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私は頭の中身が宇宙的なので、個人的な出来事にはほとんど興味がない。神は存在するか、とか善とは何か、とかいった問題を考えるほうが、自分の日常の出来事について悩むよりもずっと楽しいのだから、精神世界でくらいは好きなことをしていたい。
しかし、それはある意味では贅沢というものでもあって、この世界では、「まず自分の食い扶持を稼げ。話はそれからだ」というのが現実だ。その、食い扶持を稼ぐために、人間は自分のいやな作業もあれこれしなくてはならないわけである。
自分という人間があまりにも現実に適合しないので、私は自己教育の目的で「生活の技術」というハウツー書的文章を書いたことがあるが、偽善を排除して書いたため、一般には公表しにくい内容になってしまった。何しろ、人生で一番大事な技術は「嘘と演技」である、などと書いたりしているのだから。これは私にとっては自明な事実だが、真面目な人間や、その逆に嘘と演技で世間を渡っている偽善的人間には(自分の正体をばらしているということで)許せない発言になるかと思われる。
そのうち、気が向けば、その文章も掲載するかもしれない。生きるのに悩んでいる人間には案外といいアドバイスになるかもしれない。私は偉そうな肩書きも無い底辺の人間であるが、同じ問題で悩んだ先達ではあるから、世に溢れた新興宗教関係の「悩み救済の書」よりはましな文章になっているとは思う。PR -
詩というものは、人生の伴侶である。美しい映画音楽が映画の効果を高めるように、愛唱する詩は生活の伴奏音楽となるのである。
しかし、学校で習う詩のくだらなさのために、世間の大半の人間は、詩を人生の薬味とする楽しみをしらない。
もちろん、忙しい生活を送る現代人が、四六時中、詩を心の中に抱くことはできない。
だが、ふとした瞬間に詩の一節を思い出すのは、生活の時間を美しく彩るのである。
ステンドグラスのはまった丸天井を抜けてくる光のように。
そうした詩の断片を幾つか書いていこう。まずはアルチュール・ランボーの詩から。
「錯乱」より
見つかった!
何が? 永遠だ。
太陽に溶けた
海だ。 (高橋彦明訳)
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。 (堀口大學訳)
「最高の塔の歌」
あらゆるものに縛られた
哀れ空しい青春よ、
気むずかしさが原因で
僕は一生をふいにした。
心と心が熱し合う
時世はついに来ぬものか! (堀口大學訳)
すべてに縛られて
なすこともなく過ごした青春よ、
心がせんさいなばっかりに
おれは生活を失ってしまった。
ああ! 時よ来い、
すべての心の燃える時よ。 (高橋彦明訳)
「幸福」
おお、歳月よ、あこがれよ、
誰か心に瑕のなき? (堀口大學訳)
おお季節よ、おお城よ!
