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過去の思索の断片を備忘のために書いておく。一種のアフォリズムとしても読める。
・警察官には一瞬で物事の状態を見て取る素早く鋭い観察眼が要求されると同時に、彼らはそれを報告するためにあらゆる物の名前を知らねばならない。ということは、彼らの受けている訓練は、優れた作家になる訓練にもなるはずだが、警察官から優れた作家が出たことはほとんど無い。作家になるほどの繊細さや自己省察癖を持った人間は、警察官のような仕事を目ざすことは最初からほとんど無いということだ。
・高速道路の渋滞の時に、禁じられている路肩走行をして行く車のほとんどは3ナンバーの車だという。この事実が教えているのは、3ナンバーの車に乗るほどの人間は、法律というものは庶民にしか適用されないこと、法律を破っても処罰を逃れる方法があることを知っている人間だということである。
・日本がアメリカの属国であるという事実の前に、どのような改革がありえようか。すべてがアメリカから指示されている以上、日本国民や政治家に何ができようか。
・女流歌人の一般的特徴
①ナルシシズム
②セクシュアリティ
すなわち、自分が女であることへのこだわり。(あるいは、そのこだわりは、彼女たちが自分たちへの需要を察知して戦略的に自ら選び取ったものかもしれない。)
読む側から言えば、単なるナルシシズムにすぎないものを「女性的なるもの」一般の賛歌にすりかえることが多く、男性読者をヘキエキさせることが多い。
もちろん、ナルシシズムは自己保存に必要な動物的本能であり、必要不可欠なものではある。しかし、それと、「自分が好き」と臆面もなく表明することとは話が別。
・子供は躁病的であり、老人は鬱病的である。(なだ・いなだ「くるい・きちがい考」より)
・我々は世界について学ぶのに20年から30年、長ければ50年以上もかかり、学び終わる頃には、その知識は時代遅れになる。
「葉はあまたあれど根はひとつ。なべて我が偽り満ちし若き頃、
葉と花を我、日に揺すりぬ。今ぞ我、真実のうちに萎れ行かむ。」
(W.B.イエイツ「時とともに知恵は来る」西条八十訳をうろ覚えで書いたもの。転載するなら、自分で確認してからにすること)PR -
現代人は時間に追われる生活をしているために、休日でもゆったりとした気持ちで過ごすことができない。映画をDVDやビデオで見るにしても、2時間も同じ映画につきあっているという状態に耐え切れないのである。少なくとも、私はそうだ。そうした生活や心理状態の人間が多いから、断片的な情報を中心としたブログやツィッターがメディアの主流となってきたのだろう。いわば「表層的生活」が人間性の内奥まで支配するようになってきたわけだ。これは、知的活動が読書中心であったかつての時代にくらべて、人間性が表層的になってきたということだ。つまり、現代の我々は「情報検索人間」であり、「思考人間」ではないということである。その情報も、ちょっとした気晴らし程度か、ちょっと得する(だろう)という情報にすぎない。
ある意味では、読書も勉強も情報入手の作業ではあるが、しかし、いくら情報を手に入れても、それを自分の頭で考えないと、その情報は自分のものにはならないのである。
いい映画をじっくりと見たり、長大な世界文学を咀嚼し考えながら読んで楽しい時間を過ごした、そういう時代にはもはや戻れないのだろうか。 -
#284 「すさび」と「すき」
日本の古語には、語源的に見ると面白い言葉が多いが、「すさび」と「すき」もそうである。もともと、日本人は「侘しさ」を肯定的な「わび」とするような芸術感覚を持っているが、この二語もそうかもしれない。つまり、「遊び」を意味する「すさび」は、もともとは「荒れる」意味の「すさび」であり、風流を好む意味の「すき」は、当て字の「数寄」はともかく、もともとは「隙間」を意味する「すき」でもあったのではないだろうか。
