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徽宗皇帝のブログ

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革命者キリスト(3)
第三章 当時の社会状況
 
イエスが生まれたのは紀元前4年(紀元前7年という説もある)だと言われている。ADとは「キリスト紀元」、キリスト誕生を紀元とすることだから「イエスはイエス・キリストが生まれる4年前(BC4年)に生まれた」ことになる。では、この両者は別人か? もちろん、同一人物である。後世の歴史家の計算間違いで、こういうナンセンスが生じただけのことだ。歴史的「事実」など、その程度のものである。
その当時、ユダヤ民族は地中海と死海の間にある狭い土地に生息していて、他の周辺民族と同様にローマの支配を受けていた。手元に資料が無いのだが、シーザーの養子で、アントニウス・クレオパトラ連合軍を破ってローマの支配者になったオクタビアヌスの頃かと思われる。ユダヤの王がヘロデ、ローマから派遣されたユダヤ総督がピラトである。このあたりは、キリスト教映画などでの有名人物だ。
当時のユダヤ教は大きく分けて三つに分かれる。
まず、サドカイ派。これはユダヤ教の支配層であり、宗教的特権階級である。貴族や大土地所有者が多く、ローマに対しては妥協的態度を取っていた。(このあたりの記述は小坂井澄『キリスト教2000年の謎』を参考にしている。)
次に、パリサイ派(ファリサイ派)。学究派と言っていい。ユダヤ教を学問的に研究する姿勢に偏向していたため、イエスの批判は主としてこのグループに向けられた。つまり、「口では信仰を言うが、信仰を実践しない偽善者」というのが新約聖書での「パリサイ人」の定義である。ただし、小坂井氏の指摘にもある通り、イエスを殺させたのはパリサイ派ではなく、サドカイ派である。つまり、イエスはその革命的宗教思想の故に保守思想の一派に憎まれ殺されたのであった。イエスの思想自体にはパリサイ派との共通性も多い。
そして、エッセネ派。内面的信仰を重視する一派で、清貧と禁欲性をその特徴とする。イエスはおそらくこのエッセネ派の一人と見ていいだろう。ただし、気質的にエッセネ派であるというだけで、その集団に帰属していたということではない。前世紀中盤に発見された「死海文書」は初期のキリスト教徒迫害を逃れて隠れ住んだ、エッセネ派の残した文書と思われる。とすれば、それは福音書よりも本来のキリスト教の思想に近いものである可能性が高い。(この「死海文書」はバチカンによって秘匿され続けている。)

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