争」は、もうやめにして、どこの「競争」に力を入れていくか…


 


そうしたことを、しっかりと考えていく必要がある。


 


 


薄っぺらな知識をひけらかすコピペ・ブロガーなどに関わっているようでは、人生のムダであろう。


 


 




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