第五章 ユダヤ教の起源
ユダヤ人、あるいはイスラエルの民、あるいはヘブライ人は紀元前2000年頃に現在のイスラエル地方、つまり聖地エルサレムのあるあたりに移住してきた民族である。
紀元前1700年ごろから1300年ごろまで、ユダヤ民族はエジプトに定住し、そこの二級市民もしくは奴隷階級となる。なぜ、わざわざ他国の奴隷になるために移住したのかは不明だが、おそらく旱魃などの大きな自然災害があったのだろう。旧約聖書の記述によれば、ユダヤ人のヨセフという男が様々な苦難の果てにエジプトの宰相となり、その縁で彼の元の家族をエジプトに呼んだということになっている。つまり、最初から奴隷であったわけでもないようだ。だが、最初は70人程度だったユダヤ人たちが、本来のエジプト人たちを圧倒するほどに数が増えたので、エジプトのファラオ(王)がそれを怖れて彼らを奴隷の境遇に落としたと書かれている。
さらに、ファラオ(またはパロ)は、ユダヤ人が出産する時には、それが男の子なら殺せと産婆に命ずるが、産婆たちの中には、それを守らない者もいた。そうして命を救われた男の子の一人がモーゼである。彼は偶然にもパロの娘に育てられることになるが、やがて自分がユダヤ人であることを知って、自分の民族をこのエジプトでの奴隷的境遇から救い出すことを決意する。これが、旧約聖書出エジプト記の大筋である。
さて、ここで面白いのは、モーゼと「十戒」の話である。
モーゼがユダヤの民を率いて、シナイ山の麓まで来た時、ユダヤの民は長旅に疲れ、不満が溜まっていた。その状況を察知したモーゼは、一人でシナイ山に登り、「十戒」とその他の神の掟を持ち帰るのである。
言うまでもなく、それらの掟はモーゼの創作である。(これは聖書研究家にとっては常識だろう。)その掟の具体性といったら、割礼から家畜の取り扱いに至る細々としたものであり、神様が、そんなに具体的に指示などするわけもない。その例は次のようなものだ。
ユダヤ教の食事のタブーは一部の人には知られているが、たとえば、兎、豚は穢れたものなので、食ってもいけないし、死骸に触ってもいけない。水に棲む動物でヒレや鱗の無いものは食っても触れてもいけない。したがって、鰻、蟹、エビ、イカ、タコの類は駄目。昆虫では蝗などは食っていいが、その他の昆虫は駄目、などなど。食物以外のその他の細かな規則は、これもモーゼがエホバから直接に聞いたという体裁で申命記に出ている。
モーゼは、神と直接に語れるということを口実としてユダヤ民族の指導者として君臨してきたのである。その率いてきた集団の秩序が崩壊しようとしたから、彼は「神の掟」を創作する必要性を感じ、シナイ山に登ったわけだ。その時、モーゼに反抗的だった連中3000人が後にモーゼによって殺されているが、その反抗グループのリーダー格であったアロンは、なぜか咎めを受けていない。このあたりには明らかに「政治的取り引き」がある。(「民数紀略」第二十章には、ずいぶん経って後にアロンがモーゼに山で殺されたのではないかと疑われる記述がある。モーゼが山に登ると、ろくなことはない。)また、「汝殺す無かれ」という戒めは、モーゼの殺人に見られる通り、「神への反抗ならたとえ同胞であっても殺してよい」という保留によって、「実用的」なものになっている。たとえば、安息日に薪1本だかを拾った男の処置をどうするか、ということで長老たちの判断がつかなかった時、モーゼは「神に問い尋ねて」、男を石で打ち殺せ、という決定を下している。石で打ち殺すとは、皆で石を投げて、殺すという処刑方法だ。これは、たとえ薪1本でも、「神の定めた掟」を破ったから、死刑相当なのである。「神の定めた掟」の持つ厳しさが分かるだろう。そして、掟を破ることが神への反抗と見なされることで、集団の秩序が維持しやすくなったのも当然である。
アロンの場合には重罪でも許し(神への反抗という点では、アロンの罪も重罪である)、政治的な重要性の無い相手の場合には死刑にする、というのは法の実施におけるダブルスタンダードだが、このことは、この宗教規則があくまでも集団の規制のための規則であり、実は神への信仰とは無関係なものであったことを示していると言えるだろう。すなわち、法や掟は、「人間が人間を支配するために」作られたものであり、宗教(神という存在)はそれに利用されたということである。
モーゼは旅の途中で死ぬが、その後のユダヤの指導者ヨシュアは、カナンの地の先住部族を次から次へと皆殺しにし、その土地を奪ってユダヤ人のものとする。これが神の「約束の地」である。約束の地なら、神が平和的にユダヤ人のために取っておけば良さそうなものだが、他部族を殲滅して奪ったものでも、神が彼らに約束したのなら、その略奪行為は許されるという理屈らしい。ついでながら、カナンの地の近くまで来た時点でのイスラエル(ユダヤ)の民はおよそ60万人である。これだけの数の人間が大移動をしたのは、それだけでも確かに奇跡的ではあるが、食料などを持ってエジプトを出たはずはないから、当然ながらその間に無数の略奪行為があったに決まっている。書かれざる歴史だ。