「荒れる」ことも、「隙間」も、本来は好ましくない事柄のはずである。だが、本当にそうだろうか。埴谷雄高に「自同律の不快」という言葉がある。つまり、物事が、それ以外ではありえないという事実自体が不快だという感覚だ。これは、言葉を変えれば、「合理性の不快」でもあるだろう。我々は、合理性に従わないかぎりこの世に生きていけない。そのこと自体が、我々の自由への束縛に感じられるのである。我々がナンセンスのユーモアを好むのも、そのためだろう。そうした合理性、あるいは日常の論理への反逆が、「すさび」つまり「遊び」である。遊ぶことで、当然ながら日常は荒廃する。だから、「すさび」は「荒れる」ことでもあるのだ。「すき」も同様であり、緊密な日常性の中の隙間が「すき」という風流事なのである。「すき」とは、日常性に隙間を作ることなのである。
「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言った芭蕉は、そのような風雅の意味を熟知していた。だから、俳諧者とは世間の余計者であるという覚悟のもとで生きていたのである。生産と消費という経済学的観点からは許容されないであろう余計者が、芸術家というものであったのだ。もっとも、日本人はまた、「遊びをせんとや生まれけん」という遊びの哲学を持っていた、素晴らしい民族でもあったのだが。 -
#283 書くことと生きること
人が物語を読むのは、もちろん娯楽のためだが、それは言葉を変えれば、「より高次元の現実」を求めることである。つまり、我々の送っている平凡退屈な日常を超える娯楽の世界が、我々の求める物語なのである。物語の純文学化は、だから、物語が平凡人のための娯楽であることから一部の高踏的趣味人のための学問・研究課題となったということだ。もちろん、彼らにとってはそれこそが「より高次元の現実」であるのだろうが、それは読者を失った物語であることが多い。
私が栗本薫に感心するのは、彼女がずっと「娯楽としての物語」への情熱を持ち続けていることである。臭い文章や過度の情緒、偏向した趣味など、彼女の作品には欠点も多いが、物語そのものへの愛情と、物語ることへの情熱という点では、彼女は確かに珍しいほどの存在である。「生きた、書いた、愛した」とは、確か、デュマの墓碑銘だったと思うが、栗本薫にとっては、書くことがそのまま生きることの意味であったのだろう。
つまり、物語が作れない人間とは、結局のところ、物語への愛情と情熱をそれほど持っていないということなのである。それはまた人間そのものへの興味がそれほど無い、ということでもあるだろう。物語とは結局は人間の様々な事件であり、人間の事件に興味が無くて、物語への興味があるはずは無いのだから。
だが、もちろん、人間への興味は無くても、退屈な日常への倦怠は誰にでもあるのだから、そうした人間も何らかの暇つぶしはする。漁色、大食、などの悪徳もその一つだ。 -
#280 不適切な訳語
私は、物を書くのが好きなわりには、知識が不正確で、その上面倒くさがりだから、ろくに知らない事でも調べないままで書いてしまう性癖がある。だから、書いたものを公の場で提出することがやりにくい。まあ、私の場合は、書くことで思考の整理をすればそれでいい、というだけだから、書いたものが永遠に埋もれても、それで文句はない。ただ、自分の不正確な知識が、自分だけのせいではないという場合は、少々問題だとも思う。それは、同じような誤解がそのまま社会に流通する可能性が高いからである。
具体的に言うと、エリオットの「客観的相関物」という言葉である。私は、これを、作者がある漠然とした心情や思想を作品として形成する際に、それを具体的な事物の形で表現することだと思っていた。たとえば、「寂しさ」をそのまま「淋しい」という心情語で表現するのではなく、「青い空を漂う雲」のような具体的事物で表現することであろうと。だが、これはその原語が「objective correlative」であることを知らなかったためである。もしもこの原語を知っていたら、「correlative」から「correct」をすぐに連想し、これは「適切な対応物」とするべきだと判断でき、エリオットが「『ハムレット』は、主人公の感情に対応するobjective correlativeが無いから失敗作だ」と言った、その趣旨を、最初から分かっていただろう。(現代では、インターネットのおかげで、無知がすぐにばれるから怖いことだ。) -