無疵な心なんてあるものか? (高橋彦明訳)
*訳を二つずつ並べたが、その前の訳のほうが、好みの訳である。ある部分では高橋訳が好みだし、ある部分では堀口訳が好みだ。
こうした断片的な詩句のカッコ良さでは、ランボーにかなう詩人はいない。もちろん、ボードレールにもジャック・プレヴェールにもいい詩句はいろいろある。
まあ、いい年をした男がいまだにランボーを読んだりするわけではないが、書斎の本棚に眠る、過去の思い出を甦らすのも悪くはないだろう。
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他人の失敗を見るのは楽しいもので、書かれた記事などでもそういう発見はたくさんある。ブログ上の誤字脱字・文法間違いなどは指摘するのも馬鹿ばかしいほどで、最初からそういうのは気にせずに書いている人も多い。
しかし、印刷・出版された文章となると、たいていは校訂者・校正者の手を経ているから、誤まりの数は少なくなる。それでも、書いた本人は何とも思わずに書いた部分が、読む側からは奇妙なものに見えることもある。
先ほど読んでいた本に、次の一文があった。
「ハーシーは一九四五年に八十八歳で死ぬが、そのときはまだ四十六歳の働き盛りだった。」
もちろん、この「そのとき」は同一文中の内容を指示するのではなく、その一文より前のところに指示内容はあるわけだが、単独でこの一文を見ると、ナンセンスなユーモアがある。 -
夢の話というのは、本人には切実な感じがあるものだが、聞かされる方には馬鹿ばかしいものだ。それを承知で、昨夜見た夢の話をする。
母と娘の二人家族がいて、その二人が冤罪で死刑の宣告をされ、その翌日にはすぐに処刑されることになった。どういうわけか、最後の頼みを聞き入れることができるようで、高校生の娘の希望で芸能人アイドルグループ(「嵐」とかいう連中だ)と面会できることになった。しかも、その「嵐」が死刑の執行までする役割なのである。私自身はその場にいて、その現場を見ているのだが、そこでは何の役割もしていない。ただの目撃者だ。
高校生の娘は、最後にあこがれのアイドルグループに会えて、満足する。その娘と母親の両手に自動車の電気ケーブルのようなコードを接続して、嵐の誰かがスイッチを入れ、母と娘は感電死し、死刑は終了するという夢だ。母と娘に電気が流れた時、ジュッと水蒸気が立ち昇るあたりが、いやにリアルであった。
これだけの夢である。
いったい何の意味があるのか、わけのわからない夢だが、例の高知白バイ事件のように、明らかな冤罪でも裁判官が平然と有罪判決を下し、刑が執行されるというのが日本という国なのだから、冤罪から即座の死刑執行という流れはありえないことではない。裁判員制度で裁判の迅速化が進めば、なおさらだ。
まあ、夢の中でまで社会的な問題を考えているわけでもないだろうから、この夢も個人的な出来事に起因するものかもしれない。うちの娘が最近、「嵐」の出る番組を見ていることが多かったから、たまたまその連中が夢に出ただけだろう。だが、芸能人も含めて、マスコミが大衆支配や洗脳の道具になっているというのは、周知の事実ではある。
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あなたは好きなものから先に食べるタイプだろうか。それとも嫌いなものから先に食べるタイプだろうか。それはどちらでもいいのだが、その理由が知りたい。
私は「分析と解釈」を趣味とする人間なので、物事の理屈というものに興味があるのだ。
たとえば、嫌いなものから先に食べるとしたら、こういう理屈が考えられる。
「私は嫌いなものから先に食べる。なぜなら、最後に好きなものを食べることで口中に残った不快感を一掃し、好きな味の記憶だけが残るから」
あるいは、好きなものから先に食べるとしよう。すると、こういう理屈だ。
「私は好きなものから先に食べる。なぜなら、嫌いなものから先に食べた場合は、好きなものを食べる頃には腹が一杯になっていて、好きなものを食べてもおいしくないだろうから。また、自分が嫌いなものを食べている間に、好きなものを他の人に取られることもあるだろうから。その一方で、好きなものを先に食べれば、その間に、嫌いなものを食べなくてもいいという状況が生まれるかもしれないから」