引用するのも面倒だが、他部族に対する戦い方、あるいは略奪の指令の一例を挙げよう。民数紀略第三十一章
「モーゼすなわち彼らに言いけるは、『汝らは婦女どもをことごとく生かしおきしや。見よ、是らの者はバラムの謀計によりイスラエルの人々をしてベオルの事においてエホバに罪を犯さしめ、遂にエホバの会衆の中に疫病おこるに至らしめたり。されば、この子等のうちの男の子をことごとく殺し、また男と寝て男知れる女をことごとく殺せ。ただし、未だ男と寝て男知れる事あらざる女の子はこれを汝らのために生かしおくべし。云々』」
ついでに、その略奪品の例
「その略取物すなわち軍人たちが奪い獲たる物の残余(神への供物の残余)は羊67万5000、牛7万2000、驢馬6万1000、人3万2000、是未だ男と寝て男知れる事あらざる女なり。」
その処分は、神への供物にそれぞれの50分の1を取った後、戦に出た者に略奪品の半分を与え、残りを戦に出なかった者で分けるというような感じである。
エリコ(ジェリコ)の戦いの前に、エホバがモーゼに言った(とされている)言葉。
「汝らヨルダンを渡りてカナンの地に入る時は、その地に住める民をことごとく汝らの前より追い払い、その石の像(すなわち、彼らの信仰する偶像)をことごとく壊し、……その地の民を追い払って其処に住むべし。……されど汝らもしその地に住める民を汝らの前より追い払わずば、汝が残し置くところの者、……汝らを悩まさん。且つまた我は彼らに為さんと思いし事を汝らに為さん。」
つまり、敵を殲滅せよ。そうしないと、神がお前たちを殲滅するぞ、ということをモーゼは彼の率いる民に神の言葉として言ったわけだ。
ユダヤ教の基本部分は、こうしてエジプト脱出とその後の40年以上もの放浪の間に作られたと推定できるが、もちろん、その大半は、ユダヤの民族宗教を元にしてモーゼが「神の掟」を追加したものだ。つまり、宗教の伝説的部分は伝承を利用し、規則部分はモーゼの創作というわけである。
ユダヤ人、あるいはイスラエルの民、あるいはヘブライ人は紀元前2000年頃に現在のイスラエル地方、つまり聖地エルサレムのあるあたりに移住してきた民族である。
紀元前1700年ごろから1300年ごろまで、ユダヤ民族はエジプトに定住し、そこの二級市民もしくは奴隷階級となる。なぜ、わざわざ他国の奴隷になるために移住したのかは不明だが、おそらく旱魃などの大きな自然災害があったのだろう。旧約聖書の記述によれば、ユダヤ人のヨセフという男が様々な苦難の果てにエジプトの宰相となり、その縁で彼の元の家族をエジプトに呼んだということになっている。つまり、最初から奴隷であったわけでもないようだ。だが、最初は70人程度だったユダヤ人たちが、本来のエジプト人たちを圧倒するほどに数が増えたので、エジプトのファラオ(王)がそれを怖れて彼らを奴隷の境遇に落としたと書かれている。
さらに、ファラオ(またはパロ)は、ユダヤ人が出産する時には、それが男の子なら殺せと産婆に命ずるが、産婆たちの中には、それを守らない者もいた。そうして命を救われた男の子の一人がモーゼである。彼は偶然にもパロの娘に育てられることになるが、やがて自分がユダヤ人であることを知って、自分の民族をこのエジプトでの奴隷的境遇から救い出すことを決意する。これが、旧約聖書出エジプト記の大筋である。
さて、ここで面白いのは、モーゼと「十戒」の話である。
モーゼがユダヤの民を率いて、シナイ山の麓まで来た時、ユダヤの民は長旅に疲れ、不満が溜まっていた。その状況を察知したモーゼは、一人でシナイ山に登り、「十戒」とその他の神の掟を持ち帰るのである。
言うまでもなく、それらの掟はモーゼの創作である。(これは聖書研究家にとっては常識だろう。)その掟の具体性といったら、割礼から家畜の取り扱いに至る細々としたものであり、神様が、そんなに具体的に指示などするわけもない。その例は次のようなものだ。
ユダヤ教の食事のタブーは一部の人には知られているが、たとえば、兎、豚は穢れたものなので、食ってもいけないし、死骸に触ってもいけない。水に棲む動物でヒレや鱗の無いものは食っても触れてもいけない。したがって、鰻、蟹、エビ、イカ、タコの類は駄目。昆虫では蝗などは食っていいが、その他の昆虫は駄目、などなど。食物以外のその他の細かな規則は、これもモーゼがエホバから直接に聞いたという体裁で申命記に出ている。