#278 禅とは何か
禅宗はもちろん、仏教の一派だが、これは仏教の中で特異な地位を占めている。他の仏教が、釈迦の教えを理解することにその努力を傾けるのに対し、禅宗はそうした他者依存を何より嫌う。つまり、「悟る」ことが目的なのであり、そのために邪魔ならば、釈迦も仏も不要なのである。これが「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ」ということだ。言葉を変えれば、仏とは自分自身が成るものであり、外部に存在するものではない、ということである。「お前たちの肉体の中に『無位の真人』がいる。まだわからない者は、よく見よ、見よ」という臨済の言葉はそれを表している。
では、悟りとは何か。それは心が外部によって脅かされることがなく、いかなる状況でもどっしりと落ち着いたものとなることである。これを心の「性(本性)」と「相(姿)」が一致した状態と言う。我々は日常的に心が動揺した状態にある。だから、不意打ちの打撃に対応できない。禅問答における一見意味不明の応酬は、実は、相手に不意打ちを与え、相手の境地を見るためであり、それがそのまま修行なのである。それ以外に特別な修行などはなく、日常生活がすべて修行なのである。食事も排便も修行なのだ。「徒然草」に、集団生活の決まりに従わない我が儘な坊さんの話がでてくるが、兼好がそれを賞賛しているのは、それが禅的には高い境地の表れだからだろう。「随所に主となる」ことができる人間こそが、禅的に完成された人間なのである。(1月8日) -
#221 眠れる財宝
私はクラシック音楽や古いジャズ、ポップスが好きなのだが、無知と怠惰のために、それらに対する知識があまりにも少ない。しかし、それは世間の人間も同様で、古典音楽や古いジャズ、ポップスについての知識が無い人のほうが絶対的大多数だろう。実は、ここに膨大な宝の山についてのヒントがある。つまり、新しい才能を探すより眠った文化遺産の発掘をしてはどうかということだ。これは商売としても成立する話だ。
クラシックの場合だと、たとえばベートーベンの交響曲だと第五番の「運命」と、第九番の「合唱(付き)」、後は第六番の「田園」くらいがせいぜい演奏されるだけで、それら以上の名作である第七番はほとんど演奏される機会が無い。いや、四番も八番もそれなりの名作であるのだが、我々がそれを聞く機会そのものがほとんど無いのである。演奏会などで聞く曲目というと、いつも同じような曲である。たとえば、ボロディンの「ノクターン」など、名曲中の名曲であるが、演奏される機会は滅多に無い。名高いベートーベンやモーツァルトですら、その無数の作品の中で演奏される品目はほんのわずかなのだから、それ以外の作曲家の佳作の大半は実際に演奏さえされないままに埋もれているのである。なぜ、芸大などの演奏会で、積極的に無名作品を発掘して演奏しないのだろうか。それでは切符が売れない、と言うかもしれないが、こうしたことからクラシック復興の機運が盛り上がる可能性は高いのである。それは他のジャンルでも同様である。
注:この文章を書いたのはだいぶ前だが、その後、「のだめカンタービレ」の大ヒットで、ベートーベンの第七番は飛躍的に知名度を上げた。 -
#212 臨死体験の正体