たかが食べ物のことなら、どちらでもいい話だ。しかし、人生訓としては、後者の態度が有利だと私は思う。人生では、やりやすいこと、好きなことを先にやるのがいいのだ。昔の人間は、「艱難辛苦汝を玉にす」とか言って、刻苦勉励することを価値のあることだとしていたが、実際の世の中では、困難な仕事やいやな仕事は先延ばしにしておくと、状況が変わって、それはやらなくてもいいということになることが多いのである。辛い仕事をやっていたA君と、楽で楽しい仕事をしていたB君が、それぞれ仕事の途中で仕事は中止だと告げられ、それまでの仕事の報酬を受け取るとなれば、どちらが得かはわかりきった話だ。
仕事の内容と仕事の報酬とは比例しないというのが、この社会の現実である。
もちろん、これは一般論として述べたのであり、自分の能力を鍛え上げ、生きるための武器として自らを作り上げるべき青少年の時代には、安逸さへの逃避は、人生の選択肢の幅を狭めることになるのは言うまでもないことだろう。 -
未開人(現代の世界においては、もはやほとんど存在しない概念だが)が近代人にくらべて心の落ち着きがあるのは、彼らに「幻想上の可能性」が無いからである。言い換えれば、彼らは真のリアリストであって、様々なフィクションで心を満杯にした近代人のように自らの可能性についての幻想を抱くことが無いからである。
近代人、あるいは現代人は頭の中に無数の知識を詰め込んだ結果、自分には様々なことが可能であるという幻想を持っている。そしてその理想像(理想の自分)と現実の自分との乖離が彼を苦しめ、悩ませるのである。近現代人の不幸の大半はそこから来る。
希望にのみ生きてはいけない。遠くの星をのみ眺めて生きてはいけない。我々が遠くに見るあの星は、実は数億年も前に死滅した星の偽りの姿なのである。
「昨日は夢でしかない。明日は幻である。だが、良く過ごされた今日は昨日を慰安に満ちた夢に変え、明日を希望に満ちた幻にするだろう。だから、今日というこの日を掴め。」(カリダサの詩を、記憶によって書いたもの。特に最後の部分はうろ覚えである。) -
映画『フィッシャー・キング』の意味するもの
「fisher king」とは「不毛の王国の王。客である騎士の質問により(呪いが解かれ?)王国は豊穣の地となる」という存在である。
映画では、元DJの男、ジェフ・ブリッジスが漁夫王であり、ロビン・ウィリアムズのキチガイ乞食が騎士に当る。この「騎士」と幻想を共有することで、不毛の世界に生きていた漁夫王である男は生きる意味を取り戻すのである。
映画ラストの花火は、この世界が豊穣の王国となったことを意味する。
その時に、二人が真っ裸であるのは、この二人がこの世界で新しく生まれ変わったことを意味しているのである。
*もちろん、これは私の解釈にすぎない。『フィッシャー・キング』は名作なので、見ることをお勧めする。ただし、「考えさせる名作」という奴なので、面白おかしい作品を見たい気分の時には別の作品がいいだろう。 -
・常用漢字の中には、一般人がけっして「常用」しない漢字がたくさんある。「陛」「朕」「后」などの皇室用語と法律用語である。なぜこれらを「常用」漢字としなければならないのか、疑問であり、むしろこれらの漢字が常用されるのは恐ろしい時代なのではないかと思われる。
「子供が誘かいされた」のように書くのは確かに間が抜けてはいるが、子供が〈ゆうかい〉されるのが日常的であっては困る気がする。常用と言うからには、やはり一般人が日常的に用いる漢字に限定するのがよいのではないか。
ちなみに私は「憂鬱」や「薔薇」という漢字は書けるが、「誘拐」の「拐」は書けなかった。なぜなら、私にとって憂鬱も薔薇も日常的な概念や存在だが、〈ゆうかい〉を身近に経験したことは無いからだ。ミステリー作家以外で、「誘拐」という漢字を書ける人間が、はたしてどれくらいいるのだろうか。
・音楽が与える効果(快感や感動)については、計算できる部分とできない部分がある。曲の終わりをシやレなどからドで結ぶ時の安定感や安心感は計算できる部分だろうが、たとえば「ベティ・デイビスの瞳」のキム・カーンズの声の魅力は、計算できないものだろう。けっして美声ではなく、むしろしゃがれ声、かすれ声であるにもかかわらず、聞いて心地よい声というのがあるのだ。トム・ウェイツの声なども同じである。その一方で、オペラ的美声が、何一つ感動を与えないということもある。(これは男性テノールに多い。ソプラノの、『魔笛』の夜の女王のアリアなどの超絶的歌唱になると、やはり感動的である)
注:私は1970年代以降の音楽シーンには疎いので、上に書いたキム・カーンズやトム・ウェイツもかすかにしか知らない。