モーゼは、神と直接に語れるということを口実としてユダヤ民族の指導者として君臨してきたのである。その率いてきた集団の秩序が崩壊しようとしたから、彼は「神の掟」を創作する必要性を感じ、シナイ山に登ったわけだ。その時、モーゼに反抗的だった連中3000人が後にモーゼによって殺されているが、その反抗グループのリーダー格であったアロンは、なぜか咎めを受けていない。このあたりには明らかに「政治的取り引き」がある。(「民数紀略」第二十章には、ずいぶん経って後にアロンがモーゼに山で殺されたのではないかと疑われる記述がある。モーゼが山に登ると、ろくなことはない。)また、「汝殺す無かれ」という戒めは、モーゼの殺人に見られる通り、「神への反抗ならたとえ同胞であっても殺してよい」という保留によって、「実用的」なものになっている。たとえば、安息日に薪1本だかを拾った男の処置をどうするか、ということで長老たちの判断がつかなかった時、モーゼは「神に問い尋ねて」、男を石で打ち殺せ、という決定を下している。石で打ち殺すとは、皆で石を投げて、殺すという処刑方法だ。これは、たとえ薪1本でも、「神の定めた掟」を破ったから、死刑相当なのである。「神の定めた掟」の持つ厳しさが分かるだろう。そして、掟を破ることが神への反抗と見なされることで、集団の秩序が維持しやすくなったのも当然である。
アロンの場合には重罪でも許し(神への反抗という点では、アロンの罪も重罪である)、政治的な重要性の無い相手の場合には死刑にする、というのは法の実施におけるダブルスタンダードだが、このことは、この宗教規則があくまでも集団の規制のための規則であり、実は神への信仰とは無関係なものであったことを示していると言えるだろう。すなわち、法や掟は、「人間が人間を支配するために」作られたものであり、宗教(神という存在)はそれに利用されたということである。
モーゼは旅の途中で死ぬが、その後のユダヤの指導者ヨシュアは、カナンの地の先住部族を次から次へと皆殺しにし、その土地を奪ってユダヤ人のものとする。これが神の「約束の地」である。約束の地なら、神が平和的にユダヤ人のために取っておけば良さそうなものだが、他部族を殲滅して奪ったものでも、神が彼らに約束したのなら、その略奪行為は許されるという理屈らしい。ついでながら、カナンの地の近くまで来た時点でのイスラエル(ユダヤ)の民はおよそ60万人である。これだけの数の人間が大移動をしたのは、それだけでも確かに奇跡的ではあるが、食料などを持ってエジプトを出たはずはないから、当然ながらその間に無数の略奪行為があったに決まっている。書かれざる歴史だ。
引用するのも面倒だが、他部族に対する戦い方、あるいは略奪の指令の一例を挙げよう。民数紀略第三十一章
「モーゼすなわち彼らに言いけるは、『汝らは婦女どもをことごとく生かしおきしや。見よ、是らの者はバラムの謀計によりイスラエルの人々をしてベオルの事においてエホバに罪を犯さしめ、遂にエホバの会衆の中に疫病おこるに至らしめたり。されば、この子等のうちの男の子をことごとく殺し、また男と寝て男知れる女をことごとく殺せ。ただし、未だ男と寝て男知れる事あらざる女の子はこれを汝らのために生かしおくべし。云々』」
ついでに、その略奪品の例
「その略取物すなわち軍人たちが奪い獲たる物の残余(神への供物の残余)は羊67万5000、牛7万2000、驢馬6万1000、人3万2000、是未だ男と寝て男知れる事あらざる女なり。」
その処分は、神への供物にそれぞれの50分の1を取った後、戦に出た者に略奪品の半分を与え、残りを戦に出なかった者で分けるというような感じである。
エリコ(ジェリコ)の戦いの前に、エホバがモーゼに言った(とされている)言葉。
「汝らヨルダンを渡りてカナンの地に入る時は、その地に住める民をことごとく汝らの前より追い払い、その石の像(すなわち、彼らの信仰する偶像)をことごとく壊し、……その地の民を追い払って其処に住むべし。……されど汝らもしその地に住める民を汝らの前より追い払わずば、汝が残し置くところの者、……汝らを悩まさん。且つまた我は彼らに為さんと思いし事を汝らに為さん。」
つまり、敵を殲滅せよ。そうしないと、神がお前たちを殲滅するぞ、ということをモーゼは彼の率いる民に神の言葉として言ったわけだ。
ユダヤ教の基本部分は、こうしてエジプト脱出とその後の40年以上もの放浪の間に作られたと推定できるが、もちろん、その大半は、ユダヤの民族宗教を元にしてモーゼが「神の掟」を追加したものだ。つまり、宗教の伝説的部分は伝承を利用し、規則部分はモーゼの創作というわけである。
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