臨死体験には洋の東西を問わず、共通点があって、そのため真実であると思っている人が多い。だが、死と生ははっきりと隔絶しているのであり、死んだ人がこの世に戻ってきた例は無い。あるのは、死の寸前まで行った人が戻ってきた例だけである。では、そういう人々の臨死体験とは何か。簡単に言えば、夢である。それも、夢であることが意識されている夢、つまり覚醒前の夢に近い夢だ。夢が、起きている間の現実の変形であることはフロイド以来、よく知られている(これを見事に表したのが、アニメの「銀河鉄道の夜」である。あの中の銀河鉄道の車輪の音は、昼間の印刷所の印刷機械の音で、それ以外にも様々な昼間の印象が形を変えて夢に現れている。)が、臨死体験では、自分が死にかかったことが分かっていて、自分で夢を作っているのである。自分が自分の夢を作っているという意識が、自分の死体を上空から見下ろす自分の魂というイメージとなり、また、西欧にも日本にも共通した「死んだ後で川を渡る」というイメージにもなるのである。しかし、そこで自分がまだ生きていることの意識が生じて、その合理化のために川の向こうで、以前に亡くなった親しい人間、祖父母や亡き両親が自分に「元の世界に帰れ」と忠告するわけである。つまり、臨死状態というのは一種の気絶状態であり、眠っているのである。手術などでの臨死状態なら、実際に麻酔で眠らされている場合もある。その浅い眠りの中で患者が作っているのが臨死体験なのである。浅い眠りだから、患者の周囲での人々の発言なども聞いており、それが臨死体験の中で語られる、それだけのことだ。 -
#181 市民としての想像力
現代の様々な社会的出来事、事件や事故を考えると、その多くが想像力の欠如と無知から来ているように思われる。現代の人間は、無数の情報にさらされており、一見、過去の時代の人々より知識が増えているように見えるが、実はその知識は自分の仕事に関する狭い知識と、テレビから得た芸能・娯楽の知識にすぎない。特に欠如しているのが、他人の内面を見抜くという姿勢である。現代人がいかに騙されやすいか、というのは、様々な詐欺事件や新興宗教に入る人々を見てもわかる。もちろん、騙すテクニックそのものも進歩しているのだが、それ以前に、現代の日本人は他人の悪意というものに対して無防備であり、自分を騙そうとしている人々の存在そのものを知らないのである。これを社会的想像力の衰退と言っていいだろう。昔の人間はこれほど容易には騙されなかったはずである。想像力の欠如は被害者だけのことではなく、犯罪の加害者も、自分がこういう行動をとれば、こういう結果になる、という想像が無いまま、粗暴な犯罪を行う例があまりに多い。特に、若い人々が家族や他人を殺傷する事件において、加害者は、犯罪の「その後」を想像しているとは思えないのである。そのたった一度の行為で、自分の一生をふいにするという覚悟があって犯罪に踏み切ったわけではけっしてないのである。ただ、かっとなって、衝動的に犯罪を行っただけなのだ。こういう想像力の欠如は、現代の社会全体にはびこっており、あるいはこれこそが日本社会のすべての問題の根底ではないかとも思われる。 -
#161 物の価値と人間の価値
価値ほど主観的なものは無い。特に美術品の価値など、見る人によって天と地ほどに違うものである。それを利用して、美術品は様々な「錬金術」に使われる。たとえば、織田信長が茶道に凝ったのは、実は茶道具の「価値」が主観的なものであることを利用して、手柄を立てた部下への褒美とするためだったという。つまり、土地には限りがあるから、部下への褒美として領土を与えていたらいつかは追いつかなくなる。そこで、茶道具を領土以上に価値があるものだと思わせて、部下を操る道具にしたわけである。白人が土人にガラス玉をくれて貴重な物産を手に入れたようなものだ。
現代でも、美術品の価値があいまいであることを利用して、政治家への賄賂にすることが行われるという。税務署に対してはあまり価値が無いように見せながら、大金が必要な時は、いつでも金に替えられるわけである。
物質として見た場合の人間の原価は1ドル程度だと言われている。それを利用したショートストーリーがあって、神様が貧しい若者に、1ドル分の願いを叶えようと言う。若者はがっかりするが、翌朝目覚めると、その枕もとに、若者が憧れていた女性が座っていたという話だ。というわけで、人間の価値は金には換算できないのであり、それを金に替えようとするから、「お前たちの値段は1銭5厘(赤紙の郵送代)だ」などという人間蔑視の思想が出てくるのである。
