忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

内田樹の「成田半擁護、半批判」のヌエ的小論
例の成田祐輔の「高齢者は自決しろ」発言に対して、内田樹が短く評論しているが、その内容が私には「気持ち悪く」感じられたので、少し分析してみる。
気持ち悪いというのは、論文としてインチキ、誤魔化しがあるように感じたということだが、問題は、どこがそう思えるのかだ。
先に、その小論を載せておくので、どこがどうおかしいのか、お考えいただきたい。

(以下引用)



 高齢者の集団自決が高齢化対策の秘策であると公言した若い経済学者の発言が話題を呼んでいる。
 彼の言う「人間は引き際が重要だと思う」ということにも「過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤーで多すぎる」という事実の摘示にも私は同意する。でも、使えないやつは有害無益だから、集団から追い出すべきだという論には同意しない。人道的な立場からというよりは組織人としての経験に基づいてそう思うのである。
 組織に寄生して、何も価値を生み出さず、むしろ新しい活動の妨害をする「フリーライダー」はどのような集団にも一定数含まれる。この「無駄飯食い」の比率を下げることはたしかに集団のパフォーマンスを向上させることにある程度までは役立つだろう。ただし、「ある程度」までである。というのは「無駄飯食いの排除」作業に割く手間暇がある限度を超えると、その作業自体が集団のパフォーマンスを著しく低下させるからである。
 組織を率いた経験がある人なら誰でもフリーライダーを一掃する秘策が存在しないことを知っている。そんな暇があったら、組織を活性化し、新しい価値を創出してくれる「オーバーアチーバー」を一人でも増やし、彼らが愉快に働ける環境を整備する方がはるかに費用対効果がよいということも知っている。
 それに、若い方たちはご存じないだろうけれど、あらゆるパニック映画は「強者だけのグループを作って、自分たちだけ助かろうとする人たち」と「子どもや老人を一人も取り残さないために無理をする人たち」が対比されて、「自分たちだけが助かろうとする人たち」がまず死ぬという話型を繰り返している。「集団の中で最も弱いものをも取り残さず救える仕組みを作る」ためにどうすればいいのかについて深く思量することは(たとえそれが実現できなくとも)、集団を生き延びさせる上では有用だということを人類は早い段階で学んだのである。(2023年1月16日、)


(以上引用)

まあ、深く考えるまでもなく、高齢者問題を「組織論」で論じているのが完全にインチキなのだが、それに気づかない人も多いかと思う。それは、最初に

「人道的な立場からというよりは組織人としての経験に基づいてそう思うのである。」

と宣言しているからではないか。これを読んで、「ああ、内田氏は、感情論ではなく、『論理的に』論じているのだな」という印象を読者は持つのではないか。
ところで、高齢者問題をなぜ「人道的な立場から」彼は論じないのか。「人道的立場」は顧慮するに値しないという、社会的合意、あるいは論壇的合意があるのだろうか。
「高齢者を殺せ(自決させろ)」という発言が問題なのは、何よりそれがあまりに非人道的発言だから、というのは誰でも最初に感じるのではないか。まあ、誰でも思うようなことは今さら言うまでもない、という「マスコミ受け」本位の考え方もあるとは思う。
次の問題は、最初に書いたように、高齢者問題と組織論はまったく無関係だということだ。組織論で成り立つことが、なぜ高齢者問題で成り立つと思うのか。高齢者は「組織」などされていない。社会は組織でもない。もしも、高齢者は「国家という組織」の一部だと言うなら、それこそ「高齢者を殺せ(自決しろ)」は、嵐のような大問題になるだろう。社会は組織でないからこそ、成田の失言程度で話が治まっているのであり、老人問題(高齢者殺処分思想)を組織論、国家論として論じるなら、それこそ「世界人口を9割減らせ」という、キチガイ思想につながる話である。
あるいは、こうした人道的問題を「組織論」で論じるならイスラエルという「組織(か?)」にとってパレスチナは有害な存在だから全員殺して完全に除去しろ、という話にもなる。
ついでに、内田樹が偉そうに「組織論」を論じる資格があるのか、彼の経歴を調べてみる。


内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本フランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段[1])、翻訳家思想家[2]エッセイスト、元学生運動家[3]神戸女学院大学名誉教授。学位は修士旧東京都立大学1980年フランス文学専攻)。専門はフランス現代思想[4]立憲民主党パートナー[5]東京大学文学部卒業。旧東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。


高校を中退したが、大学入学資格検定を経て東大に入学、文学部仏文科卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。フランス現代思想を専門とし、大学で教鞭を執る。



要するに、大学教員として大学という「組織」を知っているだけである。つまり、

 組織に寄生して、何も価値を生み出さず、むしろ新しい活動の妨害をする「フリーライダー」はどのような集団にも一定数含まれる。

という、内田発言は、大学教員の中には「フリーライダー」がいて、自分はそうではない、というわけであるwww さて、この発言は大学の中でどういう嵐を巻き起こすだろうか。

さらに言えば、この内田の小論全体が人間を「有用性」で価値づけしている。

「集団の中で最も弱いものをも取り残さず救える仕組みを作る」ためにどうすればいいのかについて深く思量することは(たとえそれが実現できなくとも)、集団を生き延びさせる上では有用だということを人類は早い段階で学んだのである。

末尾のこの言葉は、「一見無用なものも、有用性がある可能性があるから残せ」ということであり、裏を返せば、有用なものは生かしていいが、有用性の無いものは除去すべきだという、実に資本主義的思想である。かつての学生運動家の見事な転身だwww まあ、社会に余裕があれば生かすし、無ければ殺すという、リアリズムの立場とも言える。だが、現代文明はそういう、「姥捨て山」思想が必然性を持つ文明でもないはずだ。高齢者抹殺論は、社会の一部の人間がより多くのカネを得るために、「不要人口を減らす」だけではないか。




拍手

PR

コメント

コメントを書